2009/11/03first
09/27
2024
※ファルファリーナの舞う庭タイトル回収
※いろいろと自己考察と捏造を含みます
※いろいろと自己考察と捏造を含みます
夜中、不意に目が覚めるのは珍しいことではなかった。
何かに起こされたり、誰にでもよくあるように悪い夢を見たり、予感や予兆に呼ばれたり。今回はあえて分類するのなら、三番目に値する。予感や予兆とは少し違うが、目を閉じながらゆるりと思考していた出来事に起きろと命令されてのことだ。
虫の鳴く離れの布団の中で目を開けると、ルナが目の前で安心しきった寝顔を晒していた。俺の隣でここまで安らかに寝られる女はコイツくらいのものだろう。妹? アレは俺を男として認識していないし、逆も然りで女として見ていない。生物学上のだとか、そんな話ではなく所謂セックスが出来るかどうかの話。
何というか、仮に兄と妹として出会っていなくとも、先天的にアイツとはそっち方面で反りが合わない気がする。妹はアレで結構、清く正しい生物だから根本的に俺とは合わない。
白い肩が上下しているのを見て、ネグリジェを正して毛布を掛け直す。深く眠っているようで目を覚ます気配はない。何だかんだで疲労したらしい。南伊料理の店に河岸を移した後も、よく義母や唐牛教授と喋っていた。初めて受けた講義の興奮が冷めていなかったせいだ。
義母も義母で家より研究室にいるときの方が饒舌らしく、嬉しそうに娘からの質問攻めに答えていた。水を得た魚。そんな故事が頭を過ぎるくらいには。
『私にも娘がいたんだよ』
俺はというと、そんな母娘を見て程々に酔った黒毛――いや、ああいう手合いはザルと相場が決まっているから、雰囲気でいい気分になっていた、というのが正しいが――の呟きを聞いていた。
『私たちは守るものができると弱点になるが、君は違うな』
過去形の意味は問わなかった。問いたところでどうにもならないものというものは存在する。
『君は彼女に出会って強くなった。あるんだな、そういうのも。君の姿はアトリの一族にとって救いになるはずだ』
『謙遜する気はないが、必要以上に買い被られても困る。俺は乗りかかった船に乗るタイプじゃない。放っておいたらアイツが泣くから好きにやるだけだ。運命だの行く末だのを背負いこむなんてガラでもねぇ』
『それでいいんだよ。君は愛したいものを思うがままに愛せばいい。誰に言われるまでもなく、何に制約されることもなく。その姿を見るだけで救われるものが世の中にはあるんだ』
もう一枚、ルナの肩に毛布を重ねてから布団を抜け出した。日本の秋は急に寒くなっていけない。常に地中海の暖流に包まれていた身には少し堪える。俺が熱を出したとして、怒りながら涙目になるルナが容易く浮かんだのでカーディガンを余計に一枚だけ着込む。
誂えたデスクの影から古いリーガルパッドを一冊引っ張り出す。物としては古いが俺が手にしたのはつい先日のことだ。捲ると極限にまで簡略化された数式がいくつかと、幾何学から外れた図式が数点だけ記載されている。解説も説明もない。メモというには不親切な走り書きはされている。見る者が見なければただの落書きと称されてもおかしくない何か。
「さぁて。どうしたもんかね」
このリーガルパッドはこの神社から消えた天狗の置き土産だったらしい。
硬い表情で俺を呼び出した天狗の母親が、その天狗から預かったものだという。
『悪用されてはならないと言われたの』
そう言う声は少し震えていた。
『必要なことを記してあるけど、悪用されてはいけないから、託せる人がいない、と言っていたわ。……あの子のいた星は、もう壊れてしまったから。それしか教えてくれなかったけれど』
