2009/11/03first
09/07
2024
※〝先生〟の姿からの卒業式と秘密の名前を共有する
※織居家のお墓を捏造すみません
※織居家のお墓を捏造すみません
織居の家は一応、神道ではあるので社の敷地内に墓はない。代わりに程近い宗教自由の霊園に奥津城がある。寺にある墓とは少し造りが違う。香炉がなく榊を供える八足台があったり、供えるものが神撰だったり。まあ、細々とした決まり事があるのだけど、やらなくてはならないことはあまり変わらない。そもそも墓参りのやり方にこれが正解というものはない、と〝先生〟に習った。
要は故人を思う気持ちでお墓を清らかに綺麗すればよいのだ。
だから、私は桜さんの墓前に榊ではなく、ユリとフリージアの花を挿すし、神撰にお菓子を用意する。桜さんがそんな見馴れた味気ない葉っぱより香りのよい花を好んでいるのは知っていたし、塩や水より華やかな菓子の方がいい。
『こっちの墓石はすぐに汚れそうだな』
「そうなのよね。定期的に綺麗にしなくちゃいけないんだけど。梅雨があるからすぐに苔も生えるし」
奥津城の深い彫りに入り込んだ苔を拭き落としながら、カシスの呟きに答える。土汚れも落ちた墓石に、カシスは何も言わずに柄杓で水をかけてくれた。意外と彼の死者への敬意はちゃんとしている。
彼のこれまでの人生で出会った信用に足る大人は、片手で足りてしまう。そして彼らに真面な墓はないのだという。名前さえも知らなかったり、遺体を持ち帰ることも出来なかったり、そもそも遺体が残らないこともあったそうだ。だから、彼らの存在を記憶している彼自身が墓標なのだといつか言っていた。
『変な気分だ』
「変な気分?」
カシスがキャスケット帽を深くかぶり直す。
『……墓があるようなロクな死に方なんぞしねぇと思ってんのに、お前といると自分が真っ当に死ねるような錯覚をする』
表情が見えない。仕方ないから、すごく久方ぶりに彼の右側に立った。
「錯覚になんてさせないわ。兄と妹に真っ当な生き方をさせたんでしょ。一人だけ抜け駆けなんて許されないのよ、きっと」
指を絡ませて握り込む。痛いくらいに握り返される。
『墓の形なんぞに拘りはねぇが、入るならお前と同じ場所がいい』
「安心して。ひとりになんてさせてあげない」
『……くっ、なに気の長ぇ話してるんだか』
びっくりした後にどうしようもなく嬉しくなって、笑みが零れた。込み上げた涙は我慢した。
『どうした?』
「あんたの口から気の長い話、なんて聞けると思わなかった」
『……確かにそうだ』
ジジィになるまで生きる予定はなかったんだがな、なんてぼやく。彼はどのようにして老いていくのだろう。元が人間離れしているから、あまり想像できない。想像できないからとても楽しみだ。
嬉しいのに胸が痛い。嬉しいから胸が痛いのかな。わからないけど、なんだか私はこの瞬間をずっと待っていたような気がする。彼が私と一緒に生きてくれる瞬間を。ずっと。
「Bentornata a casa.Cassis」
「Eccomi qui.Luna」
〝丘の家〟で繰り返していた、なんてことない挨拶を蝉の鳴く湿度の高い日本の夏に送り合った。
墓参りというのは、たぶん、故人のためだけのものではないのだ。
だって、桜さんはここにいない。私も大層、驚いたのだけど、桜さんは住吉でも長寿の枝垂れ桜の精霊になって花から花、木から木に移り変わって楽しそうにしている。長年、患っていた胸の病気から解放されて奔放に飛び回っている。遺骨はここにあるはずだけど。
新さんと鷹史さんは、遺骨さえここにはない。でも、名は刻まれている。だからこそ、葵さんはまだここに来られないのだけど。二人は死んでしまったのかさえ、わからないけれど。もうここには帰って来ない。ここに来るとそれを再確認できる。
桜さんのことも。家族が心配で、家族を愛していて、結局、居着いてしまってますます無敵になった桜さんだけど、もうこの世の人ではない。助言も手助けもたくさんしてくれると思う。でも、今を生きているのは私たちだ。桜さんに甘えて頼ってどうにかしてもらうなんて、どこかで限界がくるだろうし、本来なら、そうしてはならないはずなのだ。
私もひとつだけ甘えるのをやめようと思う。
本当なら、もうとっくの昔にそうしていなければならなかったことを。
霊園の傍の公園に植えられていた桜の樹の下へ、レジャーシートを敷く。カシスだけでは腕が不自由なので、〝先生〟にも手伝ってもらった。風が強くなくてよかった。がっちり固定しなくとも大丈夫そうだ。
