2009/11/03first
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2024
※カノンのワンパンチってすごいんだよという重たいレンの過去話
※さりげなく鏡ちゃんの宝珠を回収しています
※さりげなく鏡ちゃんの宝珠を回収しています
その少女は、きっと、世界に愛されていた。
嘆かわしく、腹立たしいことに。
物心ついたとき、俺はドイツの海辺の村の灯台でひとりの老人を世話していた。両親の記憶は薄っすらとある。もっとも声は覚えていない。ただ、ぼんやりと笑いかけるふたりの男女の記憶が頭の片隅に残っていただけだ。両親に不幸があって、行く場所がないところをその老人に引き取られたと自然と知っていた。
老人は最初から、俺のことをレンと呼んでいたが、それが本名なのかどうかを知る術はなかった。とは言ったものの、違和感もなかったから、本名を呼ぶ程度には老人は善良だったのだと思う。
老人と言ったが下手な若者よりも健脚で、灯台の急階段を二段とばしで昇るし、裸眼で新聞に目を通す。定期的に送られてくるどこかからのモールス信号を即座に理解する。何より本職である狙撃手の鷹の目と腕は健在で、灯台から2km先の的を撃ち抜いていた。
「所詮、的だ。本物は動く。それを捉えるのが鷹の目だ」
いずれ俺は〝本物〟を撃ち抜くことになるらしい。そして、それはおそらくそう遠くない未来だ。
「これが、お前が俺から受け継ぐべき役目だ」
ライフルのスコープを俺にも覗かせながら、老人はよくそう言っていた。老人は俺にいろいろなことを叩き込んだが、ガキであった俺にはまだ〝役目〟を受け継ぐという意味が解っていなかった。
俺はそのまま老人の灯台を引き継ぐものだと思っていた。灯台守の仕事も、モールス信号で回ってくる〝仕事〟も。だが、そうはならなかった。
「お前、日本に行け」
老人の脚で階段を昇るのが遅くなってきた頃に、そう言われた。その頃、老人の脚は何か黒々としたものが絡みついていた。咳も多い。たぶん、胸に掬っている濁った渦のようなもののせいだろう。老人であれば何とかできるものだろうに、何故、そうしないのかずっと疑問に思っていた。
遅まきながら老人の〝役目〟という言葉を意識したのはそのときだった。
「何故、日本に」
「わしがお前くらいの歳の頃に修行した古寺に、お前を預けることにした。狙撃だけでは身を守れん。お前なら何か身に着くだろう。その目も磨かれる」
「あんたはどうなる」
脚と手が覚束なくなっている老人だ。村の人間たちが多少、気にかけてくれるとはいえ、傍で世話を焼く人間は俺くらいしかいなかった。
「どうせ、わしはもうじき死ぬ。墓はいらん。遺骸の処理は村の者に任せた。お前が案じることじゃない」
「だが」
「そんなことより、お前は覚悟を決めなければならん」
「覚悟……」
老人の手が伸びてきて俺の額を掴み上げた。斑点の浮かんだ腕だ。痛みはないが悪臭はある。その頃には俺も気づいていた。脚の何かも、胸の痞えも、この斑点も。呪いだ。いや、呪いとは言えないかもしれない。雑念、怨念、執念。そんなものたちの集合だ。
「次にコレを負うのは、お前だ」
「……」
「お前はこれから恨む。憎む。世の中も。運命も。だが、恨むのも憎むのも、わしだけにしておけ。お前にハズレくじを引かせたわしを恨んで憎め。それだけは、けして忘れるな」
飢えた鷹よりも鋭い、何かを戒めるぎらついた老人の目。それが俺の育て親に関する最後の記憶になった。
俺が密かに入ったのは森深い、崩れていないのが不思議なほど古い寺社だった。札が擦り切れすぎて何を信仰しているかも怪しい。ただ、俺を出迎えた寺の主は僧正と呼ばれていた。だからつまり、真言宗の流れを汲んでいるんだろう。こんな場所に隠れるように住んでいるのだから密教だったかもしれない。いずれにしろ、それを暴くのは俺の仕事でもなんでもない。
新しく俺の師となった僧正は、最初に俺を見て、笠の下でやたら哀しげに目を伏せた。
「確かに、君は長く〝持ちそう〟だが。いや、いかんな」
ぐっと眉間に皺を寄せ、何かを堪えるように唇を噛み締めた。
「何故、いつも犠牲になるのは君のような魂の持ち主ばかりなのだろうな」
――これが、お前が俺から受け継ぐべき役目だ。
