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2009/11/03first
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自分の幸せがとっくに腐り落ちていることに気づいた。
※都内で相次ぐ連続自殺事件を多方面から語るモノ語り



 一晩だけの変わった日。ただそれだけのはずだったのに、里菜は今日も昨夜と同じウィークリーマンションの一室で膝を抱えていた。きっちり洗濯されて石鹸の匂いがする同じ部屋着を身に着けて。
「……ねえ、どういうつもり?」
「何が?」
 すっ呆ける少年は里菜の質問に真面に答える気はないらしい。今日は繁華街に入る前にタクシーに乗った彼に呼び止められて、そのまま隣の座席に座らされて今に至る。
 昨夜と同じように家主の白い少年は台所に立っている。ちらっと覗いたキッチンにはひき肉、卵、パン粉、玉ねぎが乗っていた。ハンバーグかな、と予想してお風呂から上がると飴色の玉ねぎとひき肉が混ぜられて、小判型にまとめられているところだった。
「数日分のホテル代にはなったはずなのに、封筒置いて行っちゃうから。また同じことしてんのかなって」
「……アンタには関係ないじゃない」
「ああ、関係はないね。すっぱり君と僕は他人だ。でも他人と一緒に晩御飯を食べちゃいけない法律はない」
「屁理屈じゃない? それ」
「屁理屈さ。これが未成年の無断外泊とか、略取誘拐罪になると、とたんに黒に近いグレーになる」
 そんな大人の世界の話、と里菜は思う。大人の世界の話はいつも里菜の喉元に痞えて上手く飲み込めないものばかりだ。
「で、君が一宿一飯の対価に納得いかずにそわそわ膝を丸めているというのなら、サラダをお願いしたいんだけど?」
 こちらの胸中なんてお見通しとばかりにかけられた声に、里菜はしぶしぶを装って腰を上げた。狭いキッチンに入るとまな板の上にはインゲン豆、人参、じゃがいも、マッシュルームが一口大にされていて、シンクのザルの上で汗をかいたレタスとトマトが転がっている。
「……もしかして煮込みハンバーグ?」
「正解。嫌だった?」
「……別に。ねえ、チーズある? レモンとか黒胡椒とか」
「あるけど? シーザーサラダにしたいの?」
 うん、と頷いてつやつやしたトマトに手を伸ばした。


 煮込みハンバーグ、シーザーサラダ、ライ麦のパン、アイスクリーム。
 それが里菜の中に残っている幸せの残骸だ。特別に豪華じゃないと今ならわかるけれど、小学校に入学したての里菜にとっては間違いなくご馳走で幸せだった。
 小学校の入学祝いだった。にこにこと笑った両親が、里菜の両手を引いてレストランに連れて行ってくれた。小さなカフェが夜営業しているレストランで、所謂ファミレスよりちょっとだけ立派なところだった。
 そこでコースとして出たのが、件のメニューだった。他愛もない、その気になれば自宅でも作れる料理だけれど、里菜にはきらきらした特別な魔法の料理に見えたのだ。母がナフキンを巻いてくれて、父がナイフとフォークの使い方を教えてくれて。食べたハンバーグは間違いなく、幸せの味がしたのに。
 里菜の幸せな記憶は、不思議なことにそこで途切れてしまっている。
 その頃からだった。夕飯にも朝食にも父の姿が見えなくなった。母は思いつめたような表情をするようになり、里菜の些細な失敗にひどく敏感になった。些細な失敗。ご飯のときに誤って箸を落としてしまっただとか、学校で消しゴムを失くしてしまっただとか、そんなことだ。
 それでも時間が立てば母は自分が悪かったと謝ってくれたし、ちゃんと抱きしめてもらえていたから、里菜は希望を捨てることが出来なかったのだ。
 別に父も母も目立って浮気だとか、あからさまなことをしていたわけじゃない。
 会社で昇進した父は朝夕とも忙しく働きづめだった。家庭のことを両立できるほど器用な人ではなかったから、家庭内の色々は全部、母に圧し掛かった。母は休みのない主婦業に疲れ果てて、幼い里菜の失敗に苛立つようになった。
 そんなどこにでもあるような話だった。どこにでもある話だけれど、どこにでもあるから解決するというような亀裂でもなかった。
 気がついたときには、里菜はいつもひとりでご飯を食べていた。
 昇進した父は立派な仕事人間になっていた。ご飯が食べられないということはなかった。お風呂が使えないなんてこともなかった。ただ里菜が大きくなるにつれ、母は外出が多くなった。ショッピングだとか、実家の方の友人と遊ぶだとか。別に、それは悪いことじゃない。それまで母が真面目過ぎただけだ。里菜だけが取り残されてしまっただけだ。置いて行かれてしまっただけだ。
 中学校の調理実習でハンバーグを教わったとき、里菜は思ったのだ。一日だけでいい。あの魔法のメニューが再現できれば、あの幸せが返ってくるんじゃないかと、そう思った。
 中学生が家でひとり。指先を切ったり、少し火傷をしたりしながら、出来る限りあの日を思い出しながら作った。形は不格好だったが、味見をしてあの日の温かさが戻ったように感じたのを覚えている。
 両親は里菜の夕飯時には帰って来ない。だから、ラップをかけて拙い置き手紙をして、明日の両親の反応を楽しみにして眠った。


