忍者ブログ
2009/11/03first
[51] [50] [49] [48] [47] [46] [45] [44] [43] [42] [41

07/11

2024

※瑠那が母子手帳をもらう裏側で住吉について好き勝手考察するどこぞの白黒コンビ
※相変わらずコンビの口が悪い上に下品





 小さい手帳がずっしり重い。物理的には大した重さではないのだ。うら若い二十歳にも届かない乙女でも片手で持ててしまうし、難なら手のひらで弾ませることも、破くこともできる。しないけど。
 でも表紙に印字された文字が目に入ると、やっぱりこの手帳は重いのだ。『母子手帳』。十年前の私が聞いたらびっくりするだろう。それも今は隣に父親がいないなんて。静かにムカついて心の裡で唾棄している小さな私が容易く想像できる。あんた、何してんのよ。自分がどんな身の上なのか忘れたの。って。
 うん、とても正しくて真っ当で道徳心のしっかりした子どもだ、小さい頃の私。そのまま今のうちに肝を育てておくことをお勧めする。
 病院の待合室シートに身重の身体を沈めながら考える。
 できるよ。そりゃあ、できるよ。私、健康な女子だもの。やることやったらそりゃできる。相手が健康な男かどうかと言われたら、首を傾げたいところだけれど、生殖機能が云々みたいな話は聞いていない。現にこうして証明されてしまっているし。他の心当たりなんてないし。
 まあ、それは別に問題じゃあないんだ。というより問題という問題は特に感じていない。ただ、この結果に欠片も後悔していない自分にちょっと戸惑っているというだけで。
「瑠那ちゃん、大丈夫?」
 電話を終えたらしいサクヤがいつもの朗らかな顔で私の隣に腰掛けた。着物に包まれたまだ平たいお腹に目を遣ってしまう。そう。そうだな。私はどちらかと言えば、自分の身に起こったこれらより、つい先ほど、ほぼ同時にこの手帳を受け取った9歳年上の姉にびっくりしている。
「気張ったらあかんよ? お腹に響くんやから」
「うん、大丈夫」
 既に一児の母親であるサクヤは堂々としたものだ。代わりに父親の麒治郎の方が慌てふためいていたのを思い出しておかしくなる。少し、いや、大分、思ったものだけど。まだ手を出していなかったんだろうか、って。何で私が2年の歳月をかけてやっと帰ってきたタイミングでハネムーンなんだろう、って。
 ――ふうむ。
 とはいえ、よかったこともある。麒治郎が自分の子どもにあたふたしてくれているおかげで、私へのお小言が思ったよりも少ないのだ。全部飲み込んで頭とお腹を撫でてくれたのが光さん、ちょっとしつこいのがノン太、気にしないように頑張っているのがトンすけ。そのトンすけの方も妹ができるから割とそっちに気を取られている。
 ……ああ、ちなみにまだ性別なんてわかるはずもないのだけれど、咲さんがお揃いのベビー服を縫っていたから予想がつく。どっちも女の子用だった。なんていうか、そういうところは私の実家って損かもしれない。なんだっけ。ジェンダーリビールケーキ? 切ったケーキの断面で赤ちゃんの性別を発表するヤツ。ああいうサプライズとは無縁だものね。やりたいというわけじゃないけど。
 ともかく、住吉の実家では相変わらず女の方がどっしりと構えている。地に足がついていないのは男衆の方だ。うん、それについては自覚があるから文句を言える立場ではないのだけれど。

 だって、明らかにお腹の子の父親について何も説明していない私が悪い。


 別に今さら遠慮しているとか、意地を張っているとか、そういうことではないのだ。
 たぶん、言葉として話さない方がいい。私がそう判断している。何しろ私のお腹に入っているのはあの電子妖精(エレクトロ・ウィルス)にしてサルバドル・ファミリーのブレインの子どもだ。ものの界隈の連中からしたら、いろいろな意味で垂涎だろう。私はその立場がどれだけ危ういものか、この2年間で思い知った。それは慎重にもなる。またどこぞに攫われたり監禁されたりなんて冗談じゃない。妖魔よりお化けより悪意に取りつかれた人間の方がよっぽど質が悪い。どこで誰が話を聞いているか判然としないのが怖い。
 少なくともアイツが――カシスが安全に日本に逃れられたと一報を受けるまでは、誰にも言わないと自分で決めた。一報の仲介を担ってくれている怜吏にも言っていない。まあ、あの面の皮が分厚い若干12歳だという年齢詐欺師はどこかで何かを掴んでいる気がしなくもないけれど。あいつはあのカシス相手に「日本に亡命したい? 高くつくけどいいよね?」なんて平気な顔で交渉してくる魔王なので底が知れない。知りたくない。
 いつかはヤツのことも実家に紹介しなければいけないだろうか。友人として。うわ、絶対に気疲れする。どれだけ早かろうと産後にしよう。そうしよう。今決めた。
 そんなわけで住吉の女たちは相変わらず大きな懐を以てどんと構えているし、男どもだけが聞くに聞けないふわふわした状態に置かれている。あ、光さんは除く。
 そもそも相手を知りたいというだけなら、私の実家の人たちにとってこれほど簡単なことはない。単純に私の手を握ればいい。私にひざ掛けを用意してくれるホタルの〝先生〟は今も〝先生〟でいてくれるのだけど、誰かに手を握られたら見え方も変わるんじゃないだろうか。でも、誰もそういうことをしない。甘やかされている、と思いつつ、そのことに甘えている。自覚はある。
 最初に手を握られるとしたら誰がいいだろう。都ちゃんかな。うん、どうせバレてしまうのだったら彼女がいい。11歳の頃、図らずも彼女の初恋を察してしまったことを、私は結構、気にしている。ドンちゃんも元気だろうか。


