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ただそれだけの、モノ語りだ。
※都内で相次ぐ連続自殺事件を多方面から語るモノ語り





 鳥の声が綺麗な朝でした。
 何の鳥が鳴いているのか尋ねてみました。キビタキだと聞きました。白い男の子の家では毎年、春先になると冬の間に余った果物を庭の物干し竿に刺して、彼らへお裾分けしていたそうです。
 去年はサボってしまったから、帰ったら怒られるなぁ。なんてのんびり言っていました。
 エビや水草の名前もわからなかった私ですが、その鳴き声と名前は忘れないと思います。
 退院するその日、ひとりの大人と男の子に付き添われて、とても親切にしてくれたお医者さんや看護師さんに見送られて、久しぶりに思い切って顔を上げてみました。
 空がとっても青くて、ちょっとだけ涼しい風が吹いていました。鳥の声が綺麗な朝でした。
 久しぶりに顔を上げて見た世界は、とっても綺麗で、思っていたよりずっと気持ちの良いものでした。私はこの日に見上げた空と鳥の声を、一生忘れることはないでしょう。



「はい、どうぞ」
 ことり、と目の前に置かれたマグカップからとてもいい匂いがした。
「あ、ありがとうございます」
「紀野さんのあの子も人が悪い。今日が退院だと知っていたら、うちで退院祝いの花を包んだのに」
「大宮寺さんに任せると余計なひと手間を混ぜられそうだから、と言っていましたよ」
「なぁに、その偏見。失礼だな」
 私の車椅子を引いた紀野秀久さんが私を連れてきたのは、小さな花屋さんだった。小さな、と言っても温室と花を飾る棚があるから小さく見えるだけで、本当はそこそこ大きいのかもしれない。
 紀野さんというのは、あの男の子の親代わりという人で、私の入院から退院までの面倒を全部見てくれた大人の人。ちょっと不精なというか、自分の身なりに気を使わないというか。そういうところはあるけど、とってもいい人なんだなってういのは、この二週間で充分理解できた。
 人間不信になりそうだった私がちゃんとこうして外に出られるようになったのは、真っ当なカウンセリングの先生のおかげもあるけど、紀野さんやあの男の子がずっと私を気遣ってくれたからだと思う。
 花屋さんでエプロンを着ていた綺麗な男の人は、私と紀野さんを見るなり、お店の小さい休憩スペースを空けてくれた。紀野さんと男の子とは知り合い?ともだち?だそうだ。花屋さんは年齢も性別もちょっとはっきりしないくらい綺麗な顔立ちだから、何の縁があっておともだちなのか、よくわからないけれど。
「あ、あの」
「ああ、ごめんね。珈琲は駄目だった? カフェインはドクターストップとか?」
「えっと、駄目というか……あの、ぶ、ブラックがちょっと苦手、で……」
 恥ずかしくてまた俯きそうになったけど、ぐっと我慢した。もう無理なことはしないって、決めたから。
 くすくすと笑った花屋さんは角砂糖のポットとミルクの小瓶を出してくれた上でこう言った。
「苦いなと思ったら淹れてくれて構わないけど、できれば最初の一口だけそのまま飲んでみてくれないかな?」
「この人は趣味でバリスタに弟子入りするような人だから、人柄はともかく、珈琲は美味しいと思うよ?」
「地味に喧嘩売ってます?」
 コーヒーメイカーのそれとは確かにちょっと香りが違う。なんていうか、もっとフルーティ。コーヒーにフルーティって思う日が来るとは思わなかったけど。(ずっと後になってそれを言ったら「コーヒーは元々フルーツなんだけど」と言われて二度びっくりしたのは別の話だ)
 ひざ掛けを落とさないように両手でカップを持ち上げて、香りを吸い込みながら、一口だけ啜ってみた。ふわり、といい匂いが舌全体に広がっていく。
