2009/11/03first
09/20
2024
※葵さんと(半分お仕事だけど)会話する
※カロ先生とウルマスさんの研究分野を想像で書いています
※カロ先生とウルマスさんの研究分野を想像で書いています
人体のことを考えるとき、どうしてもその神秘性より先に不平等性に目がいく俺は異端なんだろう。
「ただいま。ちゃんといい子にしてた?」
「俺はガキか」
マタニティワンピースの上から厚手のカーディガンを羽織った身体を緩く受け止める。夏にはまだ凹んでいた腹は傍目にわかるほど膨らんでいる。触れた肌の体温を計測しながら、つむじに口づける。最初の頃は瞬間沸騰していたが、2年もすればさすがに馴れたらしい。腹に負担がいくのを恐れてもいるんだろう。ジタバタ暴れずに、目の縁を染めながら大人しくしている。
ちらりと視線を上げると、微笑ましそうにこっちを観察している例の義姉がいた。相変わらずこの義姉とは目が合わないのだが、所作くらいはわかる。会得したように頷く。
「経過良好やって。運動しすぎないよう言われたくらい。瑠那、森を出歩くのはそろそろやめにしような? もう秋口やし、身体冷やしたらあかんよ」
「うう……はい。わかった」
現代人の運動不足が嘆かれる中で、実に健康的なことだ。至極、真っ当な姉からの説教に渋々返事をする。不服そうにしながらも騒ぎ立てたりはしない。ホルモンバランスも悪くはない、と。
「あー……飲み物作ってやるから少し休め。サクヤはすだちで何か作ったる。瑠那はココアでいいか?」
「ありがとう、きーちゃん」
「うん。ありがと」
車のキーを片づけた義姉の婿が決まり悪そうに去っていく。なんだありゃ。そう思ってルナに目を遣るがコイツもコイツで疑問符を浮かべてふるふると首を横に振る。義姉に過保護なルナが平然としているということは、義姉の方に何かがあったというわけでもないらしい。
当の義姉がくすくすと笑い、堪忍な、と呟いた。
「きーちゃん、照れ屋やからなぁ。村主さんは手加減せんから刺激が強いんよ」
加減しろいうわけでやないからええよ。と、付け足される。ああ、なるほど。これでも加減しているつもりだったが、足りていないらしい。俺の腕の中でぱちぱちと目を瞬いたルナの体温が急にぼっと上がった。今さら馴れてしまったことを自覚したようだ。
「暴れるなよ」
「あ、暴れない……」
膨れたばかりの腹を抱いたルナが顔を見られまいと頭を押し付けてくる。後ろでまだ笑っている義姉がのんびりと、仲良しやなぁ、ととどめを転がした。
子どもを身籠る女の身体は、実に不平等に出来ている。
何もなくても月に一度は出血する。鈍痛も。酷い場合は吐き気も。それが健康体だというのだから、おかしな話だ。健康体のまま、子どもを宿せば今度は約10ヶ月、身体の自由を奪われる。酒はもちろん、コーヒーも紅茶も飲めない。悪阻があれば食べても吐いてしまう。それなのに食べなければ自分の身体にも胎盤にも栄養が吸収されない。身体は怠く重たいというのに、寝転がったままではなく、適度に運動をしなければ糖尿の危険に晒される。腹が膨れれば足元だって見えない。
やっと10ヶ月が経っても、赤ん坊がつるりと出てくるわけじゃない。陣痛が始まってから約10時間、痛みに耐えながら命の危機と隣り合わせだ。なんでこんな仕組みにしたんだか。俺自身は無宗教だが、本当に女に出産の苦しみを与えた神がいるなら、馬鹿なんじゃないか、と思えてくる。生命の神秘を考える前に、男という生き物の無能さに軽く絶望を覚える。
女になりたいだとか、そういうわけじゃない。生まれてくる赤ん坊を憎むなんて、それこそクズの所業だ。ただ、そんなリスクを女だけが被るシステムに納得がいかない。つくづく理不尽で不平等な世の中だ。
そういう俺の益体もない世の中への唾棄を聞くのは、大体、アルの仕事だった。この不満をだらだらと口にしたのは確か妹に初潮がきたときだったか。長兄は一瞬、ぽかんとした後に苛立ちながら煙草に火をつける俺の髪の毛をガシガシと掻き回した。
