2009/11/03first
10/03
2024
※悪魔と少女との邂逅
※お兄ちゃんが鬼いちゃん
※お兄ちゃんが鬼いちゃん
発端はシチリアの片隅である末端の組織に間者(スパイ)として入り込んでいた頃になる。
どうにもきな臭い組織で、末端故に浅慮だった。つまり何かをどうにかして〝どうにもできないもの〟を生み出しかねないような組織だったのだ。生まれないのならその方が俺としても気が楽である。幾ばくかの金で雇われながら、輩の醜悪な儀式が失敗するように仕向けた。誰も彼も俺の所業に気づかないのだから、組織としては失格だ。そのうち、寄り親に捨てられて空中分解することは目に見えていたのでそれまで待つことにした。
その組織が〝最後の仕事〟として選んだのは、掃除屋を名乗るとあるファミリーの壊滅だった。
最後の仕事というのは文字通り、出来なければ自分たちが破滅するという意味だ。どいつもこいつも勝手に追い込まれた形相をしていた。俺はといえばぎらついた窮鼠の目をした組織筆頭に、手汗塗れの手で両手を掴まれて、お前だけが頼りだ、なんて言われた。
間者(スパイ)と見抜けず、裏切り者に自分たちの最期を託すなんて、本気でいろいろと終わっている。
そうして言いつけられた役割が2km離れた建物からの、敵対ファミリーのブレインの狙撃。馬鹿じゃないのか。日頃から口が重い方で助かった。狙撃手が正確性を維持できるのはどれだけ腕が良くても1.5kmが限界だ。〝俺でなければ〟無理に決まっている、と騒ぎ立てただろう。
――まあ、元から失敗させる気ではいたが。
耳に飛び込んでくる作戦という名の児戯はどれもこれも穴だらけで、はっきり言って使えたものじゃない。コイツらの寄り親はよくここまでコイツらを庇っていたものだ。いや、それとも何かデカい仕事のトカゲの尻尾にでもしようとしていたのだろうか。それくらいにはどうしようもない連中だった。
迎えた当日。俺は人気のない、半壊し打ち捨てられた教会の塔の一室でスコープを覗いていた。
予測通り、自軍の弱いこと弱いこと。インカムから聞こえてくるのは散々な報告だ。肯定も否定も返すのが面倒で、チューニングのできないラジオのように聞き流していた。
――アレが稀代のサルバドルのブレインか。
聞き流しながらライフルのスコープに映る人影を観察する。西洋の掃除屋を自称する、最近、頓に台頭してきたサルバドル・ファミリーの頭脳と呼ばれる男。
掃除屋などと自称するファミリーは、大概、宗教に染まっていて粛清がどうのこうのと言い出す頭のおかしい連中が多いのだが、なかなかどうして、そのファミリーは立派に掃除屋を熟している。少なくともこんなどうしようもない末端組織の始末を買って出る程度には。
特異な見た目をした男だった。白髪、朱眼、とくれば頭に過ぎるのは白子(アルビノ)という単語なのだが、その男はまるで病的には見えない。髪も肌も白すぎる。いくら色素が抜け落ちたとしても限りなく薄い金髪のそれしか見たことがなかった俺の目には、人の形をした人でないものに映ったが、かといって人でない証も視られなかった。
淡々と隠した口元で何かが呟かれる度に、インカムの向こうで惨事が聞こえるので有能なのだろう。口元を隠しているのも、こうして見られている可能性を考えてのことに違いない。読唇術を心得た者なら、唇の動きだけで次の攻防が予測できる。
そんなことを全くできていなかった我が組織のボスは、絶え絶えの息を吐きながら、インカムの向こうで懇願した。
『た、頼む! 最期に、最期に仲間の仇を……!』
そんな義理もないのだが、貰った分の金は働くべきだろう。ただし、ここは標的から2kmも離れている。それだけは自分たちの無能さを呪ってくれ。
ほんの数ミリ、銃口を右に逸らして固定する。スコープを覗く。風に煽られた白髪が踊った。
驚いたのは引き金に指をかけた瞬間だった。スコープ越しに、ソイツがこちらを振り返ったのだ。
――!
