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2009/11/03first
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はっきり言って“ボク”はそういうの、反吐が出るほど嫌いだった。
※都内で相次ぐ連続自殺事件を多方面から語るモノ語り


 寄る辺のない場所を漂っている。
 身体の感覚がない。視界を動かし、四肢を動かすという感覚が、もう里菜にはないのだ。ずっと温い水に浸っているような、でも身体がないから、どうやって温度を感じているのかもわからない。
 意識だけ。心だけ。相原里菜とい自己認識だけが、消化されずにかろうじて残っている。ときどき、自分のものじゃない記憶が、思考が入り混じる。里菜はビルの屋上から飛び降りていない。線路に落ちていない。大きな木の下で首を括っていない。
 ――ああ、そうか。
 なんとなく、理解する。これは、あの8人の少女たちの記憶だ。
 8人の、寄る辺がなかった少女たちの記録。こんなに明るい街に居たのに、誰にも気づいてもらえなかった孤独。とてもつめたい、過ぎてしまった物語。
 もう里菜には泣くこともできないのに、どうしてこんなものを見ているのだろう。
 いや、きっと彼女たちは誰かに知って欲しいだけだ。
 ――私が、視えなくて、聞こえなかった、だけ。
 あるいは、視ようとしなかったんだろうか。聞こうとしなかったんだろうか。……それは、罪になるのだろうか。
 目の前に、先生が立っている。先生の向こう側に、あの少年が立っている。少年の後ろには付き添うように男の人が立っている。
 ――私はどうなったんだろう。
 そう思っても、指先ひとつ動かせない。
「水は流れるもの、風は吹き抜けるものだ。そんな匂いに周囲をうろつかれたのでは、オサキの生成が遅れるのも理解できる。君は一体、何者だ?」
 先生の声がする。あんなにも幸せで、胸がどきどきしたのに、今はただ空しさだけが去来する。里菜は、いや、”私たち”はけして欲張っていない。ただ、先生の患者でいたかった。みんな、それ以上なんて望んでいなかったはずなのに。
「僕のことはどうでもいい。あなたのやりたかったことも、あなた自身のことも、どうでもいい。興味がない。ただその子を手元に置かれるのは困る。だから解放してもらいにきました」
 その子。解放して。
 ――私の、こと?
 何故。
 あんなに、突き放してしまったのに。
「困りましたね。せっかく大願が叶ったというのに、正直なところ想定外です」
「あんた、なんでこんなことをした? その子をどうするつもりだ?」
 強い感情を剥きださない少年の代わりに、男の人が怒気を孕んだ声で言った。私たちのことで、怒ってくれる大人がいる。それが少し嬉しい。
「どうにもしませんよ。私が望んだのは、かの女神がこの地に体現してくださること。それだけです」
「それだけだ?」
「ええ。あなた方の目にも見えているでしょう。どうですか? この美しい姿は!!」
 先生の声が上擦った。姿というのが私たちのことを差しているのは、なんとなくわかった。でも何故だろう。私たちはみんな、彼に恋をしていたはずなのに、誰も嬉しいとは感じなかった。
「人は醜い。街に光が溢れるにつれて、人の心はどんどん醜くなっていく。姿も、形も、有り様も! そんな人間でも、手を加えて、手をかけて、搔き集めれば、ご覧なさい! これほど美しいものを創ることができる!!」
 ざわざわと8人分の思考が揺れる。嘆く。叫ぶ。その声の高さに相原里菜という意識が霞んで見えなくなりそうなくらい。
 ――私が、私でなくなる。私は、私たちは。
「これほど素晴らしいことがありますか? これ以上の証明がありますか? 汚れた人の手でも、こんな醜い街でも、これほどの絶対的な美を著すことができた! 人は、人間は、まだまだ美しいものになれる!!」
 ――そんな風に、綺麗になりたかったんじゃない。
「ふざけるな」
 男の人が、はっきりとそう言った。
「そんなもの、所詮はお前の自己満足の自己保存でしかない。そんなものは美しいとは言わねぇ。俺はな、美しいと思えるものをこれまで無数に見てきた。写真でも、実物でも。目には見えないものでも。はっきり言ってやる。お前のそれは、ただの駄作だ」
「駄作?」
 嗤いながら先生が言う。喉の奥で震わせるような、嫌な嗤い方。
