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※行方不明から帰って来た月城豊。
※1年前の災厄の内側と紀野さんを書くための物語。(出てきただけ。出てきただけ

天は黒髪美少年?と言っていましたが、肉体の交換的な雰囲気いいかなと思って今の豊の色として描写しております。視る人によって多少変わるかもということで;






 “あの日”は桜の蕾が膨らんだ春先に訪れた。
 弘ちゃんが件の進学校に合格するという奇跡を経て、卒業式で卒業証書入りの黒筒でチャンバラするという伝統行事を済ませた後。長い春休みのある日のこと。弘ちゃん家のおばさんが、「卒業お祝いとお誕生日、両方やらなな」と言っていたから、たぶん僕の誕生日より前の話。 ……ああ、少し曖昧なのは“あの日”の日付は覚えているけれど、僕が自分の誕生日をよく忘れるせいだ。
 近所のおじさまおばさま方は、「息子の卒業式くらい帰って来ればいいのにね」なんて勝手に同情してくれたけど、正直来なくて安心していた。あの頓珍漢どもは僕が登壇した途端に「豊ーっ!」「こっち向けぃっ!」とかカメラ構えて叫びそう。すっごくやりそう。羞恥と罪悪で心臓が潰れる。良かった。来なくて。
 何の変哲もない昼を過ごして、当たり前のように夜がきた。天気は曇り。朧月だから明日は雨が降るかも、と鏡のスイちゃんが言っていた。ベルベルや克己は母さんが卒業祝いにと送ってきたメイプルシロップを舐める作業に忙しそうだった。かくいう僕は、同封されていた「美味しそうにホットケーキを頬張るゆうちゃんを眺めていた幸せが昨日のことのようです」という手紙のツッコみどころに悩んでいた。あの母親は今になっても苦手だ。けして嫌いじゃないけどたぶん、世界で一番苦手だ。いっそ絶望的なまでに苦手だ。
 まあ、つまりは特筆する程のことは何もない夜だったのだ。
「ゆうちゃん」
 手紙を放り出して、みんなの家を適当に手入れしていたら、何やら難しい顔をしたシズクが勝手口に立っていた。
「どうかしたの」
「なんや、妙に水が騒がしいんよ」
 水は騒がないよ、と言いたいところだけれど、元・泉の神霊であるシズクには僕には聞こえていないものが聞こえるのだろう。眉を顰めて、小首を傾げている。こういったことは実は珍しくない。最も鋭いのはシズクだけれど、スイちゃんはお店の外の妖怪の気配に敏感だし、カッちゃんは雨の気配がある日には絶対に姿を見せない。
「ちょい見てくるわ。あんまり時間かからんと思うけど、ゆうちゃん外に出んようにな」
「うん、わかった」
 つい子供じゃないんだから、と言いかけるけれど、シズクがそんなことを言うということは、子供云々が理由ではないのだ。たぶん。
 僕は益子焼の一輪挿しから酸漿(ほほづき)の枝を抜き取ってシズクに手渡す。夏咲に実をつけた酸漿を日干しにしていたものだ。シズクが触れると網目状の皮の中心に残っている実にぽっ、と淡い光が灯る。これがシズクにとっては懐中電灯で、騒がしい水とやらを宥める道具にもなるらしい。
「ほな、行ってくるな」
「うん。いってらっしゃい」
 何ということはない夜で、何ということはない出来事であったから。それだけを言って夜道に消えていくシズクを見送った。シズクが歩を進める度に、ほたほたと落ちた仄かな灯が路傍に光る。あの酸漿があれば道に迷うことはないのだそうだ。
 勝手口から戻ってきても、メイプルシロップ攻防戦はまだ終わっていなかった。土間に下りて作業を続けようとしたら、頭上の壁がかたかたと鳴った。
「おじじ、どうかした?」
「主、シズク殿はどうされた?」
「出かけたよ。何だか水が騒がしいって言って」
 揺れて壁にぶつかっていた勾玉のサキミのおじじが、ぐにゅりと眉間に皺を寄せた。ただでさえしわくちゃな顔がもっと歪んで見える。
「いかん」
