2009/11/03first
09/05
2024
※原作のただそれだけだったのに、をスオミさんにカウンセリングしてもらう話
※なんちゃって南伊風景の丘の家の一幕
※なんちゃって南伊風景の丘の家の一幕
いつの頃だったか。葵さんの姉の紫さんが私に忠告してくれたことがある。
「お母さん、昔より柔らかくなったけどやっぱり心配やわ。瑠那ちゃん、お母さんに結婚やら何やらどうの言われても気にせんでええからね」
紫さんのお母さん、つまりは桜さんのことだ。私が11歳の春に土手で見つけた人魚、そして逆に手を引かれて拾われた花の精でもある。今は大分、棘が抜けたそうだが、桜さんは二人の娘が少女の頃、それはもう厳しい御仁だったらしい。光さんと〝先生〟が否定せず苦笑いしていたから、たぶん、事実なんだろう。
わからなくもない。
二人が少女の頃と言ったら、当たり前だが、まだ鷹史さんもサクヤも生まれていない。ノン太に聞いたことだけど、葵さんを中心とした咲さん、紫さん、希さんの巫女さんネットワークも結成されていなかった。つまり、今よりずっと桜さんの味方は少なかったのだ。柱の巫女を努める傍らで、後継のことも、その配偶者のことも、そしてもちろん結界のことも考える。プレッシャーしかない。
――結婚相手か。
紫さんにそう言われても、私はどこか他人事だった。桜さんは私にどんな人と結婚しなさい、と言うのだろうか。そんなことを考えてさえいた。相変わらず可愛げがない、というか恋を知らない少女だった。
その頃、私がした恋と言えばごくごく淡いものだったのだ。仕方がない。
紫さんの言葉が脳裏を過ぎったのは、サクヤと麒治郎の慌ただしい祝言が終わってから、桜さんの枕辺に呼ばれたときだ。紫さんは真剣に私のことを心配してくれていたのだろう。それを申し訳なく思った。
だって、自分が誰と結婚するかなんて関心がない。強いて言うなら、アレは大層痛いらしいからなるべく優しい男がいい。それくらいだった。
だからこそ、枕元に座った私にとても安らかにふわっと笑いかけた桜さんを見て、逆に戸惑ってしまった。
「瑠那ちゃん見とるとほっとするわ」
私はそれを私がいればあちらに引っ張られずにいられるからと解釈したけど違った。
「瑠那ちゃんはきちんと先約済みやもんなぁ」
「先約?」
なんの話だろう。
「あんなぁ、赤い糸、とはちょっとちゃうんやけど……。赤い糸やったら可愛いもんなんやけど……。私も知らん魔法がかかっとるんやと思うわ。その魔法がおっかない、というかとってもガードが堅いんよ。やから迂闊なこと言えんし」
桜さんがなんの話をしているのかわからない。赤い糸? 運命の? 何の御伽噺を聞かされているのだろう。赤い糸なんていうロマンチックな単語が出てきたと思えば、おっかない魔法だとか急に物騒になる。
「桜さん、何の話?」
「瑠那ちゃんの旦那さまの話」
なんて?
そう思った途端、桜さんの部屋が炎に包まれた。本当にそう思った。熱くはないし痛くもなかったのだけど、私と桜さんと取り巻いて無数の炎の蝶々がひらひらと火の粉の鱗粉を撒き散らして漂ったのだ。ホタルとも、住吉でたまに見かける妖怪の類とも違う。季節ごとに訪れる小さな花の守り神とも違う。
視えたのは本当に一瞬で、桜さんが微笑みながら、わかっとるよぉ、とのんびり言った瞬間には霧散してしまった。幻惑だと思ってしまうくらいには刹那的で美しい光景だった。
「あの蝶々がいつでも瑠那ちゃんを守っとるんよ。ほんでなぁ、悪い男が近寄れないようにしとんの」
「悪い男?」
「ほうほう。やから、瑠那ちゃんは旦那さんにしたい思う人がいたら、迷わんといてええの。瑠那ちゃんやったら迷わんのかな。ともかく、心配いらんなぁ、て思うんよ」
桜さんの真意がわからなくて、私は桜さんが薬を飲むための白湯を用意することしかできなかった。その数時間後に桜さんは私の目の前で深い眠りに就いた。私に謎かけのような言葉を残して。
桜さんの遺言のようなものを、やっと理解できたのは不慮の出来事が原因でイタリアに長期滞在しなければならなくなってからだった。半軟禁の生活の中で、私はひとりの男に出会ってしまった。
私が夢想していた人とは真逆の男。優しくもないし、善人でもない。お世辞でもいいヤツとは言えない。私のちびな背丈や、一向に膨らまなかった胸やお尻を好き放題に揶揄ってくる男。でも、何故だか無視もできない。無視せずに男の仕事を手伝ってみたら驚くほどに気が合ってしまって、なんのために半軟禁されているのか忘れかけてしまったくらい。
