2009/11/03first
09/10
2024
※日本に行くレンカノの前日譚ぽい何か
※色気より食い気だけどさすがにそろそろ色気になりたいダンデライオン
※色気より食い気だけどさすがにそろそろ色気になりたいダンデライオン
身体が軽い。落ち着かない。
「せめてライダースジャケットが欲しい」
「却下。カノン。君はそんなナイフでも拳銃でも隠しておけるものを着るより、その服装の平和加減に慣れておいた方がいい」
「うーん……」
思わず零してしまったら怜吏に即却下されてしまった。
下はスリムなフィット感が強いチノパンとレギンス。上はインナーと薄手のパーカー。靴は歩きやすいスニーカー。もちろん、靴の底にナイフを仕込む厚さはないし、キックの衝撃を重くする鉄板も入っていない。だからとっても動きやすく、その分軽い。アル兄じゃないけどふわふわ浮けてしまいそう。
「日本はお前が思っている五百倍は平和な国だぞ。刃渡りによってはナイフ所持だけで警察に捕まる」
「マジで。警察が仕事するんだ。あんなの昼に立ってるだけの街灯か、カカシかと思ってた」
「ちなみに、釣銭を誤魔化したら罪になるが、レシートを捨てても罪にはならない」
「……ヘンな国」
「ははは、まあ、変なことは否定しない」
10年前は日本にいたというレンの言葉に驚く。怜吏が苦笑いしながら頷いている。サルバドルのファミリーはカシ兄が受け継ぐ前から割と慈善団体だ。警察がアテにならないから仕事をする。誘拐犯から被害者を保護するし、密輸入された薬の類は焼却処分するし、観光地のど真ん中に放られた爆発物も解体処理する。
大方の掃除が済んで、ファミリー自体は解体したけれど、あたしたちの生活からそういう活動が消えることはない。名前が奉仕団体になっただけだ。規模は小さくとも悲しいことに疚しい輩はどこにでも湧いてきてしまうので。
つまり、何が言いたいかというとナイフの一本も持つことを許されない格好、というのがあたしにとっては実に……何年ぶりだっけ。もしかしたら物心つくより前かもしれない。果物ナイフなら、物心つく前に自衛のために持たされていた。
「お前の経歴を考えたらわからなくはないが。それでも慣れろ。フレイヤに自分のような生き方をさせたくなかったらな」
レンが可愛い姪っ子の名前を出して脅すので、ぐうの音も出ない。自分の生い立ちが不幸だなんて欠片も思っていないけど、そういう生き方をして欲しいかどうかは話が別だ。少なくともお腹が空いたらいっぱい食べられる環境がいい。怜吏がくすくすと笑う。面白がってるな。失礼な。
「表と裏があるのは日本もイタリアも変わりはないけどね。君が見学しにいくのはあくまで表の世界だ。これを機会に平和にのんびり日向ぼっこする気持ちよさを覚えるといい」
「割としてると思うんだけどなぁ」
「全然足りないさ。君は8歳の頃からイタリアの平和のために戦ってきたんだ。もっと寝転んでいてもいいくらいだ」
「そんなもの?」
「そんなものだよ」
イタリアの平和とか、あまり考えたことはない。あたしは目先のできることを片づけてきただけだ。幸か不幸か、その範囲がちょっとだけ広かっただけで。それにあたしひとりが、というわけでも何でもない。サルバドルやカシ兄に集められたメンバーはみんなそうだった。
「まあ、日本までプライヴェートジェットでも12時間はかかる。少し休みながら考えるといい」
ぽん、とレンがあたしの頭に手を乗せた。休みながら考える、か。難しい。
あたしの記憶はスラムの片隅にある小屋の中から始まる。家族は、そのときはひとりだけ。
朝早くに、ここから絶対に出るなよ、と言い含めて、夜にパンや果物やスープなんかを持ち帰ってくれる兄。大体、一人分しかないそれを半分に分け与えてくれる兄。名前をカシスという。いうんだけど、たぶん、本人が適当に考えた名前だ。その小屋の裏手でよくクロスグリが獲れていたから、これほどいい加減な名前もない。