狙撃の手は止めず、一発だけ撃ち出す。男が軽く上体を逸らす。回転する鉛の弾丸が男の前髪を千切って背後の壁にめり込む。初めて男の口元が見えた。歪み、笑みの形を作った唇が、指示を出す。
『面白い。〝塔を壊せ〟』
そう言った。
「っ!」
頭上の空気が揺らいだと共に、銃と刀を手に乗り出した窓から飛び降りた。命綱などない。壁に刀を突き立て、心ばかり速度を落としながら落下する。数秒もしないうちに俺がいた塔の一室が砲弾でも喰らったかのように吹き飛んだ。
地面まで跳べる距離まで落下した俺はすぐに壁を蹴って着地する。刃こぼれに舌打ちする間もなく、今度は悪寒が背筋を走り抜けた。ほとんど勘だけで誰もいないはずの真後ろの空間を裂く。
「うおぉっと!?」
急に背後に現れた薄い金髪の男が、上体を仰け反らせて刃を躱す。斬れたのは前髪だけだ。二度目の予感が脳髄を揺らして、男に突き付けた刀はそのままにライフル銃を捨てた。懐から探った拳銃の安全装置を下ろして別方向に構えた。
「コイツは驚いた」
いつのまにやら、2km先にいたはずの白髪の男が同じように銃を構えてそこにいた。銃口は互いの眉間に向けられている。あちらの安全装置も既に下ろされている。どちらかが一瞬でも早く、引き金を引けばそれで終わるような状況だった。
だというのに、その男はひゅう、と高い口笛を吹いて楽しそうに笑っていた。
「おい、名前を呼ぶな」
そう声を飛ばしたのは、俺が刀を向けている男に対してだろう。こちらに情報を渡さない姿勢は徹底している。
「やってくれるじゃねぇか。誇っていいぜ。俺の人生で俺に銃撃を当てられたのは、てめぇが最初だ」
にやつきながら火傷でやや赤くなった額を擦っている。弾き飛ばしたのは前髪だけだが、鉛弾の熱だけは男の白すぎる肌にダメージを負わせたらしい。
「てめぇが〝始末屋〟か」
「だったらどうする、〝掃除屋〟」
勝手に一人歩きした二つ名を出されたので口車に乗ってやる。頭ではどう切り抜けるべきか思考を巡らせながら。突破するならこの男か、背後の男か。どちらにしろ、俺としては命を拾えればどうということはない。別に今さら死ぬことに躊躇いはないのだが、残念なことにまだ仕事が残っていた。
そんな俺を見た男が唾を吐き捨てた。
「腕は褒めてやるが、どうも顔は気にいらねぇな。辛気臭ぇ面しやがって」
「生憎、最後に鏡を見たのは数日前でな。覚えていない」
銃口を向け合いながら安い挑発を繰り返す。俺は隙を探して。コイツは何かを企んで。張りつめているはずなのに、どこか滑稽だった。ふむ、と頷いた男が銃を下ろさずに口にする。
「お前、給金はいくらだ?」
さした額でもない金額を吐く。目的は金ではなかったから少額だ。男はやれやれと首を振った。
「自分の腕を安売りするたぁ、感心しねぇなぁ? その五倍の仕事はするだろ、お前」
「金が目的なわけじゃない」
「なるほど? 道理で。いくら弱小の下っ端だからって、潰れるのが早かったわけだ。俺を殺せたのに殺さなかったのにも納得がいく。お前、コイツらのお仲間じゃなくて裏切り者だな?」
「……」
無言の肯定で返したが、互いに銃口は下ろさないまま。当たり前だ。敵の敵が必ず味方とは限らない。
「面はこの上なく気に喰わねぇが、腕は気に入った」
白い男が、黒い悪魔のようににたりと笑う。
「コイツらが出してた額の十倍出そう。お前、うちで働け。どうだ?」
「おいおい」
眼前の刀に怯えるでもなく、しかし、一応は両手を挙げたままの金髪の男が呟く。やや呆れてはいるが強く反対しないあたり、噂のサルバドル・ファミリーの中核にいるのはやはりこの白髪の男らしい。
「……ひとつ尋ねる。答えないならそれでもいい」
「何だ?」
「掃除屋。お前はこの地を掃除して何がしたい?」
すう、と悪魔が朱眼を眇めた。
「〝時計〟を破壊する。お前にとってもあながち無関係ってわけじゃねぇだろう?」
「……そうか」
その一言で理解する。〝時計〟とはこの西洋の地においても〝どうにもできないもの〟の筆頭に位置する。忌々しく、醜悪で、厄介極まりなく、終わっていて、どうしようもない。人間の業という業を煮詰めたような代物だ。俺が残している〝仕事〟のひとつでもある。