老人の言葉が頭から離れることはなかった。
その日から俺は修験者たちに交じって修行することになった。俺がいた場所は海辺だったから、しばらくは馴れないかと思ったがそうでもない。俺の身体はどうやら自然に適応できるように出来ているらしい。まあ、八割くらいは老人が俺に〝いろいろ〟教え込んだ結果だ。
日本語も最低限の日常会話は老人から教わっていた。修験者に関する専門用語は都度、教わることができた。幸いというべきか、それともまっとうな修験者には元から心の邪な者はいないのか。同じ古寺に寝泊まりしている修行仲間は快く教えてくれた。漢字を書くことは出来なかったからそれも書道の基礎から学んだ。もっとも苦労したのは箸の持ち方と言っても過言ではない。異国からの異様な来訪者に、そこまでと言っていいほど良くしてくれたものだ。
その全員の眼差しの中に、何か憐憫のようなものが含まれていることには、気づいていたが。
修験道において修行は難苦であることが第一条件らしい。年齢のこともあってか、普段は甘さを見せてくれる修行僧たちだが、峰々に分け入る入峰修行の最中はその甘さもなくなる。当然と言えば当然だ。彼らとて必死なのだ。入峰修行は疑似再生。峰に入れば、一度死に、苦行の中で罪を洗って再生する。〝疑似〟は〝疑似〟だが、それだけきつい修行ということだ。
急斜面を流れる沢、底の知れない深い沼、亀裂のように走る断涯の下。
「どうした?」
「いえ」
先輩の修験者は俺の視線を辿ってすぐに会得した。
「お前は視えるんだったな」
「はい」
「そうか。前はどこにいたんだ」
「海の近くに」
「……そりゃ、災難だな」
俺はもう一度、沢の下を見遣る。ゆらゆらと揺れる、いや、寄る辺なく助けを求めている無数の青白い手が視えていた。あんなものばかりではないけれど、山でもああいうものには付き合っていかねばならないらしい。
「山でも、一緒なんですね」
老人が言っていたように俺には何かを身に着ける必要があった。棒術でも杖術でも構わなかったのだが、俺に向いていたのは剣だったらしい。初めて巻き藁を斬ったとき、不思議な感覚を覚えたものだ。あちらの剣と違ってこちらの刀は鋭くよく斬れる。その分、手入れも面倒だが、確実に斬れる。
俺に刀を教えた師は巻き藁の斬り口を見て感心していたが、やはりその師も憐憫の眼差しを隠し切れていなかった。
「せめて少しでも凡庸であればよかったのに」
普通の子どもにかける言葉ではなかった。だが、まあ、普通ではいられない子どもなのだから仕方がない。そんな言葉が出て来るだけ、あの師は善良な大人だった。俺の周りには善い人間が多い。
「……祖父は、それを望まないでしょう」
〝そういうこと〟になっている老人の鬼気迫る表情を思い出した。あの老人も善良だった。けして家族がいる子どもを後継ぎにはしなかった。
――きっと、これでいい。
いつも通り、凪いだ胸中のまま、静かに刀を鞘に収めた。
そうして2年ほどが過ぎた朝。清涼な空気しか許さない山に異物が紛れ込んだ。
――なんの匂いだ。
目が覚めた早朝から嫌な匂いが込み上げ、ぴりぴりと肌に走る痛みがあった。本能的に帯刀を許されていた愛刀を手にした。2年、握り続けた柄が怖いほどにしっくりと手に馴染んだ。今思えば、何か予感があったのだろう。僧正に刀を持って参上しろと申しつけられたときにも、やはりという想いと、ついにかという感覚が混在していた。
いつもなら急ぐところなのだが、その日は草鞋の紐を必要以上に丁寧に結い、きつく手甲を締めた。少々遅れて現れた僧正は、俺の姿を見て険しい顔をしながらも静かに頷いてくれた。俺の選択は間違っていなかったらしい。
他の修験者は連れず、僧正と二人だけで山を駆ける。不気味な静寂が山を支配している。風が止み、水が留まり、木が沈黙を保っている。山にいるのは沢へ招いてくる不気味な白い手ばかりではない。風守、水守、木の精。森の恩恵を受け、森を保っている動物と虫の声さえも。
静かに、迅速に、僧正も俺も森を駆ける。翔けると言っても差し支えない速度だ。その頃にはそういうことが出来るまでになっていた。思考の片隅でとんだ英才教育だ、と益体もないことを一瞬、考えた記憶がある。
やがて鼻が曲がるほどの悪臭が漂い始めた。霧、いや瘴気のようなもので視界が悪い。ひどい匂いと大気の重さで頭ががんがんする。