「苦くない……」
「ね?」
 苦くない、どころか渋くもない。すっきりしてる。コーヒーというより、フレーバー付きの紅茶を飲んでるみたいだった。ちょっと感動で声を出せずにいると、レジにもたれながら花屋さんがぼやいた。
「一滴、一滴、丁寧に入れてるのにさぁ。紀野さんやそのお弟子くんは遠慮なく砂糖やミルクをどばどば淹れてくれるんだよねぇ。まあ、本人に美味しく飲んでもらうことがもてなしだからいいんだけど」
「僕とあの子はねぇ。一年、生活するにつれて考え方が似て来たというか。ほら、珈琲とか紅茶って砂糖とミルクを淹れれば立派にカロリーと栄養分を補えるじゃないか」
「誰がうちでサバイバル演習をやれって言うんですか」
 カップを傾けるフリをしながら、少し笑ってしまった。お茶菓子として出てきたレモン風味のマドレーヌも美味しくて、思わず2個めに手が伸びてしまう。
 美味しい珈琲。美味しいお菓子。何だか幸せな気分になってしまって、じわりと滲んだ涙を見られないようにそっと拭った。
 病院で目が覚めたら、あの日から3日も経っていた。
 それもびっくりしたのだけど、目を開けた瞬間、世界がまるで違って見えたので私は軽くパニックになってしまった。
 病院の個室で寝かせてもらっていたのだけど、天井がなかった。ううん、正しくは天井や天井を支えている鉄筋を突き抜けて空が視えた。その空も私が知っているような色ではなくて、太陽は変に黄色くて、ぎらぎらしたオーロラが空全体を覆っているような光景だった。悲鳴を上げて暴れた私に気づいた看護師さんが駆けつけてくれたけれど、そこでも私は悲鳴を上げた。
 看護師さんの顔が見えなくて、代わりにレントゲン? 人体模型? ともかく骨とか内臓とかが透けて視えて、また気を失ってしまった。
 再び目を開けると神妙そうな顔をした紀野さんと男の子が私を覗き込んでいた。彼らの顔がちゃんと人間に見えたのでとても安心してしまった。
「透視の魔眼か。何かしがの発露はあると思っていたが魔眼とはね。魔術師か魔法学者は、それを潰すのは愚行と喚くのだろうが」
「紀野さん」
「そんな目くじらを立てなくとも、わかっているよ。これは僕が何とかしよう」
 紀野さん曰く、透視の魔眼とは本来、人が目にすることが出来ないもの、あえて目に触れさせないよう脳が防護しているものを視てしまう眼のことを言うのだそうだ。人が物を認識するということは、そもそも視覚できた電気信号が脳に伝わって、経験と常識に裏打ちされた情報が云々。ここの説明が私では理解が及ばなかった。男の子が紀野さんは頭が良くてもプレゼンテーションが絶望的に下手だと呆れていた。
 男の子が簡潔に教えてくれたことをそのまま引用すると、私はあり得ないほど向上してしまった視力を紀野さんの暗示? 魔術? で通常のレベルに設定し直している状態、らしい。
 それでもときどき遮蔽物に気がつかず壁やカーテンにぶつかってしまうので、病院ではすっかり看護師さんに顔を覚えられてしまった。目や脳の検査をいっぱいすることになったが、男の子曰く、解析できるものではなく、徐々に馴れていくしか道はないらしい。
 変わってしまった私の眼だけれど、紀野さんや男の子のケアがあったせいか、私自身はそんなに絶望しなくて済んだ。視力が落ちた(実際にはとても良くなっているのだけど)とでも思えば、あれだけの事態になった代償としては気にするほどのことじゃないと思えた。
 そんなことより不安だったのは、両親のことだ。お母さんはわからないけれど、お父さんは私の親権を持っている。あのアパートの家賃だって、病院の入院費や検査料だってお父さんから出ることくらい、私も知っている。