どうせ次のアテも決めていない。なら。
「もうひとつ。住居を。ブラフ用と武器のメンテ用込みで三箇所、用意しろ」
「ちゃっかりしてんな。いいぜ、2LDK以上を保証してやるよ」
まず、刀を下ろす。合わせるように白い男が銃口を下に向けた。最後に俺も男の眉間から照準を外す。何も起こらない。背後で金髪の男が密かにほっと息を吐くのが聞こえた。
「手始めに何をすればいい」
「お前、体力無尽蔵かよ。お前ひとり抑え込むのに、こっちがどれだけリソースを吐いたと思ってんだ。明日だ、明日。モーテルを手配してやるからそこに行け。うちをそこいらのブラック企業と一緒にするんじゃねぇ」
「了解」
どうやら後始末には関わらなくていいらしい。まあ、仲間面していた連中の恨み節を聞かなくて済むなら、それに越したことはない。
「うちでの仕事は、まあ、変わりねぇとは思うが、狙撃手、場合によっては近接とスパイ。お前、カーチェイスは?」
「専任ではないが程々に」
「なら、それも込みだな。それともうひとつ、一人前に仕上げて欲しいヤツがいる」
「教育か? 門外だな」
「お前なら腕を見せてやるだけでモノになるだろ。明日、会わせてやるよ。今日はルームサービスでも食ってミルク飲んで寝ろ」
「酒は」
「面倒なことに、会わせるヤツがアルコールには弱ぇんだよ。てめぇが酒の匂いナシの朝支度に自信があるならどうぞ?」
そうおちょくってくるヤツの名前は聞かなかった。俺も特に名乗らない。有名同士、どうせ互いに既に知っていたからだ。そんなやり取りをしていたら、背後にいた金髪の男がやっぱり呆れたように言った。
「お前ら、自己紹介とかコミュニケーションって言葉知ってるか?」
生憎、あまり縁のない言葉だった。
久方ぶりにスプリングの効いたベッドで休息した朝、待っていたのはもぐりのタクシーだった。まあ、ああいったヤツならそれくらいはするだろう、と少ない手荷物と一緒に乗り込んだ。
連れていかれた先は南伊のとあるアパルトメントの一室だった。住居ではなく、オフィスとして使っているらしい。生活感がなく、掃除もおざなりで、天井がヤニで黄ばんでいる。来客用と思われる向かい合わせのソファに挟まれたテーブルの灰皿に吸い殻が溜まっていた。そんな体たらくだがデスク周りだけは埃を許さない程度に綺麗にされている。なるほど。人間より電子機器の方が大事か。
デスクの前に設置したリクライニングチェアの上で件の白髪の男がアイマスクをして寛いでいる。そして手前の来客用のソファにちょん、と掛けていた少女を目にして冗談だろうと言いたくなった。
ティーンを半分も過ぎていないだろう、正しく少女と言える年齢の子どもが、皮の剥げたソファに座っていた。可愛らしい少女ではある。上等な蜂蜜を丁寧にひと匙ずつ垂らしたような金糸の長い髪、健康的な程度に焼けて尚、白い肌。ぱちくりと瞬きを繰り返している眼は蒼穹より碧い。
カーゴパンツに無地のトップス、素っ気ない色のニットジャケットに身を包んでいる。もっと似合う格好があるだろうに、と場違いで余計な感想が浮かぶ程度には造作の整った愛らしい少女だった。
ビスクドールのようなパーツをした少女だが、人形とかけ離れて確かな好奇心を目に宿しながらあちらこちらを見てくる。顔を凝視するでもなく、武器の収められた〝手荷物〟を見つめるでもなく、右往左往している。視線の動き方が俺の周りを周回する澱みや汚泥を追っている。
――視える人種か。
どう視えているかはわからないが、お世辞にもよくは視えていないだろう。よくて黒い靄、悪くておどろおどろしい悪鬼の集合体に視えているだろう。精度はわからないが声や匂いも伝わるかもしれない。そんなものが視えているはずなのに、しげしげと興味深そうに観察している。子どもがただの子どもではないことの証明だった。
ひとしきり観察を終えた少女は、ぱっと立ち上がるとデスクに向かった。まだリクライニングチェアで寛いでいる男の頭と肩をばしばしと叩く。ぺしぺしという可愛らしい音ではなく。かなり容赦がない。