「あれだ」
崖のてっぺんで鳥のように留まった僧正が、下を指した。ずる、ずる、と粘性のある重たいものが木立を薙ぎ倒す音がしている。ただの動物では到底、出るはずのない音。
僧正の隣に留まり、少しだけ身体を乗り出して眼下を見据えた。その光景は今でも脳裏に焼き付いている。
黒く、腐り、爛れた物体だった。成獣である熊よりも二回りほど大きい巨体を引きずった何かが低木と山林の花を枯らしながら移動している。歩いているのか、這いつくばっているのか、そもそも元が二足歩行か四足歩行かも判然としない。前進する方向の爛れた口から臭気を吐き出し、その臭気に触れたカタクリの花が軒並み枯れて腐って塵になる。土にも帰らない。薙ぎ倒された低木も同じだ。白木のように美しく枯れたりせず、枯れた傍から腐り落ちていく。アオキもアセビもクチナシも。もう咲くことはないだろう。
そんな黒々としたヘドロのような塊が、山に瘴気を吐き散らしながら闊歩している。肌に走る痛みは怖気に変わっていた。
「何に見える」
僧正は平淡な声で俺に問いた。見たときからわかった。アレはもうどうしようもないものだ。
「〝神であったもの〟でしょうか」
八百万の神とはよく言ったもので、日本には数多、神と呼ばれるものがいる。老人がそうであったように、俺自身は無宗教だ。信仰する神などいない。一神教が主である西洋では精霊や妖精、妖魔と呼ばれているものが日本では〝神〟とも呼ばれる。ただそれだけのこと。
精霊や妖精が堕ちてしまうことがあるように、日本では〝神〟も堕ちてしまう。信仰が薄れ、寄る辺を失い、果ては住処さえも切り崩され、流浪の果てに恨みつらみを募らせて堕ちる。そんなことが稀にあるのだと知識としては知っていた。その成れの果てを目にするのは、初めてのことだったが。
だが、そんなことは滅多に起こらない。大抵の神は他の依り代を見つけるなり、己の魂を浄化させるなり、何らかの術を持っている。あるいはそうしたことに卓越した人や人ならざる者がいる。
ああまでなってしまうのは。
「どこかの連中が〝堕とした〟んだ」
意図的にしろ、そうでないにしろ、〝堕とされた〟場合だ。
「人が増えるとろくでもないことが増える。誤った奉り方や祈りを捧げ、神を捕まえてどうこうしようなどという傲慢で欲深い人間がいる。そういう連中は大概、邪悪なまじない……呪いを齎すことが多い」
つまり、どこの誰かはわからないが、力を失いつつあったどこぞの神を捕らえ、信仰心もないくせに間違った奉り方を続け、果ては祈りだと思い込んで呪ったのか。それはあんな姿にもなる。
「ああなってしまった以上、どうにもできない。声明も詠歌も和讃も意味がない。どうにかするには、一度、成仏させるしかない」
神を成仏させる。慈悲ではあるがとんでもない。仏の教えの大半は不殺生だ。そんなことをすれば。
――ああ、そうか。
そこまで考えて、俺はようやくあの灯台の老人のすべてを理解した。
「アレを斬るのは、俺なのですね」
すとん、と胸に落ちた解答を口にすれば、僧正は痛ましい表情で睫毛を伏せた。やってくれるかとも、やってくれとも言われない。言われないが、このままではアレは苦しいままにこの世を彷徨いながら、木も水も山も枯らして腐らせていく。
堕ちた神を殺す。しっぺ返しがないわけがない。けれど。
――なるほど。確かに。
鯉口を切り、その場に立ち上がる。真下に堕ちた神を見届けながら。
「それでは、〝逝って〟まいります」
白刃を抜き放ちながら、俺は真っ逆さまに落下した。岩場を蹴り、刃を下に向け、空ごと瘴気を裂きながら。
――これはとんでもない〝ハズレくじ〟だ。
一閃させた刃が黒く渦巻く巨体を切り離す。悲鳴とも轟きともつかない声のようなものが耳を劈く。ヘドロのような汚泥が頬を、腕を、足を汚す。穢す。それでも着地ざまに石を蹴って今度は水平に刃を振るう。疾風より速く、ただ静かなまま。
〝斬る〟ことに特化した刀はさしたる手応えもなく、堕ちた魂を両断する。頭上から真言が聞こえる。僧正が詠っているのだろう。その真言のせいかはわからないか、巨体は抵抗をやめた。目を凝らす。〝斬らなければならない場所〟が見える。視えるはずのない、神の心臓に等しい箇所。
――あんたは、ずっと、こんなことをしていたんだな。