物心ついたとき、あたしは声が出なかった。ということはつまり、危ないことがあっても悲鳴を上げて誰かを呼ぶことさえできない。だから、カシ兄はあたしに一人で外を出歩くことを禁じて、何かあったら躊躇いなく振れ、と果物ナイフを握らせた。
スラムの弱い子どもはどう足掻いたって搾取される側だ。躊躇っていたら自分を守れない。
あたしが次に特別に名前を覚えた人間は、カシ兄が連れてきた男の人。目が綺麗だったのを覚えている。いや、まあ、色合いとか造作とかも綺麗なのかもしれないけど。そうじゃなくて。なんていうか、ああ、悪い人じゃないな、とわかった。
根拠とか理由とかは未だにはっきりしないんだけど、あたしは何故かそういうのがわかる。悪いもの、邪なもの、害を及ぼすもの。そういうものがなんとなくわかる。何がどう悪く作用するかまではわからなかったので、カシ兄にいっぱしになるまでは徹底的に避けて生きろと言われた。観察して、理解して、自分でどうにかできるようになるまでは手を出すんじゃない、とも。
当たっていると思う。例えばだけど、スラムの配給品の中に腐った林檎が混ざっていたとして、どうだろうか。指摘してしまえば配給品を用意する教会が気を悪くして羽振りが悪くなってしまうかもしれない。誰かに気づかれないように捨てたって誰かに見られているかもしれない。腐った林檎の果汁でも、口にすれば助かる場合もあるかもしれない。
そこまではわからないから、わかるようになるまで避けて生きるのが無難だ。隣の比較的、新鮮な林檎を取って黙って食べる。子どもが出来る賢い生き方。
まあ、ともかくそんなあたしが、この人はいい人だな、と判断できたのが後の長兄のアルバートだった。
そのアル兄によってあたしとカシ兄はスラムを出て、三人で生活するようになった。最初はアル兄のアパルトメントで。丘の上に家が完成してからはそこで。
三人で住む家に着いたとき、アル兄が得意げにドアの上に板を張り付けた。まだ文字を読むのが苦手だったあたしの代わりにアル兄が、俺たちの〝丘の家〟だ、と言いながら抱き上げてくれた。
住むところが〝丘の家〟に変わって少し経ってから、カシ兄はアル兄に内緒でこっそりあたしだけを屋根裏へ呼び出した。アル兄はあたしたちがどこにいるか知っていたり、考えていることがわかったりしたんだけど、カシ兄のことだから上手くやったんだと思う。
「いろいろ言っておくぞ」
『うん』
当時のあたしはまだ声が出せなかった。だから身振り手振りと筆談だ。
兄二人は話せないあたしの言うことを察してくれる節があったが、特にカシ兄はあたしを甘やかさなかった。話せないあたしに文字を叩き込んだし、余裕が出来てからは何度も発声練習をさせた。当時はキツかったけど今では感謝している。
「この家の持ち主はアルバートだ」
『うん? うん』
あまりにも当たり前のことを言われたので、何が言いたいのかわからない。
「わかってねーのに、適当な返事をすんな」
『むー』
カシ兄があたしの頬っぺたを抓って伸ばした。いたい。
「つまり所有権……まあ、この家を売ったり壊したり、誰を住まわせて誰を住まわせないか。そういうことは基本的にアイツが決めるわけだ」
『ふんふん』
それはなんとなくわかる。そもそも家を作ったのはアル兄だ。カシ兄も図面をひいたとかなんとか言っていたけど、お金を工面したり土木工事をしたのはアル兄だから、そういう権利はアル兄にある。うん、ここまではわかる。
「ざっくり言えば、アイツが出て行けと言ったら俺たちはここを出ていくしかないわけだ」
『うんうん』