一から十まで説明されなくともわかる。悪用のみならず、他人が使い方を誤ることを恐れたのだろう。下手をすれば自分たちの星の二の舞になる。それをもっとも理解していたのは書き遺した天狗だ。では、何故、そんなものを遺したのかという疑問はあるが、ソイツにとっては必要なことだったんだろう。他の誰に理解されなくとも。
もっと理解に苦しむのは、そんな遺書のような遺品のような代物が、赤の他人でしかない俺に渡る意味だ。
『鷹ちゃんが、信用の置ける理解できる人に渡してくれ、っていうたから』
義姉がそう補足したが心境はさっぱりだった。
『確かに、コレを理解できる人間は少ないだろうな。だが、お義姉さん。あんた、ここから解放されたらコレを研究したかったんじゃないのか?』
『でも、鷹ちゃんはそうしなかったから。何かの意図があったんやと思う』
心なしか少しだけ寂しげに義姉はそう言った。言わんとすることはわからなくもない。託せるのなら、託したはずだ。その天狗にとって、この社でもっとも信頼できるモノは桂の精霊を除けば、義姉だったのだから。
『佐伯さん、鷹史が何を託したかったか、解りますか?』
天狗の母親に促され、仕方なくリーガルパッドを捲った。一枚、二枚。中身は前述した通りに不親切極まりない暗号のようなモノだったのだが、非常に残念なことに俺は俺以上に優秀な人間を知らない。
『遺憾なことに理解できるな』
そう答えた途端に天狗の母親はほっと息を吐き、義姉は期待に弾んだ声を出した。そうして、このリーガルパッドは俺の手に託されるに至った。困ったことに。こんな扱いに苦しむ玩具をどういう心境で遺したんだか。ソイツが消える前に会っていたら、自分でやれ、と突き返したに違いない。
――だから、こういうのはもっと世界に関心があるヤツがやることなんだよ。
内心で毒づきながら、手は少ない手荷物を漁った。愛用のガラスのペンとインク壺を手に取る。アンバー色の螺旋が美しい、ヴェネチアングラスの工房で作られた一点ものだ。俺が意外にレトロなものを愛用するクセは身内しか知らない。
妹が自分の15歳の誕生日に渡してきたものである。あの妹は昔からどこかズレていて、自分の誕生日に兄へのプレゼントを用意するのだ。誕生日は自分を生んでくれた者と育ててくれた者へ感謝する日だと思っているらしい。誰に言われるまでもなく、自然にそう思っているのだからつくづく清く正しい妹だ。
ペン先がインクを吸い上げる瞬間が、殊更に気に入っていた。最初にペン先というものを生み出したヤツもそうであったに違いない。ゆっくりと、ペン先が沈めたインクの色に染まっていく様が、誇らしく、そして心地よく感じる。
左側に古いリーガルパッド。手元には真新しいルーズリーフの束。
「少しばかり本気を出そうか」
すう、と短く息を吸って吐いて、すべての感覚を研ぎ澄ませた。
数式を解き明かしていると、視えてくるものがある。
数多の座標に走る曲線と直線が描いていくひとつの図式。否。図式と言っていいものか、判断に迷う。明らかに意図的なものではあるが、その図はこの星の幾何学からは外れている。ただ、見覚えはある。あの日以降、霊体の桂の精霊が度々、見せてくる映像の中に似たようなものがいくつかあった。
あえて例えるならアール・ヌーヴォーの自由曲線とアール・デコの機能的で実用的な直線を、より効率的に組み合わせたようなグラフィックデザインだ。最適化と効率化を重ねに重ね、機能性と汎用性を保ったまま無限と進化を求めて完成させた。そんな気配が漂う図式だ。
完成された図式は芸術の極みに等しい。図式は確かに美しかった。一切の無駄がなく、洗練された星の軌跡そのもの。
描かれている内容もだ。既に地球の人類はワームホール航法の基礎理論を完成させている。問題点がいくつも洗い出され、いずれは技術の方も追いつき、近未来、人類は星の海に漕ぎ出すことも可能になるだろう。物理的に竜宮の向こう側に行くとは、そういうことを指す。
