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※行方不明から帰って来た月城豊。
※1年前の災厄の内側と紀野さんを書くための物語。(豊と紀野さんのやり取りは趣味全開)





『”人喰い神社”は嘘じゃなかったよ』
 うん、この唐突感は間違いなくボクだよなぁ。なんて思いながら僕は隣に座るボクを眺めていた。人喰い神社。あの、住吉神社。なんでいきなり神社が出て来たんだろう。
『喰われた人たちに会った』
「ここで?」
『うん』
 『桐ちゃんとの約束、破っちゃった』とボクが舌を出した。約束。約束。何かしていたっけ。随分と長い時間をかけて僕は小さな彼女が「月ちゃんは知らないでいて」と言っていたことを思い出した。否、知った。
「なんでボクがここにいるのさ」
『うーん。一応? ボクも“喰われた”換算に入る? らしいよ?』
 ボクらしいふわっと加減でそう応えるボク。そうだね。ボクはいつだって住吉神社について騒ぎ立てることもしなかったけれど、偶然の産物だと正義を振り撒くこともしていなかった。事なかれ主義と笑えばいい。白黒つけないカフェ・オレって美味しいよねと、とんちんかんな返答をするのが月城豊だった。
「僕、別にキョウちゃんたちに殺されたわけじゃないけど」
『そりゃあ、トンちゃんのお父さんや桜さんだって身内に刺されたわけじゃないよ』
「トンちゃん?」
『ああ。そっか。“僕”はまだ馴染みがないよね。ボクが一度、ここを覗いたときのあの子』
「ああ、そう」
『怒ってないの?』
「何に?」
『なんかボク、住吉神社のごたごたに若干巻き込まれた感じ? っぽいよ』
「ふぅん?」
 ふわふわとした、そして時々びっくりするほどざっくりになるボクの解説曰く、僕を刺した“あれ”は住吉神社から大層なお宝を奪っていったヤツらしい。そのお宝が奪われたときに、ボクが知っている住吉神社の“1回目”の神隠しが起きた。お宝がないせいで神社の中核的な守る力がどんどん弱っていった結果、“2回目”の神隠し。これがトンちゃんのお父さん。ということらしい。
 で、“あれ”がもう一度あの土地に戻ってきて余波で“3回目”の神隠しが僕に当たってしまったと。結果的にはシズクが身代わりになったわけだけれど、全部が全部を埋められるわけもなく、“生きている実感”、“記憶を持つ豊”、“月城豊の15歳までの人生”的なものが失われた。それが目の前のボクに当て嵌まるらしい。何ていうかな。分裂した魂の方が目の前のボク、一応現世に生きている抜け殻の方が僕。
『怒らないね』
「怒る必要も気力もない」
『だーよね』