 そうして無言だった少年に焦点を合わせる。
「君はどうです? 芸術作品に論争はつきものでしょう?」
「どうでもいいよ。あなたの創作秘話は、途中で飽きたし。大体、人間が美しいか醜いかなんて、僕はどうだっていい。正直、僕にはあなたの言うことも、あなたの思想も理解できない」
「私の思想?」
「どこにも行けない人は確かにいる。でも、それは彼女たちじゃない。彼女たちはあなたが創った箱庭にしか居場所がないと錯覚させられた、ただの被害者だ」
 かきん、と少年の手元でジッポが鳴った。
「ああ、でもひとつだけ感謝してる。好きなものが見つからないなら、嫌いなものを見つけてみろと言われて、僕はよくわからなかったんだ。けれど、ようやく思い出した」
 少年は耳にかけていたヘッドホンを手にかけて、雨水の溜まる地面へ落とした。じわりと水に浸食されていく。一度、髪をぱらぱらと振った少年が面を上げた。
「はっきり言って“ボク”はそういうの、反吐が出るほど嫌いだった」
 白い髪の奥で、深い水の色を湛えた瞳が爛々と燃えていた。



 目の前にジッポが投げられて、大江は反射的にその銀色を捕まえていた。
 翳した手をどかした刹那、息を呑む。気の持ちようで髪形や目の色が変わる人種がいることは知っていた。おそらく、少年もまた、その類と同じものなのだろうとも。
「ソレの使い方は覚えた? 正直、本気を出すのに邪魔なんだ。おじさんに預けるね」
 ジッポに編まれた簡単なサークルは視えていたので返事をする。
 確かに邪魔だろう。ジッポに描きつけられた印は炎と雷の形をしている。対する今の、秒で様変わりした少年から漂ってくるのは、清廉された水の匂いだ。本当は、少年に“本気”を出させないように細工されたのかと勘ぐってしまうほど。
 透明度の高い白髪が腰まで伸び、吹き上がった冷たい風に揺れる。濡れていたパーカーはいつのまにか真っ白な薄布を何枚も重ねた古風な衣裳に変わっていた。足元は白袴。シロ、というがそれは真昼の海が青く見える理論と一緒だと、何故か感覚的に理解した。
 本当は何の色も持っていない。水と同じ。だから、光の反射と屈折によって本当は何色にも見える。青にも、赤にも、緑にも、黄色にも。水に吸収されない青い光だけが、燐光のように瞳に映っている。
 だが。
「……お前さん、人間をどこに置いてきた?」
 見た目が変わる人種なんて、大江は何人も見て来た。だからわかる。その姿の少年から、漂ってくる人間の匂いが薄すぎる。ないのではない。薄い。
 少年は一瞬だけ大江を見た。ひどく淡い微笑だった。何かを諦めたような笑みだった。
 大江が何かを言う前に、少年は跳んだ。猫のような瞬発力で宙を駆けると金色に彩られたキツネへと接近する。青白い狐火が弾け、火花が散った。少年を焼き払わんと打ち出された炎は、雨に消えることもなく燃え盛る。
「少年!」
 しかし、悪意ある炎は少年に達するより先に風に煽られて四散した。少年はキツネを超えると、宙に浮いたまま細腕を遊馬の方へ伸ばす。が、遊馬が一歩退いて何かを手繰る所作をするとたちまちキツネが間に入り込む。
 苦い顔をした少年はそのまま再度、キツネから距離を取った。
「面白い。面白いですね、君は! どこの神を吸収して手に入れた? それは九尾でも手間取るはずだ!」
「ああ、五月蠅い。耳に触る」
 一緒にするな、と言ってもいない少年の文句が聞こえた気がした。
 今度はキツネの方が仕掛けた。しゃらり、と鈴の音を鳴らしながら長い袖が舞う。その袖の奥から奇妙に曲がって尖った爪が覗いた。青い炎の渦が弾ける。爪が閃く。
 ぱしゃり、と少年が水溜まりを踏む。人の背の高さまで巻き上がった飛沫が大きな粒になり、炎を食べて薄い水の膜を造る。爪はその膜を貫通して、最小限しか避けなかった少年の衣裳の袖を引き裂くが、少年は涼しい顔で逆にその手を左手で掴んだ。
 じゅ、と熱したフライパンに水をかけたときのような音がした。少年の眉間に皺が寄る。
「――里菜ちゃん。聞こえるか」
 キツネと生った少女の眼は硝子玉のようで、どこも見ていない。能面のように眉も睫毛も動かない。が。
 ――やめて。
 はっきり少女とわかる声が、直接、頭のど真ん中に響いた。大江は少し驚いたが、もっとも驚愕したのは遊馬の方だったらしい。
 ――やめて、お願いやめて! 私は、私たちはこんなことしたくない! 逃げて! 人殺しなんてしたくない! 自分が死んだって、君を殺すことなんてできない!!