 だからお父さんにはどうしても一度は会わなくてはいけないのだ。気が重かった。
 でも、紀野さんも男の子も、そんな私の心配なんてお見通しだったみたいだ。
 お父さんとお母さんは離婚以来、揃って私の病室に来た。そして病室でやっぱり喧嘩になった。勝手に入院させたのだから入院費用はだとか、児相にはどんな説明をだとか、そんな話。半分以上は聞き飽きた話のはずなのに、ずっと心臓が痛かった。
 黙って聞いていたら、ふいに紀野さんが立ち上がった。男の子が私の手を握ってくれて、私は自分の手がひどく冷たかったことに気がついた。
「ご両親の意志はわかりました。また後日、お話を伺わせていただきます。今日のところはお帰りください」
 そう言って深々と頭を下げて、さっさと両親を閉め出してしまった。私がびっくりしていると、彼は私にもすごく深く頭を下げた。
「すまなかった。日本の親権は強固でね。どうしても権利者と一度は話をしなければならなかったんだ。本当にすまない」
 そんなことを言われるとは思わなかったので、あたふたしていると男の子が病院近くのお高めなケーキ屋さんの名前を言った。苦笑いして出て行った紀野さんが帰ってきたときには、3人分のケーキが入った白い箱を提げていた。私の焦りも恐怖も、男の子が淹れてくれた紅茶に溶けてしまった。
「里菜ちゃんが良ければだけどさ、君、京都にくる気はない?」
「え?」
「さすがに赤の他人が親権を取るのは無理があるけどさ。監護権の委託くらいなら、実績があればどうにかなる気がするんだよね」
 男の子は元々京都に住んでいる子だったらしい。私たちの一件を片付けるために、帰郷せずあのウィークリーマンションに留まっていたのだとか。男の子が実家に帰るのに合わせて紀野さんも京都に住み始めるらしい。
「強制することではないんだけどね。君のその眼の具合も、無視はできないし。馴れるまでは目の届く範囲に居てくれた方が私も対応が利く。どうかな?」
 正直、それまで私は紀野さんがちょっと怖かった。紀野さんがというより、自分より身長が高い男の人が怖かったのだ。でもそのとき、妙に安心してしまった。先生はお父さんからお金を貰っているから、私に優しくしてくれていた。紀野さんは何の得もないのに、何の責任もないのに、私を守ろうとしてくれているのだと理解した。
 涙ぐんでしまったことを隠すために、私はケーキを口いっぱいに頬張った。
 後日、私の京都行きの件はあっさりお父さんから許された。やっぱりという喪失感が無くはなかった。少し、いや、とても寂しい気持ちにはなったけれど、誰もいないところで泣くだけ泣いたら、何だかやけにすっきりしてしまった。誰もいないと思っていたけど、紀野さんも男の子も実はちゃんとドアの外に待機してくれていたと後で知った。
 両親のこと、ストーカーのこと、それから自分で自分の身体を痛めつけた馬鹿なこと。きっと一生気に病んでしまうのだろうけど、それでも何とか生きていたいと思えるくらいには、ほんの少し前を向けた気がしたのです。



 退院と同時に京都に行くことが決まっていた。
 急行だけど、男の子の都合で早めにあちらに行かなければならないらしい。卒業はできないかなと思っていたのだけど、単位や条件を満たしていれば卒業証明書はもらうことができるそうだ。あの日から紀野さんと男の子に助けられてばかりで申し訳ない気持ちになるのだけど、本人たちがケロっと「何が?」みたいな顔をするので困る。
 紀野さん曰く、私の面倒を見るより男の子の世話を焼く方が何倍も大変だとのことだけれど、意味はまだよくわからない。
 まだよくわからないけれど、私なりに新生活に張り切っている自分がいる。
「でも、この時期に引っ越しなんて空いてる業者探すの大変だったんじゃない?」