誰が住むか決めるのはアル兄だもんね。そこもわかる。
今、考えてみたら、アル兄が聞いたら、そんなこと言うわけがないだろ! と怒っただろう。カシ兄はそれがわかっていたから、あたしだけをこっそり呼びつけて内緒話をしたわけだ。
『アルにいをおこらせちゃいけない?』
「いんや、それは別にいい。むしろお前は怒られろ、つーか叱られろ。せっかくガキなんだからそのままガキでいて、アイツを人間にしてやれ」
『アルにい、にんげんじゃないの?』
「今はな」
『ふーん?』
確かにアル兄は消えたり空を飛んだりする。そんな人には初めて会った。なんだろう。妖精とか。魔物とか。宇宙人とか。いや、地球人だって宇宙人なんだっけ。でも、カシ兄がそう言うってことは、アル兄は地球人ってことにしたいんだろう。
「お前、アルと空飛ぶのは好きか?」
『んー、ジェラートたべにいくほうがたのしいしおいしい』
「じゃあ、そのままでいろ。お前が重石になって地面に縫いつけておけ」
『うん』
どういう効果があるのかはよくわからない。けど、とにかくアル兄と手を繋ぐときは、思いきり体重をかければいいんだな。わかった。
「で、アルの意志とは別に俺たちが出て行かなくちゃならないときはもうひとつある」
『むん?』
「アイツに恋人が出来て一緒に住みたいと言い出したときだ」
『むむ? ノッテ・ミィマンキーのノンノとかフィーのはなし?』
「誰だ、お前に〝一夜限りの恋人(ノッテ・ミィマンキー)〟の店の話なんかしやがったヤツは。面倒くせぇ。違ぇよ。アモーレ、夫やら父親やらになりてぇ、って思った女ができたときの話だ」
『アモーレ』
なるほど。そういう可能性もあるのか。確かに余ったパンの欠片をくれるハンナは旦那の酒癖を愚痴っていたし、ランプの糸くずを持って行っても怒らないリベルは女房が太ったことに文句を言っていた。世の中の男女とはそういうものらしい。
『アルにいにすきなひとができたらこどもをつくる?』
「そうだ。で、子どもを作る作業に俺たちがいると確実に邪魔だ」
『なんで?』
「そうだな。まず女側が初めてだとクッソ痛い」
『クソいたい』
「血も出る」
『ち』
スケッチブックの新しいページを開いて、馬鹿でかく文字を書いた。
『たいへんだ!』
「そうそう。大変なんだよ。お前、痛くて悲鳴上げてるところだとか、泣いてるところだとか、見られたいと思うか?」
『やだ』
「だから基本的にふたりっきりなんだよ。まあ、本格的な性教育はいずれしてやる。それだけ覚えとけ」
『わかった』
我ながら素直な子どもだ。カシ兄の誘導の仕方が上手いとも言える。
「だが、お前は遠慮しすぎるな。たまには邪魔してみろ」
『なんで?』
「お前、アルの目が節穴で連れてきた女が悪女だったらどうする。お前に向かって、汚らしい子どもとか泥棒猫とか吐き散らしてビンタするような女だったら?」
『あくじょ』
そのとき、あたしの頭にあったのはテレビで見たコメディタッチのドラマだった。悪女という薄いドレスを着た首も指もついでに髪もきらっきらな女が、いかにも堅物といったスーツの男をひっかける。そして宝石やらバッグやらドレスやら、散々貢がせて最後には身ぐるみ剥がされてしまうのだ。
スケッチブックをめくってまた大きな文字を書く。
『たいへんだ!』
「大変なんだよ。だから、お前がアルを守ってやれ。いいな?」
『わかった!』
要するに一番大人であるアル兄に対して程々に甘えてもいいが、自立心を忘れるなということを度々説教されていたのだ。アル兄はなんていうか、カシ兄やあたしに甘かった。今はカシ兄やあたしの自立を喜んでくれるまでになったが、当時は砂糖を煮詰めたシロップ並みに甘かった。