「おじじ?」
「皆、各々の場所に戻れ。ユタカ、主はしばらくここから離れておれ」
「どうして?」
「何か」
 来る、と続けたかったんだろうおじじの声はそこで途切れた。耳を劈く轟音と虞風が僕の身体を横殴りにして、土間に倒れ込んでしまう。鍵をかけていたはずの戸口が、硝子が割れんばかりの音を立てて開いたのだ。そう気がついたのは何もしていないのに居間と玄関の灯りが消えた後だった。
 そのときの感情なんて覚えていない。何が起きたのかさえわからなかった。痛む全身を叱咤して起き上がろうとして、声が出ないことに気がついた。所謂、一種のパニック状態だったのだと思う。誰かの名前を呼ぼうとした気がするのだけれど、ひゅ、と喉の奥がひりついて声にならなかった。
「あ、あった!」
 その声はひどく幼く、あどけなく聞こえた。それこそ公園で探し物を見つけた子供が歓喜しているかのような。屈託のなさすぎる声。
 戸口から聞こえる声に振り返ろうとして、組み敷かれたように全身が硬直したのを覚えている。“それ”は殺気だとか、面妖な術だとか、特別な力を発揮していたわけではない。ただ単純に自身の存在感を剥き出しにしていただけだった。今でこそこんな冷静な分析が効くけれど、当時の僕といえば土間に這いつくばって白痴のように喘ぐことしかできなかった。それ程までに圧倒的な威圧感を以て、“それ”は僕の前に姿を現したのだった。
「よかった、よかった! ずうっと探してたんだぁ!」
 土床に縫い付けられた身体を支えながら、何とか眼球だけを動かして “それ”を見る。淡すぎる朧月の逆光を背に、“それ”は実に朗らかに嗤っていた。
 背丈はせいぜい小学生高学年ほどの子供、床につきそうなくらい長い白髪、伸ばし放しの前髪の合間から覗く爛々とした藤色の瞳。着ているものはただの襤褸で、一見したら捨て子なのではという考えが脳裏を過る。けれどその小さな全身から発せられる得体の知れない威圧感が、頭を鷲掴みにされてひれ伏させられているような違和感が、そんな妄想を捨てさせる。ただの子供なんかじゃない。いや、ただの子供どころか。
「バカな人間がすーぐ捨てちゃうから、なかなか見つからなかったんだよね!」
 人間ですら、ない。
 無邪気な藤色の両目に映ったのは、壁にかけられたラピスラズリのアンティーク・チョーカーで。まるでそれ以外は興味がないと言わんばかりに大股で土間を駆けるものだから、ケースから出ていた陶器の壺や人形がごろりと転がって、掛け軸と絵画が倒れて。声にならない悲鳴がいくつも轟いて。でも、その子供は。
「邪魔だよ。中途半端な欠陥品なんかいらない。黒石(くろいし)が変なのを誘き出してるうちに掴まえなくちゃ」
 なんて、掛け軸の鶴を踏んで歩くものだから。啜り泣きながら耳を塞ぐ小妖精(ピクシー)がいたものだから。
 子供は桐の箪笥を踏み台にしてチョーカーに手を伸ばして。
 ああ、なんて叫んだか覚えていない。たぶん、やめろとか、だめだとか、そんな捻りのない一言を吐いて。
 無我夢中でからだを動かして、そう、子供を突き飛ばしたんだ。
 思ったより子供は軽くて簡単に転んで、こっちを見た両目がどんどん憎々しげに歪んで、眉が吊り上って、ばちばちとひどいラップ音と心臓の音が五月蠅くて。
「なに、それ」
 それなのにその冷え切った子供の声はやけに鮮明で、それがまた恐ろしく震え出しそうで。
「なに、その仲良しごっこ」
 最高に不愉快なものを見た。そんな目をして、そんな声をして。
「そんなごっこ遊び」
 刹那、大きく振り上げられた子供の手に翳されていたものが何なのか、僕はわからなかった。わかるわけがない。だって、そんなもの、骨董のなまくらか、鑑定の最中でしか見たことがなくて。少なくともたった15年しか生きていない、比較的平和に育ってしまった中学生では理解さえもおぼつかない代物だった。
「だいっきらいだ」