コレはその航法よりまた一歩先をいった理論の展開図だ。通信、航法、監視。すべてにおいて光の速度はおろか、それ以上を超えるための基礎だ。今の人類には客観的に見て、少々、危うい玩具だと言える。いつの時代も過ぎた魔法は悲劇と破滅を招く。この技術を手にした星のように。
アール・ヌーヴォーからアール・デコが生まれるまでの地球に何があったか。天狗が話して聞かせたという失われた星の情勢がどうだったか。考えれば、易く答えが出てしまうのがやるせない気分にさせる。この地球では力のある国々すべてを巻き込んだ大戦があった。名も知らない星では義姉に聞いた通り。
洗練された数式も図式も、演算も技術も、欲から生まれる諍いから逃れることができない。
本気で、まったく以て、馬鹿馬鹿しい。反吐が出る。
「ん、んん……」
背中でルナが呻いたので思考を中断して振り返る。目が覚めたわけではないらしい。ほんのわずかに眉間に皺が寄っていて、何か探るように右手を彷徨わせていた。
座椅子から降りてその手に捕まってやると、するりと眉間の皺が解ける。甘い息を吐いて、また安心しきった顔ですやすやと寝息を立て始める。
「新天地の指揮権に資源の分け前か。解らねぇな」
俺にはどうにもわからない。まあ、丸きり不必要なことだとは言わない。資源の確保なくては生活の基盤は成り立たないし、指導者や為政者がいなければ時代も民も混迷を極める。そこまでは理解できるが、そういうのは向いているヤツに任せればいい。
俺だって金はあるに越したことはないくらいは思っている。個人資産は家を一軒、ぽんと買ったところで揺るがない程度にはあるし、入用であればもっと稼げる。だが、根底にあるのは愛した女になるたけ不自由させたくない、という当たり前の感情だけだ。
もし、今、何かを絶望的にポシャってしまって、あのスラムの何もない小屋に戻ることになったとしても、俺は嘆くことはないだろう。嘆く暇などないことを知っているからだ。そんな暇があるなら、あのとき、妹にしていた以上に、コイツをどう食わせていくか考える。俺にはコイツが居ればいい。コイツだけは金でも栄誉でも得られない。だから、俺は世界に関心など示さない。
兄や妹がどうでもいいわけではないが、アイツらにだって既にいるだろう。コイツがいれば不幸にはならないし、なれない。そういう相手が。極論もいいところだが、つまりはそういうことだ。
「悪いな」
そうっと指を解くと、口の中で何かむにゃむにゃ転がしてから、また深く眠り込む。髪と額にキスをしてから座椅子へ戻った。
この技術を馬鹿正直に論文にするには、まだこの星の住人は幼稚すぎる。ならば、今、やることがあるのだとしたら。
新しいルーズリーフを捲り、ペン先でインクを吸い上げる。真っ白なカンバスに思うがままに綴っていく。
綴る。演算する。綴る。可能性を提示する。綴る。綴る。綴る。
最初に謎かけのようなどこかの碑文のような文字列を。その文字に隠した数点のアルファベットに意味を乗せる。その意味から導き出される数列と数式を。その数列と数式から導き出される曲線と直線を。幾何学では表しきれない図式のほんの基礎を交え、刹那的な記憶に残るように描く。完成した図式は収束し、また新たな数列と数式を描く。解く。誘導する。数式の世界から、古い天体と歴史の演算へ、演算からまた別の複数の言語へと導く。学問に垣根などない。数多の可能性と解き方に枝分かれするように、わざと曖昧で無駄な部分を織り交ぜて展開する。解き方の余地を切り取らず、否定せず。
なあ、壊れた星の名前も知らない数学者。あるいは技術者。あるいは為政者でも民族の代表でも。誰でもいいか。ともかく、お前らだ。
お前らは楽しかったか?
お前らが最後に楽しいと感じたのは、いつの頃だった?
