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2009/11/03first
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※紀野さんと住吉の皆さまとの邂逅
※沈みゆく豊と手を掴んだ紀野さんと観測者の瑠那
※ツキシロの愛世語りの続き
※大体南紀の件が落ち着いた後くらいのイメージでふわっと感

作業用BGM:清廉なるheretics/毛蟹 feat. DracoVirgo
あいまいなままで失くしたイメージのなかへ


「瑠那ちゃん、本当に大丈夫?」
「いいの、いいの。少しは運動しないと駄目って医者からも言われてるから」
 大体、まだ悪阻にもなっていないし。そう言って私は車を出してくれようとするナルちゃんに手を振った。
 ナルちゃんは小学生のときとあまり変わらない、どこかほんわりとした顔で笑う。
「今度は双子だって聞いたわ。大変なんじゃない?」
「うーん。まあ、子育ての人手ならたくさんアテがあるから大丈夫じゃないかしら」
 マタニティワンピースの上から、若干膨らみ始めたお腹を撫でる。3ヶ月なのにやけにお腹の膨らみが早いのはそういうわけだ。
「魅月ちゃんはお父さん似だから、今度は瑠那ちゃん似かな?」
 我が事ながらどっちに似ようと面倒臭いことになりそうだと思ってしまった。お世辞にも私たち夫婦は性格が良いとは言い切れない。どちらかというとイイ性格してる、と皮肉られる側だ。
 対して小学生の頃から大人しい子供だったナルちゃんは、生家の呉服屋さんにお婿さんを貰って一男一女相手に奮闘している。いつか咲さんが言っていたようにふくよかな撫で肩の彼女は、すっかりお着物がよく似合う若女将になった。
「最初はちょっと怖い人かなって思っていたんだけど、優しいんだね。旦那さん。咲さんもサクヤさんもよくそう仰っているわ」
「あはははは」
 全力でから笑いをしてしまった。アレを優しいと形容するのは、それこそ住吉の実家の私の保護者陣くらいだと思うのだけれど。というか、アレが優しいと定義されてしまったら全人口の何割が聖人君子になるというのか。イタリアの義妹がこの会話が聞かれたら、「何それジャパニーズ・ジョーク?」と返ってくること受け合いである。
 悲しいかな。子供3人になる家庭を余裕で養えて、マイホームを持てて、浮気歴がない男は甲斐性のある立派な旦那様と認められてしまうので、私は大人しく、ぐうと音を上げるしかできないのだ。
「じゃあね、ナルちゃん。また」
「うん。またお茶しに来てね。魅月ちゃんに似合いそうな柄があったら連絡するから」
 会話が噛み合わなくなってしまう前に私はさくさく退散してしまうことにした。大人になっても邪気の少ないナルちゃんは気の置けない友人ではあるけれど、それだけに余計なことをぽろっと言ってしまいそうで怖い。
 夕焼けのときは綺麗に晴れていた気がするのだけれど、呉服店を出ると重たい雲が空を覆っていた。薄手のカーディガンを肩にかけて、日傘兼用の雨傘を開く。持ち歩いていて正解だ。
 一雨に備えて店頭の品物を片付け始める商店街の面々を眺めながら、徒歩10分ほどの実家を目指す。
 途中、品物の扱いを面倒臭がった親父さん衆にあれやこれや押し付けられそうになったが、「妊婦にそんなもの持たせるつもり?」と手で追い払った。
「双子なんやって? 栄養つけんとあかんやろう?」