 自分の心臓を狙う、月光に煌めく、刀の切っ先なんて。

 ユタカさん、そう叫んだらしいベルベルの悲鳴もうろ覚えで。とにかく理解できたことは、死ぬとき人は痛いのではなく熱いという感覚で死ぬんだ、と。それだけを一瞬のうちに知った。
「あれ、お前、面白い身体してるね――」


「……うちゃん、ゆうちゃん」
 ん、あれ、シズク……?
「よかった。間におうた」
 まにあう、ってなぁに?
「ごめんなぁ。なんにも出来ん神様でごめんなぁ」
 シズク? 何を言っているの? 僕は君に何かを望んだことなんてないじゃないか。
「ほうやな、ほうやなぁ。ゆうちゃんはいつも小さなつづらばっかし選んでからに」
 何を、言っているの?
「ごめんなぁ、あんまし時間がないんよ。だからな、聞かせてほしいんよ」
 きく? 何を?
「ゆうちゃんは、私のこと好きか?」
 うん。大好きだよ。
「お店のみんなのこと、好き?」
 うん。大好き。
「ベルベルちゃんのこと、好き?」
 うん。ドジっこだけどね。ドジでお馬鹿だから、自分のせいとか思うのかな。馬鹿だな。
「おじいちゃんやおかあさんたちのことは?」
 うん。クソジジィにもゴリラ親父にも母さんにも、正直ついていけないけど。でも愛されているのは知ってる。
「弘ちゃんや義巳ちゃん、咲也さん、桐花ちゃん……人間のみぃんなのことは?」
 好きだよ。馬鹿だなって思ったり、お人好しだなって思ったりはするけど、好きだよ。
「鳶之介くんはどうや? 嫌われてるかも言うとった」
 それは……わかんない。
「嫌いなん?」
 ううん。嫌われてるから嫌いになるって、ちょっと違うと思うな。好きとか嫌いとか言えるくらい、お話ししてないもん。
「ほうやなぁ。ゆうちゃんは、そういう子やもんな」
 シズク? さっきから何を言っているの?


「ゆうちゃんは、そのままでおってな。人間も、人間じゃない子も、嫌いじゃないまんまで、おってな」


 ………………シズク?