 花屋さんが自分も珈琲に口をつけながら言った。
「大丈夫です。荷物、そんなになかったから。ほとんどのもの、あっちで揃えていいって紀野さんが」
「へー。紀野さん、女性の知り合いにも乏しいのに?」
「事実だが余計だよ。そういう方面はあの子の方が強いから、お祖父さんのツテで信頼できる女性にお願いしてくださるそうだ」
「なるほどね。でも、まだ車椅子の状態で大丈夫?」
「あ、それは大丈夫です。えっと、歩けないわけじゃないから。念のためくらいで」
 車椅子に乗ってはいるが、別に足を骨折しているとか、歩けないとか、そういうことではないのだ。まだ馴れない視界の中で歩き回るのは危険だからと紀野さんが用意してくれたものだった。あんまり甘えてしまうと、本当に歩けなくなりそうだから歩きたいのだけど。
「あっちに行ったらあっちの学校を目指すのかな?」
「ええと。あの、そのつもり、ではいるんですけど……。私、まずは何でもいいから働いてみたいな、って」
「そうなの?」
「はい。あ、あの、紀野さんたちはお金の心配はしなくていい、って言ってくれたんですけど。私、大学とか専門とかで何がやりたいかとか全然イメージも出来てなくて。とりあえず、何がやりたいか考えてみたんですけど」
 つっかえつっかえで要領を得ない話し方だと思う。でも、花屋さんも紀野さんも私の言葉を待ってくれていた。
「とりあえず、自分がちゃんと稼いだお金で生活してみたいな、って。そりゃ、家賃とか考えたら全部が全部自分でっていうのは難しいってわかってます。でも、なんていうか、自分で働いたお金でちゃんとご飯食べて、ちゃんと生活してみたいなって思って」
 花屋さんはちょっと驚いた顔をした後で、朗らかに笑ってくれた。
「うん。いいんじゃないかな、それ。出来そうで出来ないことだし、決めようとして決められないことだ」
「そう、ですか?」
「自立とはね、親が子供にやらせたいことを実現させることじゃない。子供が自分のやりたいと思うことを土台からきちんと作っていくことだ。それは簡単に見えてなかなか難しい」
 なんだろう。そんな風に言われたことなどなかったから、少し気恥ずかしい。ひとりで百面相していると、紀野さんがやれやれといった感じで肩を落とした。
「そういう君も、今年が成人式だったはずだけど。なんなんだろうね。大人として、君を見ていると妙に自信をなくす」
「えっ、二十歳!?」
「紀野さん……」
 思わず声を上げてしまったら、花屋さんが恨めしそうに紀野さんを見た。花屋さんはなんというか、高校生と言われても納得するし、翻って三十くらいと言われても驚かないような、そんな顔立ちをしている。ううん、顔立ちだけじゃなくて仕草とかのせいもあるのかな。とにかく私とふたつしか違わないようには見えない。
 花屋さんはその話題を逸らしたいのか、わざとらしく咳払いをした。
「ところで、当のあの子はどこに行ってるんですか?」
「ああ」
 結局、砂糖とミルクをたっぷり入れた珈琲を啜って紀野さんは微笑した。
「後始末と、最後の挨拶をしてくるそうだ」



 咲き始めだった梅の花はもう零れるほどに花を開いていた。
 だというのに人気はなく、太い幹の根元には缶のジュースやらほつれたぬいぐるみやら、見覚えのある花束なんかが散らばっている。
 梅の香りが漂う中で清酒を一杯でも引っかけられたら、それはそれは美味いのだろうが、残念ながらそんな気分にはなれやしなかった。清酒の代わりに俺が持っていたのは、馴染みの花屋で購入した一輪と線香一本だけだ。その線香だって火元になっちまうので灰皿で消さなきゃならねぇ。
 まったく、本当になんだってこんな満足に焼香もしてやれねぇ場所を選んでしまったんだか。