 『僕ならそう言うと思った』と目の前のボクはきゃらきゃらと笑う。怒るってエネルギーの消費が半端じゃないんだよなぁ。昔から怒るという行為に向いていなかったはずなのに、今怒ることができるとは思えない。結果的になんかそういう解釈ができるってだけで別に神社の人たちに殺されたわけじゃないし。
『桜さんはボクを残酷やね、っていう』
「なんで?」
『怒らないのは非道いことなんだってさ』
「どういうことさ」
『怒らなかったら許してもらうことも仲直りも出来ないから。あと純粋に子供は拗ねたり怒ったり泣いたり喚いたりするものらしいよ』
「よくわかんない」
『まあ、お前はゼロ歳だもんね。そりゃそうだ。15歳のボクでもいまいちよくわかんないし』
 何も怒ってもいないのに許すもないし、壊れてもいないのに仲直りもなんかおかしいと思うんだけど。あれ。同じようなことをずうっと前にも思った気がする。気がするだけでやっぱり実感がないけれど。
「どうにかしなきゃいけない、っていうなら、神社じゃなくて“あれ”の方なんじゃない?」
 結構、考えなしに呟いた一言に魂の方のボクはぴくりと反応した。真顔で見つめられて変な気分になる。僕がゲシュタルト崩壊する。あ、もう一回崩壊済みだった。
『それだよ』
「うん?」
『お前、どうしたいの』
「……わかんないよ。強いて言うなら、割と今はどうでもいい。っていうか、考えたくない」
『嘘だね』
「何が」
『わかるよ。自分のことだから』
 これまでの豊が、これからの僕の何を知っているというんだ。こっちは母親の手の温もりも、泥んこになるまで幼馴染と遊んだ疲労感も知らないのに。スリーポイントシュートのロマンと達成感も、ツツジの蜜の甘さと蟻んこが紛れていたときの絶望感も。お前がいないせいで僕はぽっかり、虚ろなままだ。
『そう思うなら何故、怒らないのさ』
「だからそれは」
『怒らない。違うな。じゃあ何で“あれ”の正体について語ろうとしないの?』
 ぎくり、と心臓が軋んだ音がした。それは僕だけが知っている。ボクしか知らない。僕も、ボクも、知ってしまった事実。
 住吉神社を襲って、大切なお宝を盗んだ“あれ”。
 神社に怒らないのなら、憎むべきはそちらのはずだ。なのに、僕らが“あれ”にさえ腹を立てていないのは、身体を、存在をすり替えられたあのときに“あれ”の正体を知ってしまったからだ。だから僕らは怒らない。というよりも。
『“あれ”の言いたいことはさ、ある意味正しいよね』
 そう。そうなのだ。“あれ”はとても正しいのだ。ある意味では。けれども、正論というのはいつだって最も凶悪な暴論である。だってそうだろう。地球上から確実に正しいと思えるものだけを拾い上げたら、そこには何が残るというのだろう。そんなのゼロ歳の僕だってわかる。
 “あれ”はそんな類の正論なのだ。
『それをさ。住吉の人たちが知ったら、どう思うのかな』