 それはあまりにも切なる響きで心を侵食する叫びだった。
「馬鹿な。まだ発露できる意識が残っているはずが」
 ――いや、いやだ。うごいて、うごいてよ! 私の身体なんだから動きなさいよ! この……っ!
「里菜ちゃん。落ち着け!」
 遊馬の動揺を綺麗に無視して、少年は腕を捉えたままキツネの少女に呼びかける。その初めて聞いた強い語気が届いたのか、脳に響く声が大きく揺れる。
「……痛い? ごめんね。僕がしくじった」
 ――なんで。痛いのは、アンタでしょう。手を、放して。手のひら火傷しちゃう。痛いでしょ。何だかわからないけど、私が悪いのはわかる。なんでアンタが謝るの。
「本当に困っているときは、君を助けたいと言った。僕は平気で嘘を吐ける人間だけど、ただ他人を傷つけるためだけの嘘は吐きたくない」
 自分の心臓に自分で棘を突き刺す少女の腕を、少年は殊更、強く握った。傍目でもわかるほどに、水と炎の匂いに焦げた嫌な匂いが混ざる。
「里菜ちゃん、君は、どうしたい?」
 ――。
 ぴん、と高い、超音波のような聴こえない音がする。それが泣いているように聞こえたのは、大江だけだっただろうか。
 ――助けて。
 泣いているけれど、はっきりと、少女はそう言った。
 ――こんなこと言えないの、知ってる。でも、ちゃんとあなたにお礼を言いたい。あと、今度は、私が料理、する。英語も、ちゃんと最後までやってみたい。
 神様めいた絢爛なキツネの姿が、少しだけ移ろって、元の少女と重なった。
「わかった」
 少年は安堵して言った。
「もう少し、辛抱してくれ。我ながら存在自体が嘘くさいとは思っているけれど、どうか信じて欲しい」
 ――……うん。
 少年が腕を放してその爪を水飛沫が弾く。右手で左手を抑える。キツネは無表情、無感情のまま、少年から距離を取る。
 未だに狼狽えているらしい遊馬と少年が小さく笑った。
「呪術師としては成り上がりだね。呪物がばら撒かれていると知っていて、僕が何の妨害をしなかったとでも?」
「……君は」
「純粋な恋心に、文字通り水を差すのは気が引けたんだけどね。でも踏み躙るよりは幾らかマシ。だから僕自身の髪を“お守り”に混ぜた。九尾を形にするのに熱心過ぎて、気づかなかった?」
 キツネの動作は遊馬の意に沿っているらしい。憤怒の表情で再びキツネの爪が少年を裂く。だが、その爪は深く脇腹を抉ったように見えて、派手な水飛沫を上げただけだった。
 ぴちゃん、と降りしきる雨が抉られたはずの箇所を補填していく。
「お前、一体どうなっている!? まさか、身体全身が水と同化しているとでも言うつもりか!?」
 遊馬の口調が崩れた。同時にキツネから放射状の炎の塊が出鱈目に飛んできて、少年は宙を蹴り、大江はジッポを鳴らして炎弾を弾いた。
「盲いた目で視えると豪語するのはやめた方がいい。確かにこの身体は特別性だ。あなたが思うよりずっとね」
 駐車場に留まっていた車の上に立った少年が乾いた目で遊馬を見下ろした。
「僕を本当に殺したいなら、神殺しか不死殺しでも連れてくるといい。さすがにそこまでされれば、きっと易いことでしょう」
 そう水色に瞬く瞳は、確かに魔性染みた神性を帯びていた。
 その目に充てられたのか、それともさらに激情を煽られたのか、遊馬はまたあの糸を引くような仕草をする。ヤツを庇うように合間に立たされたキツネは、硝子の眼のまままた炎を吐き出した。
 少年は薄布がはためく度に湧き上がる水飛沫で応戦するが、それはひどく一方的な防戦に見えた。
「あの下種野郎。呪術師として三流でも、戦い方は知っていやがる」
「そうみたいだね」
 いつのまにか大江のところまで退いていた少年から返答があった。
 神格同士の戦いだ。下手に動けば邪魔にしかならない。そう悟っていた大江はなるたけ動かず、流れ弾をジッポで弾くを繰り返していた。その大江の元まで下がってくるということは、明らかな劣勢を意味していた。