私が滞在していた〝丘の家〟にはきちんと天窓の大きい屋根裏に私の部屋が用意されていたのだけど、いつのまにか男の――カシスのベッドで寝起きする方が多くなってしまった。
「んん……」
その日も目覚めたのは甘く苦い男の匂いがするベッドの上だった。ネグリジェはどこかにいってしまっていたけれど、毛布が二重にされていたので寒くはない。ぼんやりと彼の姿を探してから、今日はクライアントのもとに出向かなくてはならない日だと言っていたのを思い出した。
こういうとき、目覚めたときにベッドの上にいないなんて、と怒るべきなのだろうか。さすがに映画の見過ぎな気がする。初めて垂直落下した恋に窒息しそうになっていた私には、何もかもわからない。
笑い声が聞こえて、そっと顔半分だけ窓の外を覗いてみる。〝丘の家〟の周辺は緑が豊かだ。いつも植生をスケッチしているオリーブの樹の袂で、二人の兄妹が何か言い合っている。長兄のアルと末妹のカノンだ。枝と落ちた花を拾い上げているから、リビングに飾る新しいリースを作っているのだろう。
ぷい、と顔を背けたカノンを笑いながらアルが宥めている。また何かふざるかおどけるかして、真面目にやってよね、と怒らせたに違いない。
微笑ましさに笑みが零れ、胸がつきりと痛くなる。目を伏せて毛布に包まり、ただ痛みをやり過ごす。
――あの二人から、私はカシスを奪うのね。
似ていない三人の兄妹。全員、血は繋がっていない。でも、きっと血よりも水よりも濃いものがある。
三人寄り添って生きてきた家から、瑠那はひとりを奪ってしまう。織居の家を見捨てられる? できない。だからといって、彼を諦められる? もっとできない。私は鷹史さんのように飛べない。ひとつの場所にしかいられない私はどうしたらいい。
浮かびかける涙を乱暴に拭っていたら、控えめなノックが聞こえた。
「ルナ? 起きているかしら? 入っても大丈夫?」
アルの婚約者のスオミだ。
「少しだけ待って」
出迎えられる格好をしていない。ベッドの下のネグリジェを拾って被り、適当なストールを手に取り首元を隠すようにして巻き付ける。これも十分、人を迎える格好ではないけれど、医者であるスオミだからこんな病人は見馴れているだろう。病人じゃないけど。
了承の言葉を告げると、スオミは小さいワゴンを押して部屋に入ってきた。甘くしたコーヒーに蜂蜜とりんごジャムを挟んだブリオッシュ、卵を落としたズッパ、真っ白いチーズがかかったホットサラダ。モーニングというには遅くてランチというにはちょっと早い。ブランチだ。
「冷凍室にカッサータもあるわ。全部、カノンが作ったものだから安心して。美味しいわよ」
茶目っ気を混ぜてスオミが言う。スオミも十分、料理上手だと思うのだが、どうにも彼女は自分が料理上手だとは思えていないらしい。
「カシスからお昼まで寝てるようだったら、運んでやってくれって言われていたの。けしてあなたを放ったらかして行ったわけじゃないから、誤解しないであげてね」
「うん。大丈夫。してないわ。ありがとう、スオミ」
私ときたら現金だ。さっきまで胸が張り裂けそうで、お腹なんて空いていなかったのに。いざ食べ物を並べられると口の中に唾が溜まってくる。自分で思っているより健康的。
水分が足りていないからコーヒーから口をつける。カノンは既に私の……というか、この家の全員の好みを把握しているので、ミルクがたっぷり入っている。空きっ腹に入れても大丈夫なくらい。
ちびちび飲んでいたら、そっとスオミの指先が目元に触れた。
「目が赤いわ。泣いていたの?」
「違うわ。寝るのが遅かったせいよ」
はっとして口を閉じる。泣いていたのを誤魔化すために言ったはずが、これではただのノロケだ。間違ってもいないけど。相手がスオミで良かった。彼女はわかりきっていることをいちいち冷やかしたりしない。笑って他の話題にすり替えてくれるだけだ。
「あなたが来てからアルがさらに甘えん坊になって困るわ」
「アルが? どうして?」
「決まっているじゃない。可愛い義弟に構ってもらえないからって、それを理由に甘えてくるの。卑怯だと思わない? こっちは部屋に鍵をかけても侵入されちゃうのに」
アルは鷹史さんのように飛べるのだ。鷹史さんくらい遠くまで飛べるかはわからないけど、少なくとも廊下から鍵のかかった部屋の中に入るなんて朝飯前である。ルール違反だとは思うけど。