アル兄はそれまで食べるものに困るような生活をしていたわけじゃないから、引け目みたいなものもあったんだと思う。でも、だからってあたしやカシ兄がアル兄の人生の邪魔になってはいけない。かといって、遠慮のしすぎもアル兄が望むところではない。
そこら辺の、本当ならスクールで学ぶような、あるいは身に着くようなものを、カシ兄は補助してくれていたんだろう。向いていないことをやらせたとちょっと反省している。
ちなみにこのやり取りは数年後、アル兄が選んだ恋人候補を見たあたしが、ついカシ兄の手元のメモ用紙に『悪女じゃなかった! 女神だ!』と書き込んでしまい、その場でカシ兄が爆笑したためにバレた。別に悪いことを企んでいたわけじゃないので、怒るに怒れないアル兄の顔を拝んだだけ、だけど。
まあ、何だかアル兄にとってもカシ兄曰く〝放任主義〟を学ぶ機会になったとか。ついでに悪女じゃなかった女神にまで、可愛がるだけが子育てじゃないのよ、と説教されていた。以来、アル兄のシロップ対応はエスプレッソの底に溜まった砂糖粒程度に変わった。
あたしはアル兄のように空を飛べるわけでも、カシ兄のように一目見たものを全部記憶できるわけでもなかった。ただ、サルバドルの親父さんを初めて地面に転がしたとき、あたしは8歳だった。体術のお墨付きをもらった年齢だ。
アル兄もカシ兄も食べても太らないものだから、当時のあたしとしては二人を守らなきゃ、みたいな変な使命感があったのだ。一番、守られていたのがあたしなのだ、とはなんとなく気がついていたけど。その分、必死だったのだ。
レンに出会ったのはあたしが14歳のときだ。カシ兄がメンバー兼あたしの家庭教師(カヴァネス)として雇ってきた。雇った理由は2km先からの狙撃で彼の放った銃弾が、カシ兄の前髪を掠ったから、だそうだ。つまり有能さを買って別組織からヘッドハンティングしてきた、と。
相変わらず、カシ兄の思考は読めない。ただ、ソイツが狙撃手として有能なのはその話だけでわかった。普通の狙撃手が狙える限界はどれだけ腕が良くても1.5kmが限界である。それを2kmからのニアミス。500mがカシ兄の命を救ったと言っても過言じゃなかった。
そして、あたしが実際に彼を見たときの感想は、あ、こんなヤツもいるのか、だった。
ソイツときたら頗る綺麗なのだ。顔とかじゃなくて、例によって性根だとかオーラだとか気配だとか、そういうものが。なのに、ソイツの周囲は常に悪臭と黒々とした靄に覆われているのだ。助けてだとか、呪ってやるだとか、死んでしまえだとか、喚いている靄。
悪臭が強くなって、声が大きくなるとき、決まって眉を寄せるので聞こえていないわけではない。たぶん、自分でどうにかできないわけでもないんだと思う。ただ、キリがないので放置している。そんなふうに見えた。
――仕方ないなぁ。
狙撃手なら雑音なんて邪魔でしかあるまい。カシ兄が雇った以上、全力で避けることはないんだろうし。あたしはその困った思念たちを〝殴った〟。
風船が弾け飛ぶような音がして、もやもやが霧散する。彼は呆然とあたしを見ていた。あたしはまだ執念深く纏わりついている細かい塵が気になって、彼の肩だの背中だの頭髪だのをぱたぱたと払い除けていた。
一仕事を終えて、ふーっ、と一息吐いた後に拝んだのは、これ以上なくしかめられた男の顔だった。
はて、かなり楽にはなったはずだが。そんなことを思っていると、苦虫を噛み潰したような顔をした男が初めて唇を動かした。
「確かにこれは家庭教師(カヴァネス)がいる」
「だろ?」
何故か、ひどく納得した表情の男とカシ兄が通じ合っていた。
初対面の男の肩だの背中だの髪だのに触れるのはセックスアピールになると、あたしがまだ知らなかった頃の話である。