 生ゴミになっていたハンバーグを見て、ようやく里菜は自分の幸せがとっくに腐り落ちていることに気づいたのだ。

 一年もしない間に、両親は離婚した。理由はどこにでもある性格の不一致だと言われた。

 このメニューを食べるのには少し勇気がいる。
 ひとりでなくて良かった、と思った。

「なに、これ?」
「泊めてもらうのに何もしないのが気後れするんでしょ?」
 だから仕事をしてもらうことにした、と少年は何でもないことのように言った。
 夕飯の食器を片付けた後。まだ眠るには早いが、他人の家で勝手に娯楽に興じるのも気が引けて、ソファに縮こまっていた。
 そんな里菜の前に、少年は文庫サイズの本と辞書とノートを置いたのだ。続けてずい、と押し付けられたのは筆記用具と電子辞書。
「春から高校生って何かと面倒くさいんだよね。尋常じゃない量の宿題出されてさ。冗談じゃないっての。だから手伝って」
「春からって……。アンタ、中学生だったの!?」
「中学校は一年前に卒業してるよ。で、そこから一年、留学してた。そんなもんだから、合格してたはずの高校から学力の補完だって」
 器用にシャープペンシルを回しながら、心底、面倒だとばかりに息を吐いている。里菜は昨日の白い封筒を思い出す。中学生と5万円。このウィークリー・マンション。この子の親って何してるんだろう。疑問には思ったが、口には出せない。
「で、でも、私、勉強なんて中学の頃からさっぱり……」
「英文の和訳なら辞書使いながら何とかなるでしょ。別に間違ってようが、遅かろうが、構わないから。お願いね」
 さらりと言い切って自分は数学らしき教科書を開いている。少年の持つペンは止まることなくノートを走る。しばらく少年の手元を見つめるが、内容はちんぷんかんぷんだ。これでも高校3年生なのに。
 高校に入ってからろくすっぽ、勉強なんかやって来なかったから当たり前なのだけれど。見るからに年下の少年が大した苦も無くさらさら問題を解いていくのが、何だか無性に悔しくて、やけくそ気味にノートを開いた。
 寝るまでの数時間。和訳は3ページしか進まなかったが、彼は「明日もよろしく」と言っただけだった。