でも、やれやれと肩を竦めながら、スオミの表情は朗らかだ。困ってはいても、心底、イヤというわけではないんだろう。
スオミは北欧系の知的美人だ。ふんわり優しく話していると思えば、怪我人や病人が出るときりっとした檄が飛ぶ。お姉さんという形容が良く似合う。体つきも、ちょっと下世話なことを言ってしまえば、柔らかそうで包容力が抜群である。
アルが例によってカノンを怒らせたとき、彼女の胸に飛び込みながら、今日はあたしがスオミと寝るからアル兄はお預け、と泣き所を蹴ったことがある。美人同士の義姉妹の抱擁は、とても目の保養だった。結局、私も巻き込まれて私が両手に花を堪能させてもらった。
まあ、翌日になればカノンはお詫びの意味を込めて兄たちの朝食を少しだけ豪華にする。喧嘩とも呼べない。要は、彼女はそうやってスオミの睡眠不足を解消しているだけなのだ。
「アルもカシスも天才肌で女の子を待たせないところは一緒だけど、全然違うところがひとつあってね」
「うん?」
「カシスはアルほど甘えん坊じゃないのよ」
ズッパの卵を崩していた匙が止まる。
「無理もないわ。6歳か7歳かそこらの男の子が赤ん坊を拾って3年も一人で育てていたのよ。誰かに甘えている場合じゃないものね。誰かを甘やかさない代わりに、自分の甘やかし方も知らないのよ」
きゅう、と心臓が冷たくなる。アルがスラムのストリートから二人の弟妹を引き取ったとき、カシスは推定10歳ほどだったという。捨て子で親の顔も覚えていないという彼の正確な年齢はわからない。もちろん、誕生日も。彼の仮の誕生日は〝丘の家〟の建設記念日と一緒だ。
7歳の少年が赤ん坊を拾って育てる。普通じゃできない。彼は7歳で娼館の下働きをして、報酬に身籠って乳が出ていた娼婦たちから母乳をもらっていたらしい。何度でも言う。普通じゃできない。
何故、彼がそうまでして赤ん坊を見捨てなかったかと言えば、赤ん坊の母親がけして赤ん坊を見捨てなかったからだという。それこそ死の間際まで。名前も知らない彼女はカシスが赤ん坊を取り上げ、名前と誕生日を尋ね、答えた後に涙を一滴だけ流して安らかに笑顔で死んだらしい。
ろくでもなかった彼の人生で、もっとも最初に見た〝捨てたものじゃないと思える何か素晴らしいもの〟。
けして死を肯定したいわけじゃないが、それは彼の中では彼女に対する敬意と礼義なのだという。
赤ん坊――カノンは知らない。聞かせるつもりもないと言っていた。アルは何か気づいていてもおかしくはないけど、自分から話す気はないと言っていた。私がいなかったら墓場まで持っていった話だと。
じゃあ、私は? 何故、そんなことを彼は私に打ち明けたんだろう。
ブリオッシュを千切ったまま、口に入れ損ねている私を見てスオミがふふ、と笑った。
「やっぱり、自覚がないのね。彼を最初に甘えさせたのはあなたよ、ルナ」
「え?」
そんなことあっただろうか。覚えがない。
「シラクーザで彼がサルーテの教団に堕ちたとき、あなたが助けに行ったでしょう。アルの通信を借りて」
「あれは……だって、私が下手を扱いたのよ。だから追いつかれて、アイツが身代わりになってしまったから。私のせいなんだから私が助けに行くのは当たり前じゃない」
「あなたは私たちが保護している堅気の女の子なんだから、誰も責めたりしないわ。カシスが身代わりになったのだって、自分一人ならどうとでもなると踏んでいたから。保護対象であるあなたを逃がそうとした結果だわ」
「それでも」
「わかっているわ。ルナは好きな男の子を放っておける子じゃないもの」
好きな男の子。その通りなのだけど言葉に出されると、こう、なんというか耐え切れない何かが込み上げる。顔が熱い。ブリオッシュを取り落とした手で頬を抑えて蹲ると、スオミが柔らかい手で髪を撫でた。
「カシスじゃないけど、あなたって面白いわ。キスもそれ以上も平気なのに、愛の言葉は苦手なのね」
「……言わないで」
自分でもちょっとどうかと思っている。日本にいるときはそんな機会がなかっただけで、元からこうだったのか。それともカシス相手だからこうなってしまうのか。自分でもよくわからない。
「あの後、あなたたち、大喧嘩していたでしょう?」
こくり、と頷く。超能力者でもないのに先の先まで見通すカシスだ。どんな作戦だろうと、戦線だろうと、極地に追い込まれても次の一手は必ず残している。幼い頃から彼を守ってきた彼の視覚がそうさせる。だから、カシスは何が起きようと基本的に動じない。舌打ちひとつで思考を切り替える。