「不逞上に卑怯な野郎だ。気にくわない」
「それは同感」
「お前さん、ちゃんと勝算があるんだろうな?」
「勝つつもりはないよ?」
「こんなときまで言葉遊びはやめろ。なんとか出来るのか、って話だ」
「たぶん」
 頼りない返事だ。だが、そう笑った顔が元の少年そのまんまで、少しだけ安心した。
「ともかく、おじさんはそのジッポを使い続けてて。今できるのは好機までの時間稼ぎだ」
「時間稼ぎって、お前さんなぁ……」
「ここまでついてくると言ったのはおじさんだよ」
 それを言われるとこちらはぐう、と唸るしかない。
 キツネの周囲に狐火が燈る。大江はジッポを構え、少年は飛ぶ。少年の目が瞬く。大気が揺れる。雨が、風が、渦を巻いてその気流に乗るように少年は宙を駆ける。炎は風に煽られ、形を変えて自ら水へ沈んでいく。水と風。2つを纏いながら、自在に変化する。
 まるで舞踊のようだと大江は思った。少年が飛沫ひとつ立てる度、それは波紋と音になって荒れる焔を包み込む。雨垂れが少年の髪に肩に降り注ぐ度、弾けた音は綺麗な光になって少女の金色を沈めていく。
 焦れたキツネが袖の下から爪を振るう。その禍々しい一閃を、少年の目が貫いた瞬間、また大気が鳴動した。爪先が逸れて空を切る。
「……なるほど。確かに君は私なぞより余程、鍛錬を積んでいる。それは認めましょう」
 意地になってキツネを操っていた遊馬が、歪んだ笑みを少年へ向けた。少年は宙を舞うのをやめて、その視線を真っ向から受け止める。
「彼女を解放する気になった?」
「いいえ? 第一、解放って。私は九尾の完成を希求しただけです。元に戻す方法なんて知りません。君も解っているのではないですか?」
「何を?」
「彼女を、私を止める方法なんてありません。それこそ、かの玄翁和尚が殺生石にしたように、彼女の中のオサキごと彼女の頭を金槌で砕きますか!?」
 また空気が揺れる。けれど、この揺れは少年が発したものではない。キツネの、少女と少女たちが上げた声のない悲鳴だ。
「何様なのかな、本当」
「なに?」
「元に戻す方法を知らないと無知を認めているのに、止める方法がないないと言い切れるなんて。それこそ滑稽というものだ。人をただ醜いだけのものとしか見てない。なるほど。あなたの生きている世界は、きっととても荒廃した退屈なものなんだろうね」
「黙れっ! 人でも神でもない半端な代物に何がわかる!?」
 遊馬の暴言と共に噴き出した炎の渦を、水たまりから湧いた波紋が受け止める。閃く爪の凶刃を吹き流れる冷徹な風が押し返す。
「人は生まれたとき、自分だけの世界をひとつ創り出す。人が死ぬというのは、ひとつの世界が閉じるということだ。9つもの世界を覗いたはずなのに、何故、あなたは自分の世界に愛しいものひとつ見つけられなかった?」
「黙れ――っ!!」
 遊馬の怒号が響いた。呼応するように一際大きな火渦が、少年に放たれる。あれは、駄目だ。大きすぎる。
「少年!!」
 ジッポを開いて渦の中へ投げ込もうと大江が振りかぶった刹那、その腕を取られた。天が煌めく。中天の虚空から一条の雷が降ってきて炎の渦をコンクリートへと叩きつけた。落雷と破壊。凄まじい閃光が目を焼いて、酷い音が耳を劈く。
「――っぶなかった。本当に、あの子は後先を考えているのやら」
 息を切らせた男の声が間近で聞こえた。くらくらする頭を振って取られた手を見上げると、どこか哀愁に満ちた中年の男と目が合った。
「ああ、失礼。これは親友の形見でして。でも、あなたが使ってくださっていたおかげで、疾く駆けつけることができました」
 どこかくたびれた感のある、トレンチコートを着た男だった。身綺麗にすればハンサムなのだろうが、よれたシャツの首元や無精髭、雑に結った中途半端な長髪が素材を台無しにしている。だが、目だけはやたらと理知的な光を宿していた。
「ユタカくん!」