平日の公園には人気がない。桜の樹の下といっても花は散って既に葉桜になっているから、花見客なんていない。でも夏の花は綺麗だ。目にも鮮やかなジニアの花壇が立ち並んで、野生のラベンダーが花をつけながら香り高い匂いを放っている。もう少ししたらコスモスも咲くだろうか。まだ蕾だ。
〝丘の家〟を囲んでいた、頭上を覆うようなブーゲンビリアの花を思い出す。白とピンクとオレンジ。向こうでは花言葉が少し違って、白は〝美しい日〟、ピンクは〝情熱〟、オレンジは〝活気〟。そういうものがあの家には溢れていた。弟と妹が離れた家だけど、今生の別れでも何でもない。それに新しい家族だってすぐにできる。
持参していた二つのバスケットから荷物を取り出す。ひとつからはティーセットを、ひとつからは私が住吉の森で採集して手ずから乾燥させたハーブの瓶詰めを。
「桜さん、どんな気分かしら。カモミール? エルダーフラワー?」
「この季節だからラベンダーも混ぜてやれ。それから蜂蜜をひと垂らしするといい」
桜さんとの付き合いなら誰にも負けない〝先生〟の助言をもらいながら、ハーブティーをブレンドする。私の手元を覗き込んだカシスが瓶を三つ遠ざけた。
「わかってるってば」
「わかってるなら持ってくるな」
「医師免許持ちだからって過保護すぎない?」
奪われたのはレモングラスとセージとローズマリー。妊娠中には向かないものだ。コイツ、こんなに過保護だったっけ。そんなこともなかったと思うんだけど。
茶漉しの中にブレンドした茶葉を入れ、ゆっくりとポットの湯を注ぐ。ふわりと硝子のティーポットの中でエルダーフラワーの白い花が咲いた。蒸らしている間に合わせる蜂蜜を選ぶ。蜜蜂って偉大だ。ちゃんと咲いている花や果実ごとに違う味わいの蜜を作る。ハーブの花の蜜はもちろん合うのだけど、オレンジも爽やかでいいかもしれない。
蜂蜜の瓶を摘まんだところで、しゅるりと風が巻き上がって薄緑のドレスが広がった。桜の樹から舞い降りるように現れた桜さんはレジャーシートの特等席に緩やかに腰かける。私と同じくらいの年齢の美女が艶やかにこにこ笑って、嬉しそうに琥珀色に染まったティーポットを見た。
「ええなぁ、ええ匂いがする。瑠那ちゃんお手製のハーブティーなんていつぶりやろ。これは何?」
「カモミールとエルダーフラワー、あとラベンダーが少し。オレンジの蜂蜜を垂らしますから、もっと爽やかになりますよ」
桜さんは生前も私のハーブティーを美味しそうに飲んでくれていた。ただ森の薬草を千切って乾かして混ぜただけのお茶だ。それなのに桜さんはいつも極上の白茶でも飲むように大事に飲んでくれていた。
「瑠那ちゃん、セラピストにもなれるんやない?」
「誰にでも親身になれるわけじゃないから無理ですねぇ。特にこれからは旦那の世話で手一杯です。すぐ愛想が売り切れになっちゃいます」
桜さんが嬉しそうににこにこ笑う。桜さんの前だと自然と惚気てしまうから困る。だって、彼女は新婚夫婦が仲良くしているといたく喜ぶし、変に冷やかされたりもしないので、つい口が軽くなってしまう。
ティーを注いだカップにオレンジの香りを垂らし、ティースプーンでよく混ぜる。桜さんに差し出すと細い指が優雅に取っ手部分を持ち上げる。実体じゃないのに、桜さんは桂清水をめいっぱい浴びたホタルのようにいろいろなものが持てる。
カシスと〝先生〟にも同じものを注いで、私も自分のカップに口をつける。うん。帰国してからは、休業していたけれど上出来。胸がすく香りと蜂蜜の柔らかい甘みと酸味。青臭さはとんでいる。
「飲むと本当に寿命延びた気ぃしたもんなぁ。風邪とかひかんかったし、胃もたれせんし。お肉も食べられる気ぃしたもんなぁ」
「褒めすぎですよ。あくまで補助的な薬効しかありませんし」
「でも、ほんまにそんな気ぃしたんよ」
桜さんは私を喜ばせるのが上手い。ついつい決心が鈍ってしまいそうになる。本当に鈍ってしまう前に深呼吸をした。
「桜さん」
「うん?」
「〝先生〟のお姿を、桜さんにお返ししようと思います」
綺麗に、やっぱりほんの少し寂しそうに、桜さんが笑った。
「私のものとちゃうんやから、律儀に返さんでええんよ?」
「でも、あのとき、我儘を言ったのは私です」
〝先生〟の姿は桜さんのイメージを投影したものだ。ホタルはお付きが変わるときに主人に合わせて姿も名前も変わる。桜さんの〝先生〟を借りていたのは、単に私の我儘だ。自分でも気づかずにいた初恋に戸惑っていたときに、それは困るから、なんて理由で借りたまま返さずにきてしまった。