 目が覚めた。随分と高い日差しが瞼を焼いた。
 安いベッドから身を起こすとタイミングを計ったように紀野さんが顔を出した。
「遠出をしていたようだけれど、どこに行っていたんだい?」
「……わかるんですか?」
「なんとなくね」
 魔術師ってこわい。そしてその手に握られているフライパンはもっとこわいから、急いで起き上がって取り上げた。着替えもせずにキッチンに立った僕を制しようとする紀野さんを、きろりと睨む。そういうのは真面なベーコンエッグのひとつも作れるようになってから言ってくれ。
 とぼとぼという擬音が似合いそうな足取りで紀野さんは小さいテーブルに戻っていった。何ていうか駄目な大人を絵に描いたような背中だ。その駄目な大人に拾われた子供が言うことではないけれど。
「訊きたいことがあるんですけど」
「ん、何だい?」
 果物かごにある林檎を弄んでいた紀野さんに声をかける。頼られたことが嬉しいのか、若干、声のトーンが上がっている。子供か。
「もしもの話ですけど」
 温まったフライパンに卵を落としながら続ける。空っぽの記憶でも目玉焼きくらいは焼ける。ターンオーバーはちょっと難しいけれど。
「“あれ”を倒したら、“僕”ってどうなるんでしょうね」
 少しだけ浮かれていた様子の紀野さんが固まった。それはもう綺麗に。おそらく背中には冷や汗が流れている。
「それは、“あれ”を、殺したら、という解釈でいいのかな?」
「うん」
「……」
 紀野さんは思い切り眉間に皺を寄せた。情操教育を終えていない子供を見る目つきだった。
「豊くん」
「物騒な話はやめなさい的な説教は要らないです」
「“あれ”を殺しても君の身体と魂の記録は戻って来ない。そのシズクさんという精霊も戻らないよ」
 それは判っていると思っていたのに、少しだけ落胆している自分がいた。ぜんぶ悪い夢だったらいいのに、という想いが僅かだけ沈殿していたらしい。まあ、いいか。無気力症候群でも爪の先ほどの期待というものは持てるようだ。ちりちりとベーコンの端が焦げる音が耳につく。
「質問に答えてもらってないんですけど」
「……」
「僕は、“僕”はどうなるのか、と聞いたんです」
 “ボク”が戻ってくるか、なんてことは訊いていない。そう言外に含むと紀野さんは唇を真一文字に引き締めた。
「言いたくはないけれど、本来の世界軸に従うのならば“君”という人物は既に死んでいる。だからこそ“戻る”――“生き返る”という摂理は無い。そもそも今の君の存在自体が奇跡のようなものなんだ」
「だから?」
「おそらく奇跡によって歪められた世界軸が修正される」
「具体的には」
「“月城豊”は正しくあの日に死んだことになる。今の“君”に何も影響がない可能性は、限りなく低い」
「低い?」
「……。ない、だろうね」
 紀野さんは本当に日本人だ。あまりとか、まあまあとか、ぼちぼちとかが得意。白黒つけないカフェ・オレがどうのと言ったものの今の僕が欲しているのは希望的観測でも曖昧な優しさでもない。
 正しく死ぬ。ということは、つまり、そういうことになるのだろう。シズクが皆の頭の中から消えたように。世界は正しい軸に修正される。ゼロ歳の、正しくない僕は、たぶん。
「ねえ、紀野さん」
 考え事をしていたら目玉焼きの黄身が少し固くなってしまった。まあ、いいか。これくらいの方が美味しい、って思ったし。15歳のボクは半熟が好きだったな。僕は、目玉焼き以前にスクランブルエッグの方が美味しく感じる。ああ、考えていてまた落ち込んだ。戻れない。僕は永劫、あの15歳のボクにはなれない。
「ほしいものが、あるんですけど」