「なあ、こんなところでジサツってのはそんないいもんじゃないだろ?」
 手を合せて上げた視線の先では、ゆらゆらと首だけが伸びた若い娘が揺れている。梅の香りに死臭が消されるわけでもなく、特有の嫌な具合に甘ったるい匂いがする。
 まさか通りかかる全員にぶらぶら揺れる娘が視えているわけでもあるまいが、花が咲いても人ひとりいない寂しい場所になってしまった。
 自殺者が出たと報道された場所で呑気に花見、なんて思考にならないヤツが普通なんだろう。だが、こんなとき、高山がいつか言っていた「人は誰でも第六感を持っていると感じる」という言葉がやけに現実的に思えてしまうのだ。理屈や一般論で不謹慎と語られるだけではなく、人々はなんとなく触り難い気配を察知して、こんな場所を忌避しているのかもしれない。
 揺れるだけで返事をしてくれない骸の前から立ち上がって、なんとなく、自動販売機でポタージュを2本買う。
 俺の勘は昔から滅多なことじゃ外れない。今日、ここを訪れたのは、そんな気がしたから。
「こんにちは」
「よう」
 果たして勘通りにすべての始まりだった少年は姿を現した。あのときと違うのはコートを羽織らず、パーカー姿ででかいキャリーケースを引きずっていることくらい。目立つヘッドホンは新調したらしい。
 ポタージュの缶を投げてやると、少年は難なくキャッチして首を傾げた。
「チョイスは勘弁しろよ。俺はお前の好みを知らねぇからな」
「ふつうって言ったのに」
「あーだこーだ文句言われるよりふつうなもんのがマシだろ?」
 確かに、と少年は何の疑問も口にせず笑った。躊躇いなく缶を開けた少年はあのときのようにベンチで寛ぎながら、のんびりと中身を飲み始めた。
「後輩さんは?」
「あれから見舞いに行ったら目が覚めて、今はケロッとしてるそーだ。母親と西から親戚の叔母が飛んできて世話んなってる」
「で、女性同士の会話に邪魔なおじさんは追い出されて今に至る?」
「この野郎」
 白い頭を軽く叩くと、少年はけらけらと笑っていた。あの夜に視たものを幻とは思っていない。神性を纏った少年の姿を美しく思わなかったわけじゃない。ただ、こっちの方が断然いい顔をすると俺は思ってしまう。地に足がついているからだろうな。
「ただソイツも今回の不調が何で起きたのか不思議がってる。いや、違うな。何つーか、変な事件が起きて具合が悪いのはいつものことだけど、何で急に回復できたかわからねーって顔はしてやがった」
「言っても良かったのに。僕、別におじさんに口止めとかしてないよ? 内容がアレだからそのまま言うのは確かに気が引けるけどさ」
「ま、そのうち、それとなくな」
 病院のベッドで不思議がる高山に話す選択肢がなかった、と言えば嘘になる。内容に気を遣うなら、別に高山本人じゃなくて母親や親類に言ったって良かったのだ。けれど、なんとなく言うのは憚られた。それも勘だ。なんとなく、今、言うべきことでもないと感じた。
「遊馬の野郎は8人の自殺に関与したとして書類送検。ただし、証拠が不十分なのと本人の心神喪失が認められて不起訴になりそうだとよ」
「確かに表向き8人の少女は自殺でしかないからね。呪いや祟りで立件なんて、この国じゃ期待できないし」
「なんともやりきれねぇ話だな。だが、お前さんの最後の話、アレは割と俺も気に入った」
「何の話?」
「お前さんが啖呵切っただろ。人は生まれたときに自分だけの世界をひとつ創り出す。ってヤツ」
 少年は「ああ、あれ」と軽く頷いた。
「死んだお祖母ちゃんの受け売りだよ。そのとき僕は2歳で、以来なんとなく心に留めてる」
「良い祖母さまじゃねぇか。墓と仏壇を大事にしろよ」
「うん。僕ね、生まれたときから不思議なものはよく視えてたんだけど、家族にはそういう人、ひとりもいなかったんだ。みんな理解はしてくれたけど。だからお祖母ちゃんは僕のことが心配だったんじゃないかなぁ、って思ってる」