最後の一太刀を浴びせる刹那、老人の鷹の目を思い返していた。
神の巨体が霧の中に解けた頃、左肩に尋常ではない痛みが走った。ちらりと目を遣るだけで理解する。あの老人を苛んでいた黒い渦のようなものが俺の身体にもへばりついている。これが老人の言う〝ハズレくじ〟。誰かがやらねばならないが、やった者は理不尽な情念を背負い込む。それでも誰かはやらねばならない。堂々巡りだ。
あの老人が、憎むのは自分だけにしておけ、と言った理由がやっとわかった。
憎むかと言われたら、そういう気にはならない。そういう〝役目〟に身寄りも何もない、感情の起伏も少ない、俺のような子どもを選ぶだけ、あの老人はやっぱり善人だったのだろう。
「……?」
汚泥の名残の中に光るものがある。赤い。小さい煌めきだ。珠のような形をしている。
拾い上げるべきだとは思ったが、穢れを負ったばかりの身で触れていいものか判断しかねた。崖の上の僧正を呼ぶと年齢に見合わぬ軽やかさで森林の狭間に降りてきた。布越しに僧正が拾い上げたそれは金の燐光を放つ、小さな朱い宝珠だった。
「神珠、ではないが……。他の神の力を感じる。依り代の一部だったのかもしれん」
「どこの」
「そこまでは計りかねる。持ち主が解るまで、うちで丁重に保管させて戴くことにしよう」
有難かった。俺が持ち歩くわけにもいかないし、この先、ずっとこの国にいるつもりもなかったからだ。
「覚悟は、出来てしまったようだな」
悲しい顔をして僧正はそう言った。
「寺社の水に浸かりなさい。少しはマシになるだろう」
僧正が言った通り、寺社に湧いていた清水に浸かると黒い渦はなくなった。しかし、他人の目に触れさせるには少々、躊躇われるほどの痣は残ってしまった。あの老人の身体にも無数の痣と傷があった。いずれはああなるのだろうな、となんの感慨もなくぼんやりと思った。
そうして俺の〝初仕事〟は終わった。
それからまた1年ほど、古寺を拠点としていくつかの〝どうにもできないもの〟を始末した後で、俺は日本を出ることになった。何しろそういう〝どうにもできないもの〟が生まれてしまうのは、日本だけではなかったので。
僧正は長い旅路の手向けだと言って、光明真言を唱えたあとに数珠を授けてくれた。ひとつ、仕事を熟す度にひと粒ずつ砕けていって、今はもう手元にないのだが、あれは善人であった僧正のせめてもの贈り物だったのだろう。
一度だけ、ドイツのあの灯台に戻ったが、既に老人は村の片隅の埋葬された後だった。埋葬され、墓標が立っているだけマシなのだろうか。そんなことを考える。名前は刻まれていなかった。村の誰も、俺ですら、老人の名前を知らなかった。自分で名前を捨てたのか、それとも何かに奪われでもしたのか。今となってはそれすらわからないままだ。
それから俺の行先のない旅が始まった。仕事を探すために傭兵としてそのテの結社や団体に潜り込んだ。実に都合が良く効率が良かったのだ。各地を転々とした。見つけて還す。見つけて撃つ。見つけて斬る。繰り返しだ。
〝呪われろ〟。〝殺せ〟。〝殺されろ〟。〝死ね〟。〝お前も死ね〟。
祓っても、祓っても、無駄なので放置していた雑念から、いつもそんな戯言が吐き出されるようになった。混ざり合って聞こえるものだから度々、聞き取れない。今の俺でこうなのだから、あの老人はどんな声を聞いていたんだろうな。それとも逆に耳鳴りやら雑音やら、そういうものとしか捉えられないようになっていたのだろうか。
いつか自分もあの老人のようにひとりで死んでいくのだろう。
特別、それをどうとも思ったことはなかった。しかし、ただひとつ、自分も自分の後継を探さねばならないのか、と考えたときだけ頭が痛かった。まだ言う通りに動く身体に安堵しながら、いつもそれだけは俺の頭を悩ませていた。こればかりは〝適材〟と出会うのを待つしかなかったのでずっと棚上げしてきた。
仕方がない。俺がその分、〝長持ち〟すれば問題はない。
そんなふうに世界の歯車のひとつとして淡々と〝役目〟を全うしていた。そういうふうに決められていたはずなのに、ある日、俺はとある悪魔と出会い、ひとりの少女と引き合わされてしまったのだ。
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