その彼が、あのとき初めて私に対して激昂し、私の頬を引っ叩いて怒り狂ったのだ。
「私ね、誰かを平手打ちしてまで怒る彼なんか初めて見たわ。アルもカノンも驚いていたから、きっと二人も初めてだったわね」
「え……?」
動じないけど、それはけして気長という意味ではない。むしろ短気だ。気に喰わないことや彼の逆鱗に触れることがあれは一切の容赦なく、クライアントでも味方でも即断で見捨てられる男だ。
「静かに何かに苛ついていることはあるのよ。でも、そういうのは大体言ったところでどうしようもないことだから口にしないの。八つ当たりもしない。アルはして欲しかったみたいだけど」
アルが血の繋がらない義弟を形容する言葉は、可愛いが甘えてくれない、だ。妹が甘えてくれるんだからいいだろと切って捨てるカシスと、俺はお前にも甘えて欲しいんだよと食い下がるアルの姿は、〝丘の家〟ではもはや名物である。
「知ってる? 喧嘩って相手を大事に思っているのもそうだけど、信じていないと出来ないのよ」
「信じる……?」
「カシスがアルやカノンを信じていない、とかそういう話ではないのよ? でも、彼、あのとき初めて怒りも苛立ちもあなたにぶつけて甘えたのよ。あのときから、いえ、たぶん、もっと前からあなたはずっとカシスの特別だったんだわ」
スオミが窓の外に視線を移したので、つられてもう一度、眼下を覗き込んだ。
オリーブの枝がぐるりと曲げられて大きな鍋に入れられている。リースになるまで柔らかくするには一度、くつくつ煮込まなければいけないのだ。外に設置された竈に火を入れようとしたカノンの手を止めて、アルが火をつけている。ぷくりと膨れたカノンの頬を見ればどうしたのかはわかる。危ないから火をつけるのはお兄ちゃんに任せなさい、とでも言われたのだろう。
彼女の戦場での得物はガトリング級の銃火器だし、今さら固形燃料とマッチくらいで火傷するとは思えないけれど。
もくもく立ち昇る煙が遠くからでも見えたのか。丘の裏手の森林から黒と白の大きな犬が駆けてくる。彼らに気づいたカノンがぱっと表情を明るくして、何かを言った。ごめんね、これは食べ物じゃないのよ、かしら。
彼らはここの飼い犬ではない。気がついたら裏の森林に住み着いていて、ときどき料理のお零れを貰いに来る。鷹史さんと同じ目を持っているアルとドイツ系の移民のくせに見鬼の才持ちであるレンが言うには本当は犬ではないらしい。普通なら忌避するところを、目を爛々と輝かせ「何、食べる?」と言い出した真性のオカルトマニアであるカノンである。黒い方をネーロ、白い方をブランと呼んで可愛がっている。
枝が煮える間、ジャーキーのきれっぱしを二匹に与えて過ごすアルとカノンは誰が何と言おうと兄妹だ。
「仲の良い兄妹よね。私も悩んだことがあるわ。私が彼らから大事な兄を取り上げていいのかしら、って」
「……スオミも?」
「ええ、もちろん」
私がこの家にきたときからアルの恋人だったスオミは、ある意味、先輩だ。こんなものに先輩も後輩もあるのかは知らないけれど。
彼女の人生もこの家の面々に負けず劣らず壮絶なものと聞いている。でも、くすくすと声を上げて笑っている彼女はとても幸せそうに見える。
「でも、大丈夫よ。アルもだし、カノンもそんなに弱くないわ。第一、私がアルの婚約者になったとき、あの子、最初になんて言ったと思う?」
「なんて言ったの?」
「『どうしてもアル兄を許せないことがあったら私の部屋か屋根裏に逃げて鍵をかけたらいいわ。その二つはカシ兄がテレポートを禁止してるの。ベッドの中の謝罪なんて謝ったうちに入らないんだから簡単に許しちゃ駄目よ』ですって」
笑い声が漏れてしまうのを手で押さえたために、変な息が零れた。さすがだ。クセのつよい二人の兄を持ったおませな彼女は二人を信用しているものの、同時にその悪癖や泣き所も把握済みである。
スオミが私を見てようやく笑った、と安堵の息を吐いた。
「あのね、アルから聞いたんだけど。秘密を教えてあげる」
「秘密?」
にっこり笑ったスオミがとんでもない爆弾を落としてくる。
「カシスはね、あなたの笑った顔が一番に好きなんですって。とっても可愛くて健全だわ。だから、彼を幸せにしてあげたいなら、あなたが隣で笑ってあげて」
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