越してきたレンのアパルトメントの一室は度々、あたしの避難所になった。何からって幼児の頃から約束させられていた恋人同士を邪魔しないための、である。
一応、言っておくと、その頃にはカシ兄とスオミによる性教育を受けていたため、そういう行為が毎回痛いわけでも血が出るわけでもない、と学んでいた。弟や妹に見られると気まずいものだということも。
仕事で帰れないという連絡をカシ兄からもらって、じゃあレンのところに行くか。というのが常習化した。毎回のように渋い顔をされたが、全戦全勝を誇っている。
まあ、そんなふうに回避行動を取ってはいたけれど、さすがに遭遇回数がゼロ回とはいかない。瑠那を〝丘の家〟で保護することになった後は尚更だ。そんなに上手くいくはずがない。
やばい、と思ってそろそろと忍び足で脱出を図る間、どうしたって聞こえてしまったり感じ取ってしまったりする空気がある。心臓がばくばく五月蠅かったし、靴紐を結ぶのに時間がかかったし、背筋の汗がひんやり冷たかった。頭では知っていることだし、恋人であれば普通のことだとわかっていた。なのに、なんであんなに動揺したのかわからない。
裏社会に生きる以上、あの行為からは目を背けられない。実際、愛のない行為をしている現場に踏み込んだことも二度、三度じゃなかった。感想は場合によって様々だ。何も知らない一夜限りの相手であれば手厚く保護して火の粉が降りかからないようにしたし、男も女も、心底、軽蔑するような輩であれば容赦しなかった。実に淡々とした振り分けをしてきたつもりだ。
やっとレンのアパルトメントに到着して、彼に抱き着いてから、ぼろぼろと涙が出てきた。
「どうした?」
「なん……でも、ない」
「なんでもないヤツがそんな顔をするか」
かつてないほどレンはすんなりと室内に入れてくれた。変わらず彼が出してくれる飲み物はホットベイリーズミルクで子ども扱いが拭えなかったけど、そのときはそんなことどうでもよかった。
わけのわからない涙をたっぷり流した後のミルクは、やたらに甘かったのを覚えている。
「何があった」
「本当になんでもない」
「だから」
「見ちゃっただけ」
何を、とは聞かれなかった。ただ深い溜め息とともに、らしからぬ乱雑さで彼は髪を掻き毟った。
「……まあ、落ち着くまで泊まれ」
「いいの?」
「俺はお前の家庭教師(カヴァネス)だ。その面で無責任に帰した方が給料を減らされる。それに隣の奴らに俺が年下の女を泣かせたと思われるのも業腹だ」
ちょっと反省した。確かにそう見えてもおかしくない。アル兄には甘えすぎまいと注意していたのに。そういえばカシ兄はレンに甘えすぎるなとは注意して来なかったな。なんでだろ。
「なんでだろうね。別に反対とかするつもりないのに。健全なことだって知っているのに」
「身体と精神の生理現象と、頭で理解している知識は別物だろう。仕方がない。お前くらいの歳の少女たちは仲睦まじい親たちの姿を見てベッドかトイレに駆け込むものだ」
「え」
意外だった。
「なんで? そうやって自分たちも生まれたのに?」
「それは理屈だ。生理的な拒否反応は理屈じゃない。身近な親兄弟が、本や映像でしか見たことのないことをしていれば混乱するし怖くもなる」
「……あたし、スオミのことも瑠那のことも好きだよ? それでも?」
「それでもだ。子どもは自分が知らない親の一面に不安になる。特にお前はな。別に恋愛感情がなくても出来てしまうものだと知ってしまっているし、現場も見てきている分、質が悪い。無条件に父親を嫌悪する娘もいるんだ。兄たちを嫌悪しまいと足掻いているお前は利口な方だろう」
「嫌いになるわけない。でも、遭遇する度にこんなんじゃ困る」
「安心しろ。馴れは誰にでも来る」
「本当?」
「馴れるまでは避難所になってやる。というか、もうしているか。残念なことに俺の給料とここの賃料はお前の兄から出ているから、お前にも出入りする権利は多少ある」