 麒治郎の運転する車に揺られ、実家の神社に返った頃には眠気がピークに達していた。
 そのままうとうとと寝てしまったのを布団に突っ込まれたらしい。サクヤにはああ言ったけれどどこかで気を張っているんだろう。実家の中ではなく、外に対して。
 私の実家の異名は〝男殺し弁天〟だ。神社の神職の女に婿入りした男は死ぬという大変、不名誉な称号を得ている。これがただの迷信だったらよかったのだけれど、残念なことにまったくの迷信とも言えないのが難しい。
 今の巫女、私の姉のサクヤの父親と麒治郎の前の旦那にあたる鷹史さんは、衆目の前で行方不明になってそのまま帰って来なかった。月日が経って死んだ扱いになった。私も全部、理解しているわけではないのだけれど、いろいろな話を繋ぎ合わせると2人はけして〝死んだ〟わけではないらしい。でも、帰って来ないんだろう。消えた理由もちょっとずつ違いそうだ。
 でも、世の噂好きの奥様方はそこら辺の細かい事情なんてどうでもいい。私は神職に就いているわけではないし、そもそもそんな素養も資格もないのだけれど、この神社の娘だ。妊娠が発覚したとき、格好の的になってしまった。
 やれ駆け落ちしようとして相手の男に捨てられただの、土壇場になって男が怖気づいて逃げ出しただの。それはもう大変、賑やかに面白おかしくネタにされてしまった。小賢しいことに奥様方はそういった話を同情とか憐憫とか、そこら辺の強く否定しづらい感情を織り交ぜてちくちくと刺してくる。
 ちなみに私の頭の中では、そんな〝腰抜け〟扱いされた当の本人が口汚いスラングで「オレを誰だと思ってる?」と親指を下に向けているのだが、たぶん遠くないと思う。そうだね。あんた、オレ様何様カシス様を地でいってるもんね。可愛い妹が無意識に影響受けてるから控えた方がいいと思う。マジで。
「おい、起きてるか?」
 襖のノックと同時に声が聞こえた。寝たふりを続けようか迷っている間に襖が開いた。
「なんだ、起きてるじゃないか」
「……あんた、私に対する遠慮とか配慮とかなくなってない?」
「お前が一丁前に無茶するから仕方ないな」
 アイスティーのピッチャーとグラスをお盆に乗せて入ってきたのはノン太――下宿の親戚で兄貴分のようなヤツだった。何故だろう。子どもの頃の方がまだ淑女(レディ)扱いされていたような気がする。
「なんか食えるか?」
「あんまり……」
「この時期にその腹だもんなぁ……。とりあえず、ちゃんと水分は摂れよ」
「うん」
 口の中が粘ついていたのでアイスティーは素直に戴いた。少しレモンが入っている。本来の好みはミルクなんだけれど、今はこの方が美味しく感じる。妊娠中に味覚が変わるって人体の不思議だ。
「サクヤは? 平気?」
「お前と違って二人目だし、麒治郎もトンすけもついてるの知ってるだろ」
「知ってるけど、あいつら、たまにやらかすんだもん」
 身重のサクヤを麒治郎とトンすけが放っておくわけがない。だから心強いかと言われたら私は首を傾げる。たまに構い過ぎてサクヤが静かに怒っているのを私は知っているのだ。まあ、その前に咲さんに一喝されるんだけども。
「あ、開けっ放しがいいな」
「うん?」
 ノン太が障子を閉めてしまいそうだったので、その手を止めた。夏の盛りだから開け放していても暑いくらいだ。風に乗ってサクヤの庭のいい匂いがここまで届く。
 イタリアのあの家で私が過ごしていたのは屋根裏だった。けして広くはないけれど大きな天窓があって、そこから夕暮れを見るのが好きだったのだ。あちらの日没はとても遅くて、一日を終えて余暇を楽しんだら日が落ちるくらいの感覚だった。代わりというのもおかしいけれど星空はとても綺麗だ。真夏に見るオリオンは新鮮だった。まあ、夜中に見るあの男の目はおおいぬ座のシリウスというよりさそり座のアンタレスで、ついでに言えば寿命が尽きそうな感じは欠片もしないのだけど。
 アンタレスなら、ここから今の季節に見える。
「あーあ」
 ――待つだけって暇だな。
 でも、待たなきゃいけない。ジレンマだ。性にもきっと合っていない。大体、私の人生ってただ待っていればいいと思えるような時間なんてほとんどなかった。待ってる時間があったら迎えに行った。
 きっと、そういうことしかして来なかった罰の時間なんだろう。
「なあ」
「うん?」
「いいヤツか?」
 一瞬、意図が読み切れなくてきょとんとしてしまった。
「葵さんやオレが安心できるような、いい男か?」
 どうやらノン太が〝どこのどいつか〟を訊くのをやめたらしいことに、遅れて気がついた。
「いいヤツではないかな。いい男だけど」
「何だそれ、どっちだよ」
「訊き方が悪いんじゃない。ニュアンスが違うでしょ」
「プロポーズされたのか?」
「どうだっけな。されてないかも。でもいいや」
「なんで」
「要らないもん、指輪とか」
 揃いの指輪があったところで嵌