 こぽこぽと水槽の泡が弾ける音がする。心地よい音。安心する音。柔らかい音しか、ここには存在しない。
「今日は随分と顔色が良いようですね」
 何かいいことでもありましたか、と先生が言う。ちゃんと夕飯を食べて、ベッドで寝ているせいだと思う。結局、昨日も私はベッドに押し込められて、あの子はソファで寝ていた。
 理由は思い当たっても本当のことを話すわけにはいかない。あの少年が言っていたナントカ誘拐罪、という言葉が脳裏をちらつく。
「ええと、あ、あの」
「はい」
「き、今日の授業で、当てられたところを答えられたから、ちょっとだけ嬉しくて」
 これは嘘じゃないので罪悪感も半減する。英語の授業でいつもならずっと窓の外を見ているだけだけど、少年の宿題に沸いた敵対心に近いものがまだ残っていて、珍しく教科書を開いていた。
 たまたま似たような英文が出ていて、たまたま当てられて、大正解とは言えないまでもまあまあの返事ができた。わざと成績の悪い生徒ばかりを的にする教師の鼻を明かせたような気分になった。勉強が楽しいとはまだ全然思えないけれど、ちょっとした達成感みたいなものがある。
 それを話すと先生はまるで自分のことのように表情を輝かせて笑ってくれた。
「相原さんは英語が得意なのかもしれませんね」
「いえ、たまたま、前の日に見た本に書いてあって」
「良いことですよ。前の日であっても、人間は興味のないことはすぐに忘れてしまう生き物です。あなたにとってそれだけ印象深い出来事があったということでしょう。そういったものがどんどん増えていけば、私も嬉しいです」
 先生はにこにこと上機嫌でカルテを書いていて、頑張りましたね、と褒めてくれる。頬に熱が集まってすぐに俯いてしまったけれど、そんな風に褒めてもらえるなんて思わなかった。
 ――少しだけ、勉強、頑張ってみてもいいかもしれない。
 先生がそんな顔をしてくれるのなら。こんな風に先生に褒めてもらえるのなら。
 邪な動機かもしれないけれど、文字通り、何もしない、無為な生活を送っていた今までよりよっぽどいいような気がした。
 そうだ。水槽の中のエビと水草は何ていうんだろう。あの少年なら知っているかもしれない。当ててみせたら、先生は喜んでくれるだろうか。先生の、好きな人の前でまた笑っていられるだろうか。
「でも、焦ることはないんですよ。少しずつ、相原さんの好きなことを見つけていければ良いのですからね」
 最後に先生はそう肩を叩いてくれた。ほっとする。
 学校の先生はすぐに「このままだとどこにもいけない」と言う。高校3年、つまり受験生だから当たり前なのだけど、元々どこにもいけない人間にそんなことを言わないでほしい。どこにもいけないとわかっているくせに無駄な焦りばかりが募って、結局、心ごと潰れてしまいそうになるのだから。
 ――先生の言葉は、私を救ってくれる。
 だから、この部屋の中は大丈夫。こちらを傷つけるものは何もない。
 朗らかに笑いながら先生はまたコーヒーを淹れてくれた。「頑張ったご褒美に、次はコーヒーに合うお菓子を用意しておきますね」と言われて心が弾む。
 専用のマグカップの端を冷まそうとして、ふと気がついた。
「……あれ?」
「どうしました?」
「いえ、ちょっと」
 マグカップを包む自分の左手に、何かが絡みついている気がして慌てて払う。糸か、髪か、まさか蜘蛛の巣とかじゃないよねと警戒する。
 だが、払っても払ってもきらきらと何か糸のようなものが絡んでいる気がする。
「相原さん? 手が、どうかしました? 火傷でも?」
「え、やだ。ごめんなさい、何か糸みたいなのが」
「糸ですか?」
 そっと左手を取られて、つきんと胸が痛くなった。清潔ですらっとした、でもちゃんとした男の人の手。その手に包まれた自分の手を見ていたら、だんだんとその正体が見えてくる。
 ――え。
 小指に絡まる、少しくすんだオレンジ色の、糸。
「何もないようですが……。相原さん?」
「え、あ、ううん! なんでも! き、気のせいだったみたいです!」
 ――うそ。
 心臓がばくばくと音を立てている。先生には見えていない。心音が聞こえてしまいそうで、ぱっと自分から手を離した。ああ、もったいない。でも怖い。じっと見た瞬間に、見えなくなっていたらと思うと、こわい。
 右手で左手を包むようにして、咄嗟に赤くなっている顔を逸らす。今の顔はちょっと、見られていいものじゃない。
 逸らした先で食器棚が目に入って、こんなときなのに、ふと違和感に気がついた。
「あれ?」
「うん?」
「あの、食器棚、右側の端の方にもうひとつカップがありませんでした? えっと、オレンジの線が入った」
 先生の部屋の食器棚は、患者さん用のものが並んでいる。可愛いカップを見つける度に、ライバルの多さに溜め息を吐いていたから覚えている。
 先生は里菜の視線の先を見遣って、ああ、とひとつ頷いた。
「割れてしまったので、片付けました」



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