「――っシズク?」
 我に返った。返るはずなんかなかったのに、僕は僕として呼吸の仕方を思い出した。
「ぅ、ぐぅ……っ!?」
 目に入ったのは煤けた天井の梁。鼻についたのは血の匂い。土間の冷たく硬い土の感触。そして脳みそを、頭の中をぐしゃぐしゃに掻き混ぜられるような不快感と激しい頭痛。僕でない誰かの記憶が、意識が、僕を浸食していく感覚。指先は痺れて、視界はぐわんぐわん揺れて、強烈な吐き気に思わず胃の中のものを吐き出して。戻すものがなくなっても胃液が食道を焼いてくる。それでも頭の中の洪水は収まらない。
 誰かの記憶。誰かと遊んだ記憶。誰かに慈しまれた記憶。誰かに裏切られた記憶。誰かに陥れられた記憶。誰かを信じ続けた記憶。誰かに助けを求めた記憶。誰かにやめてと叫んだ記憶。誰かに叫んだ声が消えていく記憶。何度も何度も繰り返した記憶。疲弊、摩耗の末に、考えることをやめた記憶。
『世界がおれを見捨てたんじゃない。おれが世界を見捨てるんだ』
「――っ!!」
 苛烈に焼きついた言葉の後、耳の奥で数えきれない数の悲鳴が鳴り響いた。その悲鳴の中で、
「……キョウちゃん?」
 聞いたことのあるような、声を、聴いた、気がして。顔を、上げて。やけに静かな、店の中に気がついて。スイちゃんがいない、鏡に、気がついて、気がついてしまって。
「え」
 そこに、知らないヤツが映っていた。僕の顔をした、僕じゃない、硝子みたいな白い髪で、藤色の瞳をした――。
 背筋に悪寒が走った。全身からぶわりと脂汗が噴き出てくる。そのくせ寒くて寒くて、肌が粟立っているのが判った。その瞬間、理解してしまったんだ。僕が、僕自身が、一体、どうなってしまったのか。
 何故、理解できたのかは解らない。説明するのも難しい。あの現象はそういうものだった。それが正しい解釈なのだろう。
 ただ確かなことだけを拾い上げるなら、こうだ。
 僕は一度、あの子供に殺された。殺されて、身体を、盗られた。獲られた。とられた。あの子供に、乗っ取られた。意識だけになった人間なんて、そのまま死ぬしかない。ましてや一度、殺されたと自覚してしまっている魂なんか。そのまま消えるはずだった。
 でも、僕の意識は生きている。僕の意識で動く確かな肉体がここにある。それは間違っている。それは歪んでいる。本来なら在ってはならない。そんな、そんなことが出来るとするならば。
「シズ……ク……」
 数瞬だけ忘れていた吐き気が戻って来て、また胃液が喉を焼く。ぼたぼたと土床に染みていったものが胃液だったのか、脂汗だったのか、もう僕にはわからない。ただ涙は出なかった。
「おじじ、克己、リオ、スイ、ベルベル……!!」
 僕は助けを求めるように闇雲にみんなの名前を呼んだ。しかし、いくら叫び散らしても店の中は冷たくて、灯りはつかなくて。壁にかかった勾玉はつるつるとしていたし、姿見には暗い店と変わり果てた誰かの姿しかなかったし、ランプも香炉もチョーカーもぴくりとも動かなかった。最初から何ものでもなかったかのように静まり返っていた。
 たった一人で、全く知らない世界に放り出されてしまったように感じてしまったのだ。
 何せ、僕は我が身に起こった現象を正しく理解してしまっていたから。
 いくら神格が高くとも、死にゆく定めを与えられた人間の生命を繋ぎ止めるだなんて、許される理ではないのだ。だから、シズクは対価に自分を支払った。この肉体は、“あれ”が捨てていった肉体の残骸と、僕の意識と、シズクの存在意義で出来ている。存在を差し出すという行為がどんなものか、僕はあのときしっかりと理解してしまった。
 どんな形をしているにしろ、人間も人外もいずれ終わってしまうときがくる。
 ばっちゃまが亡くなったとき、僕はまだ舌足らずの幼児だった。ばっちゃまの声も人柄も覚えていないのだけど、仏壇の前で静かに泣き暮れるじっちゃまのことは覚えている。僕は健気にも何かしなくちゃと思ってじっちゃまの傍を離れなかった。そうしたら、じっちゃまは咽びながらもばっちゃまとの思い出を語ってくれた。馴れ初めから惚気まで。長く連れ添った夫婦の物語を聞いているうちに、じっちゃまは少しずつ、本当に少しずつ元気になっていった。時間をかけて「あの世で会ったときに情けない土産話ばかり聞かせるわけにいかんからな」と言えるようになったのだ。
 ……それを思い出したときの僕の絶望感たるや。
 人は亡くなった人を悼んで思い出を支えに立ち直る。傷口がかさぶたに変わるまで、他人と悲しみと分け合って生きていく。
 けれども、その“存在”さえ消えてしまうのだとしたら?
 明日から、いや、もしかしたら今この瞬間にも、心配性の弘ちゃんが駆けつけて来て「お前、家に一人なんだから気ぃつけぇや」だとか言うかもしれない。裏手のよっしーの家のおばさんが「親御さんいないんやから、うちに来るか」と世話を焼きにくるかもしれない。まるで、この家に、最初から僕が一人であったかのように。じっちゃまも、八百屋の大将も、団子屋のおばさんも、桐花ちゃんたちも。
 骨董屋の、泉の神霊なんか、最初からいなかったかのように振る舞うのだ。この世界では。そう理解してしまったときの恐怖が、世界への猜疑心が、想像できるだろうか。
 シズクは僕の母親で、お姉ちゃんで、家族で、友達で、理解者で、「大きくなったらけっこんするー」なんて未来性のない戯れが初恋だと換算されるのなら違いなく初恋だった。そんな存在をいっぺんに失って。その喪失を悼むことさえ奪われた。僕に、どう立ち直れというのだろう。
 悲しくはなかった。寂しくもなかった。悲しいだとか、寂しいだとか、そんなものに至る前に膨大な恐怖に打ちのめされた。15年を過ごしたその場所が、僕の大切なものを否定する。そんな世界を、そんな街を、認めたくなかった。そんな事実を受け入れられるはずがなかった。
 僕は何度も転びかけながら、家で一番大きなボストンバッグを引き摺り出した。それをいっぱいにした。ありったけの現金、通帳、パスポート、手帳、詰められるだけの着替え。当時、使っていたスマホは手にした瞬間に指が震え出したので放り出した。それがじっちゃまや弘ちゃんと繋がってしまう機械だと本能が悟ったのだろう。
 とにかく一秒でも早くあの世界から逃げ出したかった。何も考えていなかったと思う。何かを考えてしまったら、耐え難い現実を認めてしまう気がしたから。
 そうして恐怖心に突き動かされるままに僕はあの世界から、あの街から逃亡した。