『可哀想だと思う?』
 平べったい笑顔でボクがそう訊いてくる。今夜もまた唐突だ。自分のことだからそれが住吉の神社の人たちのことだって解るけど。傍から聞いたらエスパーの会話だ。
「さあ。どうだろ。っていうか、そういう尺度で考えていいのかよくわかんない」
 正直にそう応えた。何だろうな。例えば僕が住吉神社に生まれた子だったとして、赤の他人である汚い骨董屋の子供に「可哀想」なんて言われたくないと思う。
 住吉神社は社と神職の役目だけじゃなくて、近所の奥さんや子供たち相手に着付けとかお裁縫とかの教室を開いている。学校だって少なくとも僕よりは真面目に行っているだろう。こうなってしまう前から生きることに希薄だった僕と比べたら、よっぽど生に貪欲だ。間近なところに死に別れがあるせいなのかもしれないけれど。
 そうして懸命に生きている人に可哀想って、どうなんだろうか。
 ほら、頑張っている人に「頑張って」って言っちゃダメなやつ。
 優しくもなく、コミュ障の僕だから「そう思うなら代わってあげれば」とか言いそう。いや、言うより先に代わってしまったことになるんだろうか。この場合。
『昨日の質問の答えは出た?』
「質問」
『お前が隠していることを住吉の人たちが知ったらどう思うだろうね、って』
「住吉の人間じゃないから知らないけど。たぶんね。4回目が起きちゃうと思うよ」
『さすが僕。思考回路は一緒だ』
 一介の魔術師である紀野さんの答えと住吉の人たちの辿り着く答えは一緒なんじゃないかと思う。”あれ”をどうにかしたらここにいる”僕”に影響しないなんてことは在り得ない。そういうことになってしまったら、“あれ”をどうこうしようとしなくなっちゃうか、ずっと遠回りの道を考え始めるんじゃないかな、って。そう思う。
 それは。なぁ。正直。
「どうかと思ってしまうんだよなぁ」
『ボクもそう思う』
 だって。ね。生きたいと思ってるんだもの。今現在。あの人たち。実感は伴わないけど抜け殻の僕だって覚えてる。咲也さんや桐花ちゃんが何かしたい、って思ってるの。何かって何かだ。将来何になりたいかとか、あんな職業やってみたいとか。そういうキラキラした何かだ。その何かのために麒治郎さんやトンちゃんがどうやってか叶えられないか奔走しまくってるの。知ってる。覚えてる。
 それと万年無気力症候群の”死んだ”人間ひとり。ボクも僕も何がしたいかなんてわからない。わからないし、興味が薄っぺらなんだ。何か目的を持って高校やら大学やらを選ぶ人間の方が実は圧倒的に少ない。ボクはその圧倒的多数側だったし、僕は……わからないや。だって生きているか死んでいるかさえ足元がおぼつかないんだ。ほら、秤にかけるのも馬鹿らしいほど生産性ははっきりしている。美しい言葉で言えば自己犠牲。蓋を開ければ自暴自棄の自己満足。うん、知ってる。
『元々ね、いなくなることとか、死ぬってこととか、あんまり興味なかったんだよ。痛いのはキライだけど』
「知ってる」
『ただね。ボクが死んだらクソジジィは仏壇に縋り付いて泣くだろうし、弘ちゃんは馬鹿みたいに怒る。あとはあの馬鹿親2人も飛んで帰って来てうっざいだろうね』
「うん。それはイヤだな、って思う」
『ついでにね、桐花ちゃんも泣いてるって』
「えー、なんで。シズクが消えたから?」
『そっちもボクも』
「っていうか住吉の人は覚えてるんだ」
『まあ、ボクがここにいるし』
「そうだった」
『だからさぁ』
 波間に寝そべった僕の顔をボクが覗き込む。深淵を覗いたとき云々、ていう話が頭を掠めた。何だか昏くて冷たいものに触れているような気がする。でも、寒いという感覚はない。僕が本来なら冷たい死人だからかな。
『考えが、あるといえば、ある』
 お前がやるかやらないかは自由だけど。