本物の先生の似姿はとある小さな私立図書館の額に飾られている。現理事長の亡くなった兄だそうだ。〝先生〟はあくまでホタルだし、私が本物の先生と会ったことがあるわけではない。だから、彼と桜さんの間にどんな物語があったかもわからない。
桜さんにも初めての恋があったのか、それとも印象深い出来事や懐かしい日々があったのか。それは私の知らなくていいことだと思うけど。桜さんには大事にしてもらいたいと思う。
桜さんはハーブティーを飲みながら、ほうやなぁ、と呟いた。
「瑠那ちゃんの初恋は望やったもんなぁ。しゃあない。あのとき葵にバレとったらややこしいことになるし」
あ、やっぱりバレていた。それはそうか。人生の大先輩である桜さんが、11歳の小娘が持て余したものに気づかないはずがない。葵さんは……まあ、葵さんだから。
ややこしくなっていただろう、というのはその通りだ。葵さんのことだから、ヨーロッパに出かける度についてくるノン太に、私のことはいいから瑠那ちゃんの傍についていてあげて、とかイノセントに言っちゃいそうだし。さすがにノン太が報われなくて可哀想。
桜さんはちらりとカシスを伺う。会話は聞いているはずだが、顔色ひとつ表情ひとつ変えずにハーブティーを啜っている。桜さんの唇から大仰な溜め息が漏れる。
「女の過去にぐだぐだ言うのもモテへんけど、あんた、ちょっとは嫉妬してええんとちゃう? スパイスがあった方が夫婦は上手くいくんよ?」
「桜さん!」
何を言い出すの、もう。
「やって、あんな男よりも自分を選べ、いうんも立派なロマンスやない?」
「もう……」
『そうは言うがなぁ』
それまで黙っていたカシスが米神を叩く。
『最初の男ってのも、そりゃオツなもんだがな。最初の男と最後の男。どっちになるべきかなんて明らかだろ?』
桜さんの目が少し驚く。一瞬、間が空いた後に桜さんは機嫌良さそうに声を上げて笑い始めた。
「そらそうやわ。それ、きーちゃんにもノンちゃんにも言うたって、言うたって」
「桜さん! 変なこと言って煽らないで!」
「そう言うけどなぁ、瑠那ちゃん。瑠那ちゃんがおらん間、きーちゃんにはやきもきしたんよ。しゃあないから鏡ちゃんにも手伝ってもらってなぁ」
「え、なぁに、それ」
「ふふ。あんな」
戸籍上の祖母と孫。でも、見た目は同年代。夏の花が見守る中で、不思議なお茶会は茶菓子のスミレの砂糖漬けがなくなってしまうまで続いた。
目の前に無数の欠片がある。色も煌めきも様々だけど、どれもきらきらしている。
すぐ傍で輝いているものもあれば、星のように届かないところで瞬いているものもある。あれは私には手が届かない欠片だ。ううん、届いてはいけない欠片、なのだろうか。これが全部、〝先生〟と私の中にある欠片。輝かしい一瞬を切り取ったもの。近くにあるのは私の記憶。遠く届かないものは、桜さんか、もしくは桜さんよりずっと前に〝先生〟が守っていた巫女や姫の記憶。
星屑に等しい数がある。この中から選ぶのは、確かに、何かの指標だとかとびきり好きなものとか、色とか光とか、そういうものがなければ難しそうだ。
――あれ。
薄いガラス片のような欠片が水面の向こうに見えて、私はそれを拾い上げた。擦り切れてしまってよく見えない。でも、とても綺麗な朱い色をしている。生命の色。彼の色だ。
――これは、なんだっけ。
わからないけれど、これが一番近い。サソリ座のアンタレス。夏の星空で強く遠く輝き続けるサソリの心臓。年老いた星とは思えないほどに、輝いている星だ。
それがどんな景色だったか、思い出せなかったけれど、私はその欠片を胸に抱いた。
――これがいい。これにする。
ふっ、と降りていた帳が晴れて白い光が降り注いだ。
身体の重さが戻ってくる。蝉の声が聞こえる。そうして私は欠片の海から帰ってきた。
両手を〝先生〟と繋いでいたはずだけど、違和感がある。ほっそりした、でも節がある男の人の手じゃなくなっている。もっと小さい。ゆっくり瞼を開く。さらさらとした長い白髪。でも、カシスのものと違ってこの白は〝先生〟の色だ。何の光も色も受け入れる白。それから朱色の瞳。おかしいのはその背丈。いつも〝先生〟の目を見上げていたのに、私の方が見下ろしている。
「あら、可愛らしなぁ」