「出鱈目に栄養つければ安産てわけじゃないんだから。おっちゃんも子供作ってんだからわかるでしょ?」
「駄目駄目。うちのはあたしがおっきいお腹抱えとってもさーっぱりやって、言うても馬の耳に念仏や」
「にしても、あの小さかった瑠那ちゃんがねぇ。いいなぁ。お盛んで羨ましい」
「ははははは」
 おいこら、マタハラで訴えるぞエロ親父。
 との罵声は喉元で呑み込んでそそくさと通り過ぎる。あの手合いは相手にしない方が吉だと割り切れるようになってしばらく経つ。
 結局、最初から持っていた包みひとつのまま商店街の包囲網を掻い潜った私は少しだけ歩幅を広げた。遠くの空でゴロゴロと音が鳴っている。何だか嫌な天気だ。初夏の陽気が嘘のように静かな夜が降りてくる。
 何かと危急だった南紀の件が少し落ち着きを取り戻したというのに、また何か起こっているんじゃないでしょうね。
「きゃっ!?」
 雨音を掻き分けるようにして後方から響いてきたバイクの爆音に思わず立ち止まる。咄嗟に傘でガードしようとしたものの、飛び跳ねた泥水がストッキングと靴をびっしょりと濡らしていった。あーあ。
「?」
 本当に車をお願いするべきだったかも、とちょっとだけ後悔しつつ面を上げると私の脇をすり抜けたバイクは急停止した。
 わお、80ccの外車。イギリスはトライアンフのクラシックじゃあないですか。いや、今はそうじゃない。問題はバイクが急停止した場所だ。私の実家――住吉神社に続く石段の真下だった。
 ゲスト、ということだろうか。織居の家は見た目より結構、門戸が広い。咲さんやきささんがイイ子に目をつけては連れてくるからだ。桜さんに連れて来られた私が言うのだからなかなかの説得力ではあると思う。確か、数日前にきささんが「競馬場でいい男がいたから逆ナンした」とかなんとか言っていたし。
 声をかけようかと呑気に考えていられたのはそこまでだった。搭乗者は蹴倒すようにバイクを乗り捨てて、乱雑にメットを脱いで放り投げたのだ。おいこらちょっと。
「ち、ちょっと!?」
 バイクの修理費用を無意識に概算してしまう自分が少し悲しい。三つ子の魂百まで、とはこのことか。いや、今はそうではなく。
「ちょっと待って!」
 メットを脱いだ男の人が石段を三段跳びくらいの勢いで駆け上がっていくので、追いかける私のカーディガンはびしょ濡れになってしまった。何の用かは知らないが、鶏に頭を突かれるか、鹿に激突されて石段を転げるか、わからない。
 しかし、その男の人は石段の途中で不意に立ち止まった。「シィット!」と訛りのある英語が吐き出された。私はようやく男の人の顔を確認する。
 歳は40に届くか届かないかくらいだろうか。見た目からして東洋人で日本人なので、海外暮らしが長い帰国子女という予想が立つ。小綺麗にしていればなかなかのハンサム顔だと思うのだが、くたびれた感のあるスーツやジャケット、散髪が面倒で伸ばし放しの印象を受ける一括りの髪、無精髭等々がいろいろと台無しにしている。
「あの、ちょっと」
「ああ、すまない。急いでいるんです。後で修理でもなんでも手伝います」
「え?」
 今度はちゃんと流暢な日本語で話すと、いきなり男の人は右腕を振りかぶった。拳を正しく綺麗に固めてボクサーのフォームのように降り抜く。何もない場所に向かって。
 けれど男の人が拳を振り抜いた途端に、ばちっ、と火花が散った。薄い硝子が割れるような音がして空気が震えたような感覚がする。ちょっと待って、この人、今とんでもないことをしてくれたんじゃあないでしょうね?