「紀野さん。果物ナイフってある?」
「うん?」
「りんご」
「……うん?」
「りんごを、切ろうと思って」


「なんでイヴは林檎を食べてしまったのかな」
 眠ると碧の世界に落ちるようになってから3晩目。先に口を開いたのは珍しく僕の方だった。
『なぁにそれ。蛇にそそのかされたからどうの、ってヤツ?』
 僕の下に仰向けに横たわったボクが返事をする。これ以上ないほど穏やかな笑顔だった。僕らの耳にはゆっくりと厳粛にジムノペディ第3番が流れている。昨日までは水の戯れみたいな、雨だれみたいな、そんな音がずっと鳴っていた。でも今晩はジムノペディ。最もよく耳にするのは第1番だけれど、この第3番がなかなか心を不安にさせる。
「蛇はきっかけを作っただけだと思う。蛇が何もしなくとも、イヴはいずれ林檎を食べてしまっていたよ」
『なるほど。じゃあ答えは好奇心だ』
「そう。猫が死んじゃうやつ」
 そういえば弘ちゃんはよくボクを猫みたいと言ってたね。そうだね。そう言って僕らは笑い合う。
「神様はきっとそのことも知っていたと思う」
『どうせいずれ食べちゃうって?』
「そう。だって神様に似せて作ったというのなら、神様がその好奇心を知らないわけがない。それに本当に食べられたくないのなら一番いい方法がある。なのにそれをしなかった」
 林檎なんて口実だよ。結局、神様は最初からアダムとイヴを楽園から追放するつもりだったんだ。イヴが楽園を追放されずに済んだ方法。林檎を食べずにいられた方法。そんなのひとつしかない。
「『林檎なんて最初から無ければ良かった』」
 果物ナイフを振り上げてボクの上に乗り上げた僕と、凪いだ目をしてそれを見つめるボクの声が唱和した。
 ”あれ”の希望は端的に言えば世界の変革だ。こう言うと恰好良いけど平たく言えば世界の滅亡。なんかさ。戦争だの、エネルギー汚染だの、独裁主義だの、いろいろ繰り返しまくっている世界が嫌になったみたい。だから一度壊してみようっていう、最近のゲームのラスボスの思考っぽいやつ。
 短絡と言えばそうかもしれない。けれど言うだろう。馬鹿は死ななきゃ治らない。人間の場合は死んでも治らない。そういう世界に疲れたんだろうよ、”あれ”はね。楽園から突き落された絶望を受け入れられなかったイヴ。ただそれだけだ。
 ボクと僕がある意味で正しいと言った理由がわかってもらえるだろうか。地球上という尺度で考えたときに最も有害な生物は人間だろう。大して強くもなく、繁殖能力も特別高くない我々が、こうも世界にのさばろうとは原始時代の神様方は考えなかっただろうさ。
『“あれ”が本気でそんなことを考えているのなら』
「世界を滅亡させるほどのエネルギーを集めている」
『世界を滅亡させる程度の力があるというのなら』
「できるよね」
『できるだろうね』
「林檎のひとつ」
『人間(ぼく)のひとり』
「『無かった世界にするくらい』」
 シズクの記憶は中途半端に残ってしまって、僕を含めた誰かしがに傷をつけた。そしてその死を悼むことも出来ない事実に絶望した。住吉神社から宝物を奪った“あれ”が成敗されるとき、それが今度こそ僕が消えるときだというのなら。この無力感を、声に出せない絶望を、僕は誰かに与えるのだ。
 驕りだと言う勿れ。たった15年。されど15年。僕は確かに母の子宮を痛めつけて生まれてきたのだ。そんな記憶は僕にもボクにもないけれど、生命の神秘を感じる心くらいは知っている。その生命を、僕たちはひとつ、無駄にする。最初から正しくない存在なら、もうどれだけ間違っても構わないだろう。
 振り上げたナイフの切っ先を、まるで愛しいものでも見るかのように見上げて“ボク”らは言う。
「“あれ”を殺すのは僕かな。できるかな。住吉の人たちに、させたくないな」
『その気持ちひとつだけ持っていけばいいよ。覚悟なんて、きっとナイフを振り上げたら勝手に出来る。現にお前はこうしてる』
「それもそうか」
『大丈夫。世界が正しく戻るだけ。お前は失敗しない』
「うん。失敗しない。本当に“あれ”の集めたエネルギーがあるなら」
『シズクのときみたいに中途半端にはならない。住吉の人たちも、きっとボクらを忘れることができる』
「それならクソジジィは仏壇に縋り付いたりしないし、弘ちゃんは怒らないし、馬鹿親2人は僕らに注いだ分の愛をどこかの恵まれない子に注ぐ」
『大団円だ』
「大団円だね」
 その為にはまず、15歳のボクが居てはいけない。無かったことにしなければならない。始まりの林檎を、摘み取らないといけないのだ。だから。
「自分にごめんね、って変かな?」
『さあ。でも変な子扱いは馴れてる。お前もすぐに馴れるよ』
「そうか。そうだね」
 ゆっくりと苦しみをもって。
(僕はボクの首に手をかける。締め上げる。つらいだろう。苦しいだろう)
 ゆっくりと悲しさをこめて。
(けれどきっとそう遠くない未来に、お前と同じ場所に逝くのだろうから。悲しくない物語にしてみせるから。今は)
 ゆっくりと厳粛に。
(迷うことなく最期まで、止めを、確実に)


 


 じゃあ、ボク。ごめんね。さよなら。


 