「お前の嫁になる女は幸せだよ」
今、思い返しても意味がわからない。能天気そうな鼻っ面にでかくゴツいクリップが当たるよう、書類の束を叩きつけた記憶がある。
業腹なことに実際に俺の伴侶になった女は、頬を赤くしながら幸せそうにココアを啜っていた。サンルーム代わりの渡り廊下の藤椅子に掛け、紅葉に染まりかけている中庭を眺めている。幸い、悪阻はごくごく軽く済み、細身の身体に似合わずよく食べる。その分、動き回るので、本日、医者に釘を刺されたらしい。
「秋はせっかく裏手でザクロが獲れるのに。皮は生だと毒なのに煎じれば寄生虫の治療薬になるところとか、面白いわよね」
「小僧にでも頼め。アイツは仕事を与えりゃ喜ぶだろ」
「むう。裏切り者」
イタリアで本職のスオミに影響されたらしく、日本に戻っても持ち前の探求心が疼いているらしい。そんな折のことだった。
「あのぅ、佐伯さん」
意外な人に声をかけられた。
「お義母さん?」
声をかけてきたのはルナの戸籍上の母親、織居葵だ。血の繋がりはないはずだが、猫毛のような栗色の髪がルナに似ている。俺がこの家に仮住まいするようになってから、毎日のようにほろほろと涙を流していた涙脆い御仁である。
寡黙というわけではないが口数は少ない。本職は巫女ではなく、大学の助教授だという。おそらく、声に出すよりも頭の中でぐるぐると何か考えている事柄の方が多いに違いない。思えばその癖も出会ったばかりの頃のルナとそっくりだ。
そしてその義母の斜め後ろ。まるで付き人のように控えている男に目を遣ると、ひどく複雑そうにしていた。まったく以て難儀な性分をしているヤツだ。
コイツが高山。名前は望。ルナの親友の兄でこの神社の下宿人で、義姉の幼馴染で、親戚筋で義母の同僚で。いろいろと見方はあるが、つまるところ、コイツもこの社のややこしい事情が放っておけずにいるお人好し。ルナの同類というわけだ。
特筆する点といえば、未亡人である義母に惚れ込んでいることだろうか。そのせいか、ルナに対する態度は妹を心配する義兄を通り越して、娘を得体の知れない男へ嫁にやらなければならない父親だ。
だが、当たり前のことに片思いをしているだけの男に〝父親〟は名乗れない。それをコイツも解っているから、余計に複雑な感情を持て余している。俺を殴っても引っ叩いても、自分でスッキリしないことは解り切っているんだろう。そんなわけで面倒なもやもやしたループに嵌り込んでいる、と。
それにしても、この義母が進んで俺に話しかけてくるのは珍しい。不仲ではないと自負しているが、必要以上の気遣い屋というか。どうやら未だに新婚の邪魔は出来ないだとか、娘の時間を取ってしまうのは心苦しいだとか。そんなことを思っている節がある。
「何か御用で?」
まあ、こうした俺の言動も悪いと言えば悪いのかもしれない。どうやら俺は、しばしば用件がなければ話しかけてはいけない人間に見えるらしい。全否定はしないのだが。相手や話題による。
「あのね、佐伯さん、人文学に興味はあるかしら?」
「人文学」
それはこの義母が専攻している分野ではなかったか。義姉のテラ・フォーミングの次は義母の人文学か。本当に退屈とは無縁だな。
「私の大学で専攻している分野で。私の所属する研究室に唐牛教授という方がいるんだけど」
「あ、カロ先生」
「顔見知りか」
「ええ。昔、研究室までご飯届けに行ったり掃除しに行ったりしていたわ。確か、奥さんはクロアチアにいるんだったっけ」
「そうそう。そのカロ先生」
特徴のある苗字だ。ざっと頭の中の名鑑を捲ってみる。
「……オスマン帝国全般の見識を論文に起こしたのが有名だったか。文明と文化圏の考察や建築様式と背景の研究が多いが、一方で西洋と道教の錬金術に纏わる儀式伝承の、いや、そうか」
口にしてみて合点がいった。錬金術の三大元素は硫黄、塩、そして水銀だ。