 私の心配なぞ知らん顔で再び石段を三段跳びしていく男。私は周囲を見渡しながら追いかけた。おかしい。バリケード代わりの雄鶏も鹿もいなくて、しん、と静まり返っている。鳥の声も虫の声も聞こえない。いくら雨だからっておかしい。
 石段を昇り果たしたところで男の人はまた立ち止まった。「ああ、そうか。くそ、いくつもあるのか。どこだ」と一人で百面相している。しばらくきょろきょろした後に、ぐるんと私を振り返って。
「すまない。いや、すいません。ここの池や井戸で一番、源流に近い場所は」
「源流?」
「一刻を争うんです。お願いします」
「たぶん、それなら裏側の古池が」
 あまりにも切羽詰まった様子で尋ねてくるのでそう答えたら、返事もなく走り出す。住吉神社の敷地内はそう狭くないはずなのだが。参拝したことがある? いや、そうは見えない。
 ともかく放置することもできずに追いかける。全力疾走の成人男性とマタニティワンピースの妊婦では速度が違いすぎるけれど、地の利を生かしてその背中を見失わないようにする。
 どこの縁側にも面していないせいで人気はあまりないが、五色沼みたいに青や碧を映す大きな池。ホタルの幼生たちには人気でうるさいくらいルールーとかリーリーとかキーの高い声が聞こえる。でも今はその声も聞こえない。いくら私が音痴だからといって、静かすぎて不気味だ。
 蔵の角を曲がって池に着くと、やっぱりそこは人気なくひっそり静まり返っていた。
 でも、ひとつだけ変なものが転がっている。薄ぼんやりと、けれど確かにぱちぱちと火花を散らしながら輝いている長い光の槍が水辺に投げ出されていた。薙刀じゃないし、明らかに西洋のそれの形状をしているのだけどちかちかする光が邪魔で意匠までは見えない。ここには変なモノがごまんとあるけど、あんなものあったっけ。
「ブリューナク」
 男の人が呟くと光の槍がぐにゃりと歪んだ。白い光が弾けて、ふわりと浮き上がって、今度は不定形の大きな塊になる。理科の実験で作るスライムみたいな。いや、ブリューナク。ブリューナクとか言いました、この人?
『もにーっ』
「君がいるということは、ここでいいんだな?」
『むにっ、むにっ!』
 私にはそのブリューナクとやらの表情は見えない。視えないけれど何だか必死そうな雰囲気だけは伝わってくる。
 ふっ、と一呼吸して再び古池をぐるりと見渡した男の人の目が、何もない一点で止まって見開かれた。
「豊くんっ!」
 うん?
 ジャケットを脱ぎ捨て、シャツやスラックスが濡れるのも構わずに彼は池の水を掻き分け――いや、“搔き集め”始めた。もちろん、私にはそこに何があるのか見えていない。ただ彼が年甲斐もない水遊びに興じているようにしか見えない。
 ユタカ、豊。
 というと、トンすけと同級生の商店街の男の子の、あの子だろうか。よく縁側で猫布団にまみれて昼寝している、あのモノと会話するのが得意な。
 思い出しているうちに、男の人の二度目の「シィット!」が飛んでくる。
「ああ、くそ。また容(かたち)を疎かにしたのか。ヘッドホンも眼鏡も置いてきたのかい? 僕がいつでも助けられると思うな。いや、助けるとは言ったけれども!」
 相変わらず、私には男の人がひとり相撲しているようにしか見えない。
「手を寄こしなさい。そう、5本の指だ。親指、人差し指、中指、薬指、小指。薬指は心臓に繋がっている。脈を打っている。腕に繋がって、関節があって、肩に繋がっている。そう、そうだ。両方だ」
 人体模型を解説するような男の人の言葉を聞いていると、不思議なことが起こった。彼が搔き集めていた水の塊の一部がゆっくり盛り上がって、人の手の形を創り出した。透明で不安定極まりないものだけれど、それを男の人が掴んだ途端、白くて、でもしっかりと血が通った人の手になった。