 ……いろいろ未熟で愚かだったことは認めるさ。
 店のみんながほぼ封じられた形になった現状をどう思うかだとか。
 僕が消えたその後で、弘ちゃんや桐花ちゃんがどう思うかなんて想像がついて然るべきだとか。
 人の記憶からは消えてしまったけれど、あの街の神様であった住吉神社の人たちは忘れていないのかもしれないのではとか。
 そんなことを考えられるようになったのは、残念ながらそれから半年は経った頃だ。じっちゃまや、弘ちゃんや、とにかく黒髪赤瞳の僕とシズクのことを知っていたはずの人の声を聴くことが恐怖でしかなかった。僕の意識は混乱と錯乱と混濁の中にあって、精製された肉体はあてもなく遠くへと彷徨っていた。
 夜行バスに飛び乗って、辿り着いた先で空港を探して、キャンセルが出ていた飛行機のチケットを買った。出来るだけ遠くへ逃げたかったのだと思う。本当に何も考えたくなかったから、あまり細かいことは覚えていない。
 僕がやっと正体を取り戻したのは、アテネにある小さな博物館の中でのことだった。日本のガイドブックには載っていないような小さなギャラリーで、刺繍だとか、陶器の人形だとか、民芸博物館だったように思う。名前も、入館料も覚えていない。本当にあの辺りの記憶に自信はない。
 硝子張りの向こうに何かを眺めていたそのとき、不意に手首を掴まれた。身体は反射で震えたけれど、抗おうという気力は湧いて来なかった。今にして思えば不用心もいいところである。
 振り返ると同じ東洋人――それも日本人が僕の腕を掴んでいた。年の頃は3、40代の男性。何だかくたびれた風貌と格好をしていて、少し皺の寄った目を見開いて驚いていた。ボサついた髪の毛を一括りにして、顎には薄っすらと無精ひげ。御世辞にも清潔とは言い難いおじさんだった。
 彼は何故か焦燥の浮かんだ表情で、何故か硬く僕の腕を掴んで離してくれなかった。真一文字に結んでいた薄い唇が重たく開かれる。
「君、名前は?」
「なまえ……?」
 全く情けないことに、僕はその低い声に応えることが出来なかった。旅先の警戒心だとか、偽名の方がいいのかだとか、そういう風に思ったわけでは一切ない。混濁した僕の頭では一体全体、何が“僕の名前”たるのか、そもそも名前とは何の符号を示していたのだか、そんな定義が崩壊状態にあったのだ。
 その人は神妙な面持ちで溜め息を吐いた。そして自分の名前を明かした後に教えてくれた。
 僕は硝子の向こうの展示物なぞ一切見ていなかった。硝子に仄かに映る僕自身の姿を食い入るように見つめていたらしい。そしてこう呟いていたそうだ。
 ――「ぼくはだれ」、と。


 それが僕と紀野秀久という一人の魔術師との出会いだった。


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