「あっちの研究論文はあんたが書いたもんか、お義母さん」
義母の眼鏡の奥の目が驚いて、騎士よろしく構えていた高山の眼差しに警戒が混じる。そんなに警戒してくれるなよ。そういう目を見ると、こっちはついおちょくりたくなる性分をしてるんだ。
「……そう。実はそうなの。でも、誤解しないでね。実は」
「代理執筆(ゴースト)じゃねぇって言いたいんだろ。察しはつく。大方、この社の関係者が水銀と錬金術の研究論文なんぞ書いていたら、祭神を攫ったヤツにまた目をつけられかねない。だから研究室ぐるみで発表者を隠匿する。……特段に珍しいことでもねぇな」
ついでにその祭神を攫ったヤツについては、大体のところまで絞れているんだが口には出さない。この御仁は出したが最後、意外に走り出してしまう行動力がある。そうでなければ、今も20年以上前に消えた旦那の行方を追いかけていないだろう。
「サクヤの言った通りね」
「お義姉さんが?」
「あなたは何でもお見通しって」
「そりゃ、考えりゃ解る範囲のことはそうだろ」
「あんたの〝考えりゃ解る範囲〟に常識人がついていけるもんですか」
自分もとっくに常識人ではないくせに、棚上げしたルナが呆れたように言ってくれる。俺からしてみれば、この社に暮らしている中で果たして常識人に区分できる人間が何人いるかの方が知りたいが。
「それで? 人文に興味があったら何だって?」
正確に言うのなら俺の中で学というものに垣根はない。知らなければならなかったものと知っている方が便利なものと知りたいと思ったものを雑多に取り込んでいってから、初めてそれらの中に学問という区分けがあるのを知った。知っている中に所謂、人文学と言われるものが混じっていただけの話。スクールに通っていない俺は尽くプロセスが逆だ。
義母は先ほどより些かリラックスしたようで、一息ついてから口を開く。
「今度、うちの研究室が主体になって外部講師を招いた集中講義、というか講演をするのだけど」
「ほう」
「その外部講師が講演にあなたを来賓として呼びたい、と。瑠那ちゃんも一緒に」
今度は俺の脇でルナが警戒を露わにする番だった。緊張で顔が強張っている。その頭をぽん、と叩きながら思考を巡らせる。
「その外部講師、名前は?」
「ウルマスというの。もしかして知り合いかしら?」
一気に気が抜ける。俺の表情を見て、ルナも肩から力を抜く。知り合い。知り合いねぇ。
「知り合ってはいるだろうが、本当に〝それだけ〟の場合は知り合いと呼べるのかね」
「え?」
「いいや。演目は?」
「今回はエマルの裁判記録と信仰儀式、だったわね」
隣でルナの目が俄かに輝いた。随分と撒き餌が上手いことで。
「だが、いいのか? 俺は別に研究者でも出資者でもない。在野の学者ですらない無名の帰国者だぞ。講義という形である以上、定員があるんだろう。そんな部外者が来賓なんて幅を利かせていたら、学生から不興を買うんじゃないか?」
「レジュメに名前は載せないと言っていたわ。カロ先生のゲストも数人招くから問題はないって」
やれやれ。大したお膳立てだ。下手に断るとこっちが悪人になること請け合い。亀の甲より年の功って言葉は、こんなときのためにあるんだろうね。
「了解。いいだろう。ただし、条件があると伝えてくれるか?」
「何かしら?」
「講演中に話を振る形式ならこっちを当てないこと。悪目立ちする気はないんでね」
まったく、堅気になるのも一苦労だ。
住吉のもう一人の母、咲という巫女に話しかけられたのはその日の晩のことだった。
ルナがいない時間に俺を手招いた東洋の魔女は、真剣な面持ちで一冊の古びたリーガルパッドを持っていた。すぐ後ろには義姉の姿。いつもの和装だが前に組んだ指先が白く強張っていた。
「お渡ししたいものがあるの。少し、いいかしら?」
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