桜さんが言う。長い白髪を革ひもで括り、白いブラウスに胸元にはリボンタイ。カジュアルなボトムに踵のある靴を履いている。それから髪を隠す大き目のキャスケット帽。たぶん、13歳とか14歳とかそれくらい。〝先生〟は小さくなった見た目を興味深そうに眺めている。
――待って。
知っている。私は、この姿を見たことがある。写真とかじゃない。どこだっけ。いつだっけ。
いや、彼がこれくらいの年頃で、私が同じくらいに小さな少女だった頃。彼と接点を持てるとしたら外国しかない。外国。イタリア。旅行。
「あ」
思い出した。私が初めて海外に、イタリアに行った旅行。葵さんと、ノン太と、巫女さん三人と一緒に行った。あの頃、初めての失恋を経験した私は無駄にイライラしていて、旅先で知り合ったリューカとノン太の仲が良いのに無性にムカついていたんだっけ。好きなのは葵さんじゃなかったの、って。
だって、ルーマニア人のリューカときたらこれまた人間離れしているから、綺麗な女性にしか見えなかったんだもの。
それでムカついた私は知らない土地で駆け出して、迷子になってしまったのだ。迷子だけど戻りたくもなくて、何だか必要以上に悲愴な気分になってしまったのよね。まったく以て小娘だ。その迷子の私を見つけてくれた現地の男の子がいた。彼は、私が東洋人だと知ってアジア圏内の言語をいくつも喋って、日本語で会話してくれた。
今だからわかる。そんな年齢で英語も、中国語も、韓国語も、ヒンディー語も話せるイタリア人なんて、一人しかいない。
ばっと振り返った私に、カシスはキャスケット帽の下でにんまりと笑った。
『なんだ、今さら思い出したのか。Lmentina Bambina(泣き虫でちびなお嬢さん)?』
それがあんまりにも憎たらしくて、腹いせに全体重を預けて抱き着いてやった。
「せっかくやし、名前も変えたらええやん」
ひとしきり小さくなった〝先生〟を可愛がっていた桜さんが提案した。
「でも、みんな〝先生〟って呼んじゃってるから……」
「別に呼びたい名前で呼んでええんよ。〝先生〟なら〝先生〟でええし、ここだけの秘密の名前でもええんやし」
なあ、という桜さんに、〝先生〟がこくりと頷いた。少し悩む。〝先生〟が小さくなっても〝先生〟であることに変わりはない。それに姿が変わってもカシスはイタリアでの私の先生みたいなものだったから、違和感もない。
――でも、〝先生〟はいずれ次の人に繋がれていく。
顔も知らない巫女から桜さんに、桜さんから私に手渡されたように。私の子どもか、一族に生まれる他の子どもかはわからないけれど、また誰かが先生の主人になる。だったら。
「……ステラ」
『Stella(星)?』
「うん。〝先生〟はこの先もきっと住吉の誰かを守ってくれるでしょう? だからその子が希望を持てますように。もしくは、誰かの希望になれますように」
目を細めて笑ったステラが、よい名前だ、と褒めてくれた。仕草や声色が違うから、この子はかつてのカシスの姿をしているけれど、やっぱり違う。〝先生〟でステラだ。ちょっぴり照れくさくて、それからちょっぴり寂しい。
でも、うん。大丈夫。私の居場所はちゃんとここにあるから、生きていける。どんな人生かは未来の私が決めてくれる。
次の貢物を求めて空に消えてしまった桜さんを見送り、神社に戻る。
ステラは小さくなったと共に身体も軽く感じるのか、境内に通じる長い石段を軽く三段跳びで登っていた。いや、元がホタルだから浮けるし段差とかはあまり関係がないはずなんだけど。もしかして姿や名前を変えた直後って、ホタルにとっても新鮮に感じるんだろうか。模様替えみたいに。
あまりにも長年、〝先生〟だったからステラはこれからも多くの人にとっては〝先生〟のままだろう。でも、それでいいと思う。桜さんが言っていた通り、秘密の名前というのも楽しいものだ。
私は先生を追いかけて少し早足で石段を登る。お腹に負担がいかないように、本当に少しだけ。そして一歩だけ早く、カシスより先に神社の境内に着く。二段ほど高い場所から差し出した私の手を、意図を察したカシスが私の小さい手を包んで握ってくれる。ほんのわずかに体温が低くて気持ちいい。
澄んだ空気を思いきり吸い込んで、仕方ないから、とびきりの笑顔で言ってあげる。
「おかえりなさい、村主」
「おう。……ただいま、瑠那」
墓地でも言い合った一言を、今度は日本語のまま贈り合った。
これが私のサソリの心臓。赤く輝く夏の星。いつか手を伸ばして掴み損ねた星を掴んだ物語だ。
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