 そうして男の人が力を込めてその手を無理矢理水から引き上げると、小柄な男の子が真っ暗な池の中から姿を現した。男の人は少しほっとした顔をして男の子――豊くんを抱きかかえると、子供に言い聞かせる親のような声で言った。
「それでいい。戻ってきなさい。ほら、最後だ。“呼吸の仕方を思い出せ”」
 かはっ。
 男の人の肩口に顔を預けていた豊くんが、そこで初めて口から水の塊を吐き出した。そのまま咽て咳き込んで水を吐いていくのを男の人が彼の背中を撫でて、叩いて、促している。ブリューナクと呼ばれたスライムの塊は寄り添うように豊くんにぴったりくっついて離れない。
 唖然としてそれらを見守っていた私の腰元に、本当に小さい衝撃がぶつかった。
「あれは一体何事かな。バンビーナ」
 私の腰ほどの背丈で、キャスケット帽を被った小生意気、いやクソ生意気そうな白子(アルビノ)の少年がチェシャ猫の赤い目で見上げてくる。
「バンビーナぁ?」
「本物に言ってみろと教わったぞ」
「あいつ、いくつになっても私をからかうのに余念がないわけね」
 少年の姿をしているが、これでも彼は桜さんが私のお付きとして頭を下げてくれた古株のホタルである。“本物”であるところの旦那は、私の目に彼が自分の少年期の姿に見えていることをいたく面白がって、時々、要らん知識を吹き込んでは遊んでいる。主に私を。
「あなたにわからないなら、私に聞かれてもわかるはずがないじゃない」
「さっき結界、いや、網の一部に穴が開いた。ちょうど人一人抜けられるくらいの。あいつの仕業か?」
 石段の途中で唐突に拳を振るった男性の姿を思い出す。
「網って何? まさか結界のことじゃ」
「いや、結界は無事だ。破れたのは、ほら、あれだ。よく麒治郎や銀が“よくないもの”を捕まえるために、罠を張っているだろう?」
「ああ。サクヤさんや葵さんが悪いものに感応して動けなくなったら困る、って言ってる?」
「そうだ。住吉の結界と、あいつらの網と、ほぼ重なっているんだが、器用なことに“網”の方だけ綺麗に破れたものだから皆、驚いている」
「その網って具体的には破れたら雄鶏や鹿に攻撃されないわけね?」
「そうだ。その口ぶりだと正解なんだな?」
 今さら母屋の方が騒がしいことに気がついた。敷地内でこんな変なことが起こっているんだもの。あちらこちらにいる超能力者や魔法少女が騒がしくならないわけがない。ばたばたという足音。麒治郎の檄。サクヤさんを守るための網だものね、そりゃあそうだ。
「とりあえず咲さんときささん……は、見てなくても気づいているのかしら。とにかく報せてくれない? あと大人2人分のタオルと毛布」
「お前もだ、バンビーナ。妊婦が身体を冷やすな」
 ぐい、と乾いた半纏と傘を私に押し付けて行ってしまう。だからそのバンビーナはやめろというに。
「やあ、すまなかった。君は、そうか。コード、いや、カシス……ううん、あ、佐伯さんの奥さんだったか」
 何がすまなくて、そうかなのかわからないが、池の中から上がってきた男の人は私にそう話しかけてきた。ころころ呼称が変わる、ということはあいつのクライアントなのだろうか。この人。
 小柄な豊くんをお姫様抱っこしていて。ときどき背中を叩いている。豊くんは意識があるのかないのかわからないが、ときどき苦しそうに呻いて水を吐きながら咳をしている。
「一応、訊きますが救急車は」
「無理なんだ。医者は意味がない」
「ですよね」