 ポタージュの缶から口を離して、舞う花びらの向こうで揺れる少女を見遣る。
「社会的に不起訴になったとしても、今の遊馬の世界には何が映ってるのか、ゾッとするね」
 奴が今、どんな地獄で生きているのか。それは俺にも少年にも関係のない話である。同情の余地はない。ただ、そんな世界しか創り出せずに閉じていく地獄の向こうにいる奴を思うと、哀れには思った。少年が言っていた通り、あんな形でしか美しいと思えるもの、愛しいと思えるものを見つけられなかった男。
「お前の視ている世界では美醜は問題じゃない、みたいなことを言ってたが」
「?」
「美しいものは美しいって言った俺の世界を、お前はどう思う?」
 少年はうーんと少し悩んだ後、傾げた首を揺り戻しながらゆったり答えた。
「あんまり気にならなかったかな」
「ほお?」
「遊馬の美しいは理解できなかったけど。だっておじさんはほら、アレじゃん」
「どれだよ」
「例えば日本和紙とか染め物とか綺麗じゃない。でも、それを造ってる人たちの手って結構荒れたりしてるじゃん。水仕事だし。でもおじさんはその職人さんの手ごと美しいって言っちゃうタイプじゃん」
「お前さん、恥ずかしげなく言うタイプだよな。ってか、何こっそり俺んとこの雑誌チェックしてんだ」
「えー、おじさんが僕なら楽しめるかもしれないって言ったんじゃん!」
 自分の住んでいる世界をそっくりそのまま他者に見せる、なんてことはきっと不可能なことなんだろう。それでもこうして自分の世界の一部を共有して語り合うことは、自分の世界の思い出にすることができる。俺はそう思う。
 ぐしゃぐしゃ髪をかき回す俺の手を丁重に払って、少年はベンチから立ち上がった。飲み終わったらしい空き缶をあのときのようにゴミ箱に捨てる。キャリーケースを引くかと思った手をパーカーの内側に忍ばせた。
「お前さん、それ」
 中から出てきたのはどこかで見たことがある刀の鞘だった。ただずっと短く、懐刀のような形になっていた。
「古い知り合いの刀鍛冶にお願いしてさ。僕が扱うことを条件に、本人……本刀? に許可をもらったんだ。刃は潰してあるからナイフの代わりにはならないんだけどね」
 短い鞘を抜いて少年は梅の木に歩み寄る。開かれた瞳に水色の光が灯った。速度を上げて梅の根元を蹴るとしなやかに跳び上がり、真上に刀を振るう。刀は鮮やかに少女の首と梅の枝を結んでいた太い縄を切り裂いた。
 少年が地に降りると同時に、縄の幻影はするりと枝から離れて散った。少女の身体は巻き上がる花びらと共に風船のように飛ばされ、やがて大気の中へ融けて消えていった。
 梅の香りが静かに、穏やかに戻ってくる。どこかでキビタキが鳴いていた。
「あの子はどうなる?」
「さあね。あのときも言った通り、この子は縁を斬るだけだ。僕に出来ることはここまで。呪いの一部として他者を苦しませるだけの本物の亡霊になるか、それとも遺族の執り成しできちんと成仏して安らかに逝けるか。それは彼女次第だ」
「そうか」
 少年は大樹の方に向き直り、あのときのようにそっと幹に手を添えた。そしてほんのりと笑った。とても慈愛満ちた、安らいだ笑みだった。
「お疲れさま。想(おも)かっただろう?」
 ああ、カメラを持って来なかったなと惜しく思う程度には、美しい絵だった。
「そうだ。最後にお願いがあるんだけど」
 そんな笑顔を一瞬で消して、今度はあっけらかんとそんなことを言ってくる。何気に軽く最後とは、言ってくれる。
「この子、名前がないんだよね。というか、昔の名前は使いたくないって。でも僕、そういうの苦手なんだよね。愛称はともかく、他者に名前を授けるって何か重たくて」