妙にほっとしてしまって、その後は関係のないことをぽつぽつ話した気がする。食べられるときに食べておくがモットーのあたしにあるまじきことに、その夜は夕食も食べずにソファで寝落ちしてしまった。
「おぉう」
翌朝、目を覚ましてずらりと並んだ着信とメールの多さに驚いた。どこにいるんだ、連絡しろというお叱りのメールから、大丈夫なのか、無事でいるのかという心配のメール。
最後のカシ兄の着信に応答したマークがついているけど、あたしじゃないのでレンが出たのだろう。こんなにひっきりなしに鳴っていたというのに気がつかないとは。昨日のあたしは相当に疲れていたらしい。
それを見てすっかり安心してしまった。
――なんだ。ちゃんと心配してもらえるんだ。
すとんと胸に落ちてきて納得した。
たぶん、あたしはどこか不安で寂しかったんだろう。あたしとアル兄とカシ兄は血が繋がっていない。戸籍だってちゃんとしていない。そしてわかっていた。いつか、二人には大事な人が出来て、あたしよりもその人を優先するようになるんだろうな、って。
それは別にいいんだ。というか、そうでなくちゃ困るし怒る。アル兄がスオミよりあたしに構ったり、カシ兄が瑠那よりあたしを優先したり……は、あんまり想像できないけど、ともかく怒る。
それでどこかで、そうなったらあたしはどうでもいいのかな、って思い込んでいたみたいだ。その答えがこれだ。全然そんなことなかった。ひとりひとりに返信したいけど、糖分が足りない。お腹が空いた。キッチンからコーヒーの匂いがしていたので、そのまま突撃した。
「レン、お腹空いた!」
「泣いたカラスは笑うのが早いな」
「からす?」
知らない日本語の諺を教わりながら、ベーグルに好きな具を好きなだけ挟んで食べた。
家まで送ってもらう途中で、気がついた。同じ年頃の少年少女たちが、浮かれた表情で花の冠を被り、小さなブーケを持って大通りを闊歩している。大体、親か兄弟か、でなければ恋人らしき人と一緒で晴れ晴れとしている。
はて、何か催し物でもあっただろうか。そうであったら、一応、カシ兄が目を光らせているはずだけど。
そんな疑問が顔に出ていたらしい。あたしの視線の先を追ったレンが、納得したように、ああと頷いた。
「どこかのスクールで卒業試験があったんだろう」
「あ、なるほど」
スクールとは縁がないが、さすがに存在くらいは知っている。好きなことを教師から教わる施設。ただし、試験というものがあっていつでも落第があり得る。スクールの生徒はいつも必死に勉強するし、親だって自分の子どもが落第しては可愛そうなので口酸っぱく勉強しろと言う。
そういうプレッシャーから一時、解放されるのが卒業試験後だ。まあ、一時は一時なんだけど、今日くらいはお祝いしましょう、という家庭が多いんだろう。
「ほら」
ぱさりと音がして目の前に花びらが降ってきた。デイジーとプルメリア。それからダンデライオン。きょとんとしていると、欲しかったんじゃないのか、と声がとんでくる。そういうつもりじゃなかったんだけど、そう見えたらしい。
頭に乗せられた花冠を摘まんでみる。困った。
あたしにとってカシ兄は初めて林檎を食べさせてくれた人で。
アル兄は初めてジェラートを食べさせてくれた人で。
今でもあたしの一番の好物はジェラートが乗った熱々のアップルパイだ。
誕生日以外で家族じゃない男の人から花をもらうことなんて初めてだ。どう反応したらいいのかわからない。食べ物なら御礼を言って食べればいいんだけど。
「まあいい。ひとつ卒業したことだしな」
「卒業?」
「お前はお前が思っているより兄貴たちに大事にされている」
「……うん」