 私って救急車が不要な事態に慣れすぎじゃあなかろうか。柳の下で桜さんに拾われたときから、どいつもこいつも、そんなのばっかりである。
「佐伯さんはこちらにいらっしゃるだろうか。できればタオルとこの子を休ませてあげられる場所が欲しい」
「あとで移動してもらうかもしれませんが、とりあえずこっちに」
 細かいことは後で考えることにして、私は捨てられていた男の人のジャケットを豊くんにかけた。頭のてっぺんから足のつま先まで水に浸かっていたのだから、気休め程度にしかならないが。
 私が誘導したのは現在、村主専用のデスクと化している離れの一部屋である。電子機器に水と湿気はご法度だが、まさかこのまま母屋に連れていくわけにもいかない。それにあそこなら私が子供たちを叱りつけて遠ざけているので、いきなり大騒ぎにはならないだろう。
 何で遠ざけているかって? 専用回線ですぐ村主とその妹がイタリア語のスラングで罵倒合戦を始めるからだ。スラム街でひとつの林檎を半分に分け合って生き延びてきたらしい兄妹は非常に口汚い。それも彼らのコミュニケーションのひとつであると理解してはいるが、教育的にはよろしくないのは明らかである。
 とりあえず滴る分の水だけを拭ってもらって、扉を開くと示し合わせたかのようなタイミングで村主がパソコンの電源を落とした。
「よう、てっきりとっくにくたばったかと思ってたぜ。W/K(ダブル・ケイ)」
「はは、無様に生き残ってしまいましてねぇ。直接、お会いするのはざっと10年ぶりですか、ミスタ」
「ふぅん? そういや、そんなになるか? で、そいつが噂のAzurite Blue(アズライト・ブルー)か」
「お会いになったことはなかったですか?」
「挨拶程度にはな。Code:C(コード)として会うのは初めてだ」
 なるほどねぇ、と電子タバコを咥える村主の声は落ち着き払っている。まるでこの事態を予測していたかのような振る舞いである。いつものことだが。忌々しいことに。
「しかし、魔術師さんよ。このド真ん中に飛び込んできちまってよかったのか? いくら俺でもここで隠蔽工作の依頼はご勘弁だぜ?」
「ご心配なさらず。私の方はある程度、腹を決めています。いずれ、ここの方々とは直接話さなければならなかったんです」
「ほうほう。天下の大英図書館に認められた東洋の天才が、まあ、こんなガキに必死になるとはねぇ。アンタ、確か性癖はストレートじゃなかったか?」
「ご冗談は程々に。ご存知の通り、きちんとヘテロですし、この子とはそういうのではありません。ミスタ、奥様の前ですよ」
「いや、こいつのどこまで冗談かどうかわからない下世話な揶揄はどうでもいいんだけど。それより隠蔽工作とか、ここの人と話さなきゃいけなかったって何?」
 村主の嘲笑に乗せたジョークに捕らわれてしまったら、こっちの身が持たない。私はそれよりも会話の端々に聞こえるどうにも不穏な単語の方が気になった。気にしつつも身体は動いて押し入れから客用布団を引っ張り出しているのだから、つくづく馴れって怖い。
「何、隠蔽工作というほど大仰なモンじゃねぇよ?」
「じゃあ、いつものアレでしょ。『聞かれなかったから答えなかった』」
「流石」
「びっくりするほど嬉しくない。で、何を黙っていたのよ?」
「いやぁ、別に。ここの祭神殿を攫って好き放題してる件のヤツの目撃者兼生存者かもしれない青少年の身柄の保護といえばいいか?」
「はあっ?!」
 お前、それはさすがに聞き捨てならない。それは住吉の皆が顔を突き合わせてずっと議論してきた議題だ。しれっとした顔で自論も吐いていた裏で、何をしているんだ。お前、その口で葵さんには世話になってるとか何とか言ってなかったか?