「……いってぇな! お前はいい加減、てめぇが馬鹿力だって自覚しろ!」
「ねーねー、あの彼が新しく入る人? 例の狙撃手(スナイパー)?」
「お前、さては俺の話を聞く気ねぇな?」
やたらにフランクで小気味いいやり取りが繰り広げられる。少女の声が空気を震わせる度に、何か澱んでいるものが散っていった。やや甘い、しかし芯の通った音をしている。
アイマスクを半分外した男は、機嫌悪く、隈のできた目で少女を鋭く睨んでいるのだが、少女に怯む様子はない。元から目つきの悪い男の視線は相当に鋭いのだが。豪胆なのか、ただ馴れているのか。
何か納得したらしい少女が、くるりと振り向いて俺を見た。こちらにも脅える様子はまるでなく、むしろ興味津々という目をして軽やかに近づいてくる。一歩、後退りそうになるのを堪えた。場慣れした商売女ならともかく、年頃の女児の扱いなど俺は知らない。
目の前まで歩いてきた少女は今一度、俺の顔の脇を見据えた。まあ、いいか。と独り言ちる。何がいいのかわからないままに、少女が拳を握った。反射で身構えたが、その拳は俺を襲うことはなく。
「よい、しょっ!」
俺の脇の宙を殴りつけた。呪いの言葉を吐き散らしていた悪鬼の塊の横っ面とも言うべき場所だった。耳元でぱん、と風船が割れるような音が弾けた。一瞬の耳鳴りの後に何年かぶりに視覚も聴覚もクリアになり、慢性的に苛まれていた頭痛と肩の凝りが消える。
「は……」
正しく、ここに鏡があったら、俺は間抜けな顔をしていたに違いない。証拠にアイマスクを外してこちらを眺めていた悪魔がにやにやと口元を歪めている。
「むう。しつこいな」
そう呟いた少女が手を伸ばして肩と胸板に触れた。まだこびりつく泥と塵を落とし始める。いや、待て。いくらティーンでも初潮は来ている年齢だろう。初対面の男に対する所作じゃない。髪や背中を叩くな。雪塗れのコートを払っているんじゃないんだ。性教育はどうした。お前のような如何にも無垢であどけない女児を食い物にしたがる下種はどこにでもいるんだぞ。
諸々を込めた目で男を見るが、必死で笑いを嚙み殺しているだけだった。使えない。
いいのか、お前は。割と易い会話をしていただろう。コイツはお前の身内じゃないのか。まさか、誰にでもぺたぺたと触るように教育しているわけじゃないだろうな。
残っていた塵を払いのけて、ようやく満足したらしい少女が、ふーっと息を吐いて腰に手を当てる。一仕事しました、みたいな顔をするな。お前のするべき一仕事じゃない。
――教育係、というより……。
「確かに、コレは家庭教師(カヴァネス)がいる」
「だろ?」
今までとジャンルの違う頭痛を感じ、不意に呟いてしまった一言を拾って悪魔がけたけた笑った。
渦中の少女は不思議そうに首を傾げている。他人事みたいな顔をするんじゃない。お前の話だぞ。
少女の名前はカノンと言った。
傍目は丸きり普通の善良で人間的な女児に見える。自ら名前を名乗り、俺の名前を問い、最後にコーヒーの好みを尋ねてきた。角砂糖をひとつ、と答えるとオフィスに備え付けの給湯室へ消えていった。
14歳。赤ん坊の頃から悪魔の妹をしているらしい。昨日、俺の背後を襲った金髪の男が長兄、この悪魔が次兄、少女は三兄妹の末姫をやっている。悪魔はアイツが見た目は一番、人間らしく見えるのだと宣った。裏返せば見た目は人間らしくとも、人間から外れていると言える。
「なんなんだ、アレは」
「さあてねぇ。正直、アレに関しては俺の手にも負えねぇんだよな。普通じゃねぇのに普通に視えるから始末が悪い」
まあ、本来は俺と相性が悪いんだろうな。そう言って咥えた煙草に火を点ける。
「神霊が間違って人に生まれ変わるか、長生きした神霊が器を捨ててそこに人間が入ったら、ああなるんじゃねぇかね。人間を自称されるより、人の形をした神域と言った方がしっくりくる」
「妙なモノに入れ食いされそうだが」
「それがそうでもない。本人は潜在的に判別できる。さらに悪いもの、害するもの、腹に一物抱えたもの、一切、近づけないらしい。前世で徳を積んだとか、そういうもんを通り越して異常極まる。偏執的に世界に寵愛されていると言っていい」