「さようなら、僕。大丈夫。お前はボクではないから、きっとなんにでもなれる」
 たとえ未来に消えてしまうとしても、この刹那、僕たちは確かに生きていた。
 ボクの喉元に突き刺さったナイフの感触は、恐ろしいほど軽く感じた。水へ溶け合うように”ボク”の身体が形を失っていく。綺麗に笑ったまま、ボクは溶けて泡になる。同時に僕の中身がもっと空っぽになる。けれどそれは虚しい空っぽではなくなる。これから何かを詰め込むための空っぽへ変わる。パステルカラーで彩られていたカンバスから色彩をがりがり削り落とすかのような行為。
 ”ボク”が溶けるとあおのカーテンが粒子になって色を変えていく。どこか沈んだ藍を含んだ“あお”が剥がれ落ちて、鮮やかな竜宮城の煌く珊瑚と魚たちの水色に包まれていく。
 ああ、そうか。そういうことか。僕はやっと気がついた。ボクは桜さんやトンちゃんのお父さんに会ったと言っていた。けれど僕は何度眠っても彼女たちに会うことはなかった。ピンポイントに”ボク”がいるだけの“あお”に放り投げられた。
 シズク、さん、が言っていた記憶がある。波長が合う、ということはテレビやラジオのチューニングを合わせることと少し似ている、と。そうか。お前自身がノイズになっていたのか。本物の竜宮城と波長を合わせないために。だから僕はボクとだけのコンタクトを許された。ボクには僕と桜さんたちを会わせる意思がなかった。僕らが望んだ、この結末に辿り着かせるために。
 最後の粒子が綺麗な泡になって消えた。澄んだ魚たちの歌声が聞こえる前に、耳に、頭に響くジムノペディが一際大きく鼓膜を揺らす。掻き鳴らされるピアノがチューニングを狂わせる。緞帳が下ろされるように僕は竜宮城から追い出される。もう音しか聞こえない。
 弾き出される瞬間に誰かの呼び止めるような声が聞こえた気がした。もしかしたら桜さんか、トンちゃんのお父さんか、もうずっと前に消えてしまった誰かかもしれなかった。でも僕に確かめる術はない。
 さようなら。たぶん、僕はもうこの場所には来ないだろうから。


 ばちん、と頬を叩かれて僕は覚醒した。涙が乾いて睫毛が痛い。
 ベッドに片膝をついた紀野さんが、悲しそうな、怒ったような、泣いているような顔で僕を覗き込んでいた。頬を叩いたのは彼だろうに、まるで叩かれたのは自分であるかのような表情をして唇を噛んでいる。不細工。そろそろ血が出るよ。そう言おうとしたら、腕を引っ張られて抱き締められた。紀野さんの腕はぶるぶる震えていた。煙草臭い。
「なんてことをしたんだ、君は、なんてことをしたのか、解っているのか!?」
 もう君はキミに戻れない。二度と。そう言った。知っていた。
「やめることと諦めることは違う。君が今したことは諦めることだ。取り返しがつかない方だ。何で、君は選んでしまったんだ……!」
 おかしいの。赤の他人であるはずの紀野さんが誰よりも怒っている。泣いている。僕がボクを殺したことを。
「ねえ、紀野さん」
「君は何を」
「戦い方を、教えてよ」
 ひゅ、と紀野さんが息を呑んだ。
「僕と同じ顔をした誰かが悪さをしているわけでしょ。じゃあ、僕にとっての敵は今の瞬間にも増え続けていると思うんだよね。逆恨みでも何でも。同じ顔って理由でさ、刃物とかピストルとかを向けられたら、次の瞬間にはまた死んじゃうよ。理由は知らなくても、ううん、理由なんて無くても、そうなってしまうことを僕は学んだ」
「豊、くん」
「だからさ。自分くらいは自分で守らないと、きっと生きられない」
 ”ボク”との約束を果たすその日まで。
 紀野さんにもらったチューニングを狂わせるヘッドフォンから延々とジムノペディが流れていた。
 ゆっくりと苦しみをもって。
 ゆっくりと悲しさをこめて。
 ゆっくりと厳粛に。
 生まれた僕にどうかおめでとうと声をかけて。その啜り泣きを嬉し泣きだと思い違いをさせて。この時間を、見ている世界を、運命だと笑ってほしい。
 この数奇で滑稽な愛世を語らせて。







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