「ミセス、どうかご容赦を。私が佐伯さんに頼んでいたことです。どうお話すればよいかをずっと先延ばしにさせていたのは私の責任です」
「……W/K(ダブル・ケイ)だっけ? あなたのことは何と呼べば?」
「紀野と言います。紀野秀久。話せば長くなります。何といいますか……この子の人命を優先せざるを得なかったというか。言い訳であることは否定しませんが」
 布団の上で豊くんが小さく呻いた。はっとして視線をやれば、次の瞬間にはぱちりと大きな目が開く。いつも眠たげなこの子の目がかっ開いているのを見たのは初めてかもしれない。
 でも、この子の目は綺麗な藤色をしていた気がするのだけど。今はいっそ毒々しくも見える綺麗な青い色をしている。あれだ、理科の実験で絶対に飲んではいけませんと言われる銅水溶液と同じ色をしている。
 豊くんはそのままばっと起き上がると、眉をひそめてからがっ、と紀野さんのシャツの胸元を掴んだ。そこには多少の苛立ちが乗っていて、この子もそんな表情ができるのかと感心してしまった。いつもすやすやと寝ているか、柔和に笑っているかのどちらかしか見ていない気がする。
「……何をしたのか、わかっているんですか。紀野さん。何、他人の家のセキュリティを」
「あっ」
「その顔は忘れていましたね? 馬鹿なんですか? 馬鹿でしたね」
 セキュリティ。雄鶏と鹿の、麒治郎のかけた網のことだろうか。目覚めるなり、そんなことを知っているのだから、やっぱりこの子も超能力者の一人なのだろうか。男の魔女って言われても確かに違和感はないけど。
 舌打ちをして紀野さんから手を離すと、豊くんの目が離れにも掲げてあった神棚に向かった。
「佐伯さん、それください」
 私が台に上がらないと届かない位置にある神棚から、村主はひょいと榊を抜いて投げた。それをすかさずキャッチした豊くんは裸足のまま部屋を出ようとする。
「駄目だ、豊くん。それ以上は大人しくしていなければ倒れるぞ」
「どうせ倒れるなら、やれる無理をしてから倒れます」
 そんな無茶苦茶なことを言う子だったろうか。なんというか、年中、サクヤさんを叱っているトンすけが聞いたら卒倒しそうな台詞だ。
 止めようとする紀野さんに私も加わろうとしたところで、声にしようとした言葉が出て来なくなった。
 離れの敷居を跨いだ途端、豊くんの姿が変化したからだ。
 透明にも見えるすべての光を受け入れる白髪が、腰より長く伸びてふわりと揺れる。顔はあまり変わらないように見えるが、元々中性的な顔立ちだったのか本当に男性か女性か判別がつかなくなった。びしょ濡れの学生服は、いつのまにか真っ白い千早のような薄い衣裳をいくつも重ねて造ったような古風装束になった。真っ白いのに、それが周囲のいくつもの色を吸収して光るものだから、青色に、緑色に、ピンクに、黄色に、木立や花や水の色が全部混ざり合う。
 一歩、歩く度に濡れていた身体から雫がほたほたと落ちる。それが蛍光塗料のように輝いて裸足の足跡を造った。これ、あれだ。咲さんや桐花が舞うときや、都ちゃんが弓をひくときに別人に見えるあれだわ。
「むにちゃん。もうひと働き」
『もにーっ!』
 彼の側には例のスライムが付いて来ていて、声に応えるなり今度はしなやかで上質な竹弓の姿になった。先ほど、受け取った榊を矢に見立て、ふっと息を吐く。両足を60度に開き、曇天に濁る空を見上げて半歩だけ踏み開く。
 ブリューナク。そういう名前で呼ばれるのは日本だけだけれど、確かにあのスライムはブリューナクらしい。アイルランドはケルト神話の太陽神ルーの用いたイチイの槍。槍と称されるがその実、“生きていて自我を持ち、どんな容にも変化する”。
 けったいな生物の実情にも驚きだが、注視すべきは豊くんの弓の引き方だ。私自身は弓道に通じていないけれど、咲さんやトンすけ、都ちゃんはよく弓を引くから構えや作法なんかは覚えてしまった。
 その私が見る限り、豊くんも弓道を嗜んでいるわけではない。綺麗ではあるけれど、より洗練された動きかというとそうではない。つまり見様見真似。でもその見様見真似が、形になってしまっている。何かと器用だから、という域ではなく、まるで弓を知らない豊くんの中に弓を知っている何かが降りているからそう見える、ような。