「重たいもんを他人に担がせるかね、お前さん」
「案を出してもらうだけだってば。何かいい名前ない? そのまま縁切とかじゃ、なんか可哀想じゃん」
 馴れた手つきで刀を遊びながら訊いてくる。コイツ、本当に俺の知らないところでしょっ引かれるんじゃねぇかと不安を募らせる。いや、ガチで一回や二回は既に経験ありそうだとコイツの親代わりの大変さを勝手に想像した。
「そうだな。『転生』ってのはどうだ?」
「『転生』?」
「安らかに逝ける可能性もあるんだろ? あの子も。ソイツも職人の手で生まれ変わった。どうだ? どんな形でも希望が持てるのなら、その方が幾分か素敵だ」
 ぱちぱちと瞬く藤色の眼が神妙そうに刀を見ている。何気ない発想だったが、少年自身にも何か思うところがあったらしい。じっと刀を見つめていると思ったら、やがて静かに深く頷いた。
「そうだね。うん。もらうよ、その名前。よろしくね『転生』」
 何とも奇妙なものだ。俺たちはお互いの名前も知らないのに、新しいモノに名前を与えている。奇妙だが、何故だか悪い気はしない。
 ちん、と澄んだ音が鳴った。刀が鞘に収まる音だったが、それが『転生』からの返事のように聞こえた。
 丁寧な手つきで『転生』を仕舞い直すと、少年は今度こそキャリーケースのハンドルを持ち上げた。その上に舞い散る花びらだけが少年がここに居た証になる。
「ゆうちゃーん!」
 公園の入り口の方から少女の声が聞こえた。目を遣ると車椅子の少女とその車椅子を押す少年の親代わりだという男がいた。俺に気がつくと少女は深々と頭を下げ、男の方は軽く会釈する。
「何だ、お前さんも隅に置けないな。連れていくのか、あの子」
「放っては置けないからね。何よりオサキを内側に抱えている以上、東京にいるのはあまりよくないし」
 否定も肯定もしなかったことには、突っ込んでいいのやら。いや、やめておこう。そいつは勝手に再会のお楽しみにしていた方が面白い。
 梅の花が舞う下で、雪と共に消えなかった少年は振り返る。
「じゃあね、おじさん。楽しかったよ。もう会うことはないと思うけど」
「――いや」
 少年は最後まで名乗らなかったし、俺の名前を訊こうともしなかった。あの夜に聞いた名前はもちろんノーカンだ。自分で名乗ったわけじゃない。
 俺も訊こうとしなかったし、自分から名乗ることもしなかった。
 少年は最初からそのつもりだったのだろう。また会うこともないから、知らないままでいいと。それが少年が欲しがった心地よい距離感てヤツなのかもしれない。だが、俺が名乗らなかったのはもっと別の理由だ。
「また何処かで、だ。お前さんとは、またどこかで繋がる機会がある。そんな気がする」
「そういう台詞は女の子に言うものじゃないの?」
「茶化すなよ。これはただ俺の勘だ。そして俺の勘は大概、外れない」
 少年が呆れたように息を吐く。だが、そこに拒絶のような色はなかった。
「わかった。じゃあ、そのときはまた何か奢ってね」
「おう。達者でな」
 今度こそ、少年は踵を返して歩き出す。遠ざかっていく小さな白い背中を掻き消すように花が降る。あんなに儚く見えた背中だが、不思議ともう一度、どこかで出会うという予感が俺を満たしている。
 背中を最後まで追わずに、梅と向かい合う。カメラは持っていないが、指フレームで囲った中には少年が最初から最後まで守りたかっただろう景色があった。


 これが、俺が雪の降る春に少年に出会った話のすべてだ。
 雪と共に街に降り立った少年が、ひとりの狐の少女を救ったかもしれない。ただそれだけの、モノ語りだ。




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