 すぐさま視線を大江から外した男は予備動作ひとつなく、反対側の手元から何かを投げつけた。落雷から間合いを取っていた少年は振り向くこともせずに放られた長いものを掴んだ。
 少年の手に綺麗に収まったそれは、紫青の濃淡鮮やかな拵袋に収まった二尺三寸程度の刀だった。ころん、と房紐についていた土鈴が鳴る。
 やたらと馴れた手つきで紐を引き、少年は鞘を掴んだ。
 唐突なことで動揺したのだろう、遊馬が指を振ると、キツネが爪を繰り出して少年へ接近する。
 落ち着き払って少年が刀を抜いた。一気に引き抜けたことが不思議なくらい、その刀は錆びていた。ボロボロな斬れるものも斬れそうにない見た目の代物だった。それでも少年は迫りくるキツネの少女たちを見た。あの水色に明滅する両眼で。
 防戦一方だった少年が初めて好戦的に姿勢を低く落とした。影が重なる瞬間、少年は躊躇いなく少女の腹を錆びた刀で薙いでいた。



 張り詰めていた大気がしん、と大人しくなる。
 雨に濡れながらパーカー姿の少年が佇んでいる。その腕には気絶した部屋着と思しき格好の相原里菜が支えられている。どちらももうあの魔性も神性も纏っていない。ただの少年と少女がただ居るだけだ。
 大江の腕を離した男は、大江に軽く頭を下げてからジッポを摘まみ上げた。そして胸を撫で下ろしたかのように深く細い息を吐く。終わったのだ。理解が追いついた大江もいつのまにか力んでいた肩の力を抜いた。
 吐いて、吸い上げた空気は、大都会の只中なのにやけに美味く感じた。
「なん、で……」
 茫然とした遊馬が、それ以上ないほど目を見開いている。からん、と無駄に整った鼻梁から眼鏡が滑り落ちた。
 少年は意にも介さず、眠っている少女の顔を確認してから、ほっと息を吐いた。それから驚くほどの温度差で面倒そうに遊馬を見遣った。
「そんな、ボロボロの刀で、何が……」
「これは獲物を斬るための刀じゃなくてね。他者との縁を斬る刀なんだ。元々は昔の祝言とか子供の祝い事とか、そういったときに用いられたそうだよ。所謂、悪縁を断つための儀式用ってとこかな」
 錆びた刀身にかかる雨露を払って、少年が語る。
「造られた当初は確かに活躍していたみたいだけど、その後、数十年で逆に商売や農耕の出来が悪くなるって因縁つけられて奥多摩の古井戸に捨てられた。この子の役割は縁を斬ることだけだ。つまり、使い手が縁を視ることが出来て、かつ正しく良縁と悪縁を区別できなければいけなかったんだ。それをモノのせいにして、随分な話だよ。おかげで探し出すのに一週間もかかった」
 あちこち探したのは僕なんだけどなぁ、と苦笑いで中年の男がぼやいた。
「つまり、お前とオサキたちに結ばれていた糸も斬ることができる。流石に体内に埋め込んだままの里菜ちゃんのオサキまでは、危険すぎて分離できないけど。まあ、人と妖怪が共存できないわけでもないし」
「わ、私のことも斬るつもりかっ?」
「だからこの子が斬るのは縁だけだって。たとえ斬れるとしても、そんな面倒なことはごめんだね。あなた如きのせいで殺人者になりたくないし、この子に血なんて吸わせたくないし。僕は何もしない」
「ほ、本当だな……?」
「うん。何もしないよ。僕はね。ただ」
 少年は小脇に斬れない刀を抱えたまま、器用に少女を抱き上げる。こちらに踵を返す寸前で、わずかに崩れ落ちる男の真上を視た。少年の視線を追って、男はひっ、と情けない声を吐き出す。
 ゆらゆらと漂う、血涙を流した少女たちの亡霊が男を囲んで佇んでいた。
「あなたが裏切ったオサキの少女たちがどうするかは、知らないし、何もしないけど」
「あ、あ、あ……」
 それきり少年は男に背を向けた。少女たちの影がうつろって消える。その刹那。

 絶叫を上げた男が最後に視たものを、大江は知らない。


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