 冷たい風が通り抜けた。豊くんの髪が吹き上がり、引分けされた“会”の状態にある榊の枝がばちばちと青い火花を散らした。矢が離れる。風が後を押すように、中天へ稲光が迸る。空気が裂ける音がした後、雲を巻き込んで空を貫いた矢が弾けた。
 ぱん、と乾いた破裂音。私は息を詰めていたことに気がついた。
 虫の声が聞こえる。鳥の声が戻っている。ホタルたちの声も。辺りには普段通り、清冽な空気が漂っている。あの不気味な感じはない。母屋の喧騒はますます高まっているようだ。とぐろを巻いていた曇天は去って、上弦の月がさも何もありませんでしたよとばかりに鎮座している。
 雨は、いつのまにか止んでいた。
 そうだ、豊くん。
 視線を空から落とすと残身の姿勢のまま、豊くんの身体が倒れ込んでいくところだった。傾いていく身体を紀野さんがふわりと受け止める。紀野さんの手に届く頃には、豊くんの髪は元の長さになっていて、服も学生服に戻っていた。わずかに見えた閉じる寸前の目も、藤色に戻っていたように思う。
 ほっと息を吐いたとき、背後からどさっと物が落ちる音がした。
「トンすけ……?」
「……」
 こっちの離れには近づくな、って言って置いたのに。茫然として私の肩越しに紀野さんが介抱している豊くんを眺めている。目が、怯えている。足元にタッパーの詰まったトートバッグと、学生鞄と、赤いヘッドホンが散らばっている。
 弓を引いて、倒れて。あ、これってもしかしてまずいのではないだろうか。
「ああ、君か。それは豊くんの荷物か。ありがとう、探しに行かなければいけないところだった」
 トンすけの様子には気がつかず、いや、気づいていても余裕がなかっただけかもしれない。紀野さんは豊くんのものらしい赤いヘッドホンを真っ先に拾い上げると、手早く豊くんの耳に押し当てて電源を入れた。かすかに漏れ聞こえるジムノペディ。この子も渋い趣味してるな。じゃなくて。
「トンすけ!」
 私は慌てて立ち上がって茫然自失で真っ青なトンすけの両肩を掴んだ。「妊婦が冷える夜に何しとんのや」というお叱りが飛んで来ない。
「まだ消えない、って……」
「トンすけ?」
「弓を、引いて、倒れて、馬からふわって落ちて、たくさん人が集まったけど、大騒ぎだったのに、消え」
「トンすけ!」
 ばちん、と両手でまろい頬を挟むように叩いた。勢いで額に頭突きもお見舞いしてやる。「いでっ」と声を上げてトンすけが返ってくる。
「何、する」
「ぼけっとしてないの! 母屋に行って毛布とタオル取って来て! あと熱いお湯! 風呂も沸かす!」
「あ……」
「友だちなんでしょ! やらずに後悔よりやって後悔よ! 手ぇ動かしなさい!」
 動けない人間を動かすには、とにかく目の前の仕事を押し付けてやることだ。やらなきゃいけないことをやらせるだけで、人は少しだけ冷静になれる。
 トンすけは数回、瞬きをした後に無言で頷いて母屋へと走っていった。今頃は咲さんやきささんが各々へ指示を飛ばしているだろうから、やることはいくらでもあるはずだ。私も散らばったトートバッグと平たいくせにやたら重い学生鞄を拾う。
 紀野さんはとっくに豊くんを室内へと連れていったらしい。
 さて、私も身体を冷やしている場合じゃない。まずは着替えて、水分と糖分を補給して、話はそれからだ。胎教に悪い? 私の子供で、魅月の弟妹で、あいつの遺伝子だ。これくらいでどうこうなるものか。
 商店街のお化け屋敷の子で、ケルトの神話の武器を使って、水に溶ける千早を着た男の魔女か。
 うん、なんともちぐはぐだが、今さら何が来ても驚かないとしよう。
 こっちは20年前に柳の下の人魚姫に拾われて、15年前にはマシンガンをぶっ放す美少女に命を拾われて、10年前には天才ハッカーの嫁になってしまった人生だ。肝の据わった女を舐めないでいただくとするか。

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