それはそうかも。確信はないけれど、今度、同じようなことになったとしても、あたしはもう大丈夫だと思う。そんな気がする。
「ねえ、こういうのって作れたりする?」
「花冠か?」
「うん。もうちょっと豪華で、花嫁さんが被ったりするヤツ」
「いきなりだな」
「いきなりかな?」
「……いや、そうでもないかもな。複雑すぎなければ作れるぞ」
「やったね。後で教えてよ」
「別にいいが、まずは家に帰ってヤツらを安心させてやれ」
「はーい」
家についてドアを開けた途端に抱き締められ、危うく花冠が潰れそうになった。どうしたらいいかわからないまま、花冠はしばらく部屋に飾っていた。枯れてしまう前に数本だけ抜き取って、スオミに習って押し花にしてもらった。
「カノンも女の子になれそうね」
途中でそんなことを言われてしまった。生まれたときから女だったはずなんだけど、どういう意味なのかは教えてもらえなかった。
「ふあ……」
ジェットの中で目が覚めたとき、毛布が掛けられていた。いつ寝たのかも判然としないので、掛けた人間なんて限られる。隣を覗き見ると会ったときとほぼ印象が変わらないあたしの家庭教師(カヴァネス)が静かに寝息を立てていた。
あれからもう2年くらいの歳月が経った。アル兄は活発な姪っ子の子育てに奮闘中だし、名前を変えて外国――日本に行ったカシ兄にも子どもが出来て上手くやっているらしい。国籍を変えてまったくの他人という体にしているので、怜吏曰く、会うのはもう少し先にした方がいいそうだ。
まあ、カシ兄のことだからそんなに変わらず、周りを振り回したり、ちゃっかり何かを壊したり直したり、さりげなく地球を救ったりしているかもしれない。なんだろうね。本人、まあったく善人じゃないのにそういうものの方から好かれているらしい。
そして、あたしの家庭教師(カヴァネス)は相変わらず家庭教師(カヴァネス)をやっている。
――失敗したなぁ。
うん。あのときに避難所として彼のところに駆け込んでしまったのは、明らかに失敗だった。まあ、そりゃそうだ。そんな子どもを今さら女扱いなんてしてくれない。
あたしが日本に行くのはあくまでオマケだ。ちょっと広い世界を見て来い、というアル兄からのお達し。そしてカシ兄からのお膳立て。何でもカシ兄が婿入り……はしてないけど、縁続きになった瑠那の実家の分家筋が居合の名人を探しているとかいないとか。そこで白羽の矢が立ったのがレンだった。本職は狙撃手だが懐に入られるとカタナがとんでくる。
正式に段位を持っているわけじゃないから、と最初は固辞していたが、瑠那の実家にはそういう人がごろごろいるらしく理由にならなかった。幽霊とか魔物とかを見分けられるのもポイントが高いらしい。ますますあたしはオマケ、というか邪魔なのでは、くらいの存在なのだが。
――まあ、外国で女の子に惚れこんじゃって帰って来ませんでした、とかがあると困るし?
アル兄やカシ兄と違ってレンは家族じゃない。そんなことになってもあたしがどうこう言える立場にない。あるとしたら家庭教師(カヴァネス)としての契約打ち切り、くらいだろうか。そもそもその家庭教師(カヴァネス)の契約状況がどうなっているのかさえ、あたしは知らない。雇用主はあくまでカシ兄だ。
――家庭教師(カヴァネス)じゃなくなったら給金減るのかな。
減るよね。世の中、そんな上手い話はない。というか、カシ兄がそんな上手い話を作っているとは思えない。
「はーぁ」
あたしはいつまで子どもでいればいいんだろうな。とりあえず、いずれカシ兄に会えたらそこら辺のことを訊いてみようと思う。日本まではあともう少しだ。
※注 本人がそう言っているだけで別に本当に家庭教師(カヴァネス)契約とか結んでねーよ、ばーか。オチです。
PR
この記事にコメントする