ぞっとした。世界に愛される。聞こえはいいが、その実、とんでもない地獄だ。
何故かというと、俺だってある意味では世界に愛されているのだ。ただし、それはよく働く歯車として認知されているに過ぎない。愛されていると同時に絶望的なまでに嫌われているのだ。そんな、世界だか一神教の創造神だか知らないが、そんなものに寵愛されるなんて冗談じゃない。何故なら。
「アイツは大洪水が起こればノアの箱舟のノアになるし、人類がリセットされたらアダムとイヴのイヴになる。んで、いよいよ星の表面が救えない様になったら、いつでも何かの都合で天に召し上げられたとか、星座になったとか、美辞麗句で塗り固められて骨も残さず消えるんだろうよ」
そういうことだ。神を自称する何かに愛された者の末路を考えてみろ。女神に見初められたトロイアのパリスは何をした。特別な不死身の身体を持ったケイローンがどうなったか知っているか。エンデュミオンが永久に目を覚まさない理由はなんだった。どれもこれも馬鹿馬鹿しく、非業でどうしようもない逸話ばかり残っている。
「何故、そんなものを俺に任せようとする」
「ひとつは考え方の問題だ。今、お前、世界に愛されるとか聞いてぞっとしただろ。その感性だよ。〝そんなものになるもんじゃない〟。この考え方が出来るヤツってのが、案外、世の中には少ないんでね」
深く肺に吸い込んだ煙を今度は吐き出す。モクはやるか、と勧められて断った。酒はともかく、煙はどうも体質に合わない。
「ふたつ。お前、盾と矛の故事ってわかるか?」
「矛盾の語源か。知っているが」
答えながら男の思考に追いつく。もう一度、冗談だろうと言いかけた。
「この上なく世界に寵愛されたアイツと致命的なまでに世界の粗大ごみや産廃を押し付けられるお前。一緒にいさせたら、さて、どうなるんだろうなぁ?」
どこか楽しむような口調で宣う。アレはお前の妹だろう。何をさせようとしているんだ。ここに着いてから同じようなことをずっと考えている。あれだけお前に懐いている妹を人身御供に差し出すような真似をするんじゃない。
この男はまったく以て善人ではない。称した通りに悪魔に等しい。別に同情が欲しいわけじゃない。憐れんで欲しいわけじゃない。だが、だからって人肌が恋しいわけでも、人間らしいごっこ遊びがしたいわけでもない。
もやもやとした不快さが喉元に込み上げる。何だ、これは。何でこんなに不快なのかわからない。こんな心地の悪さは感じたことはない。老人の痣と傷だらけの身体を拭っていたときも、きつい入峰修行の最中に青白い手に足を掴まれたときも。
「みっつ。実にくだらねぇが訊くか?」
「これ以上、くだらない理由があるのか?」
頭痛が止まない。長年、患っていた重みを伴う鈍痛ではなく、米神がずきずきと疼く痛みだ。
「俺には心底、理解できねぇんだが。お前が妹の好みドンピシャだった」
「心の底からくだらない。お前、一応は兄なんじゃなかったのか」
「兄なら妹は他の男にやれねぇムーブをしろって? 無理無理。俺だって妹離れする資格があるし、アイツだって兄離れする義務があるわな」
「はあ。大体、なんだ。神霊の好みって」
馬鹿馬鹿しさが極まって、至極、どうでもいいことを尋ねてしまった。
ふむ、と頷いた悪魔がじろじろと俺の頭の先から足元までを眺めてから、減らない口を開く。
「清く正しく勇ましく、ってとこかね。金を払う価値があるが、金だけでは動かねぇヤツ。あと重要なのはアイツに腕相撲で勝てそうな体躯の持ち主」
「……お前ら、兄じゃなかったか?」
「アイツと腕相撲とか、そんな自殺行為は御免だね」
三人分のドリップコーヒーを淹れた少女が事務所内に戻ってきたので、馬鹿げた会話はそこで終わった。神霊たる少女は、わざわざきっちりドリップして人数分のコーヒーを淹れていたらしい。
手間と味の感想を含めて礼を言うと、少女の目がやたらに輝いた。以降、何故か即座に懐かれて、手配された俺のアパルトメントには度々、少女が家出してくるようになってしまった。
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