お前らの星に知恵の輪はあったか? ジグゾーパズルは? ルービックキューブは? 類似するものでも何でもいい。あっただろう。そういう、解いたところで金にも名誉にも資源にもならないが、ただ夢中になって解いた何かが。
初めて解いた知恵の輪はどんな形をしていた? 完成させたジグゾーパズルの絵はどんな風景だった? どんなマス目のキューブまで色を揃えられた?
真正の学者が夢中になれて、もっとも楽しいと感じられる時間は、数式と図式を解いて構築している最中だろう。数式でもプログラムでもいい。描いている最中は、他のことなんてどうでもよくなっただろう。探求心と好奇心に支配されているその時間、お前らはどの民族の優位に立ちたいだとか、見てもいない資源の確保だとか、そんなことを考えたか? そうじゃないだろう。
お前らの完成された図式は確かに美しい。だが、お前らはその完成形に至るまでの、積みに積み重ねた無駄と試行錯誤した時間を忘れてはいけなかった。膨大に積み重なっていただろうその時間こそ、お前らがもっとも愛した時間じゃなかったか?
この文字列はそれを手繰る旅。解いたところで金にも名誉にも資源にもならない。潰れるのは時間だけ。だが、思い出すために辿らなければ辿り着けない、目に見えないものを取り戻すための物語だ。
「……ふぅ」
最後の一文となったとき、既に空が白んでいた。ここに来て初めての寝坊になるかもな。まあ、別にいい。徹夜仕事の感覚を忘れるのも、それはそれで困る。
いくつもの回りくどい可能性と知識を経由して、俺は謎かけの解答の一文を書き記した。
『会いたいと願うなら、ファルファリーナ(小さな蝶)の舞う庭で、ただ名前を呼べばいい』
謎かけの碑文モドキから、この意味のない一文に辿り着くとき、ソイツは数多の数列、数式、図式、天体の歴史に忘れられた言語、その他いろいろに触れているはずだ。こっそりと、失われた星の、何でもない図式の形だけ記憶に刻まれているだろう。いざ、あり得ないものに触れたときに、あり得ないと潜在的に切り捨ててしまわないように。
「さて、誰が最初に解いてくれるだろうねぇ」
満足したところで最初の謎かけ以外の紙束を、早々にシュレッダーにかけてしまう。用意された解答が残っているなんてつまらない。自由に我を忘れて解いてくれ。
さて、どこにどんな形で忍ばせるかね。
知恵の輪は約数千年、ジグゾーパズルは数百年、ルービックキューブは数十年。人類を絶え間なく楽しませてきた。この悪戯は何と呼ばれて何年、人類を楽しませるか見物だ。結果を俺自身が知ることがないだろうことだけは、惜しく思う。
誰が解いてくれるだろうか。目を覚ましたミギワかもしれないし、呼び戻された桂の精霊かもしれないし、遠い彼方に消えた天狗かもしれない。結界から解放された義姉が解いてしまうかもしれないし、俺とルナとの視界を合わせ持って生まれてくるだろう娘が手慰みに解く可能性もある。生まれ直しというものが本当に人の世界に存在しているのなら、今の俺をすっぱり忘れさったどこかの時空の俺自身が紐解くかもしれないし、あるいは同じようにどこかの時空のルナが解くかもしれない。
最後の可能性を考えたとき、解答となる一文は決めていた。
「んん……」
甘い呻きが布団から漏れる。目覚めが近いのだろう。その目が開いてしまう前に、数行の文字列が記載されただけのルーズリーフに前言となる一文を付け加えた。
『この一時を、我が最愛なる魔女へと捧ぐ。
――ジョン・ドゥ・アノニマス(身元不明の匿名者)』
どこかの時空で迷子になったら呼んでくれ。
どこかの俺も、どうせお前を探しているだろうが、少しは早く辿り着くだろうから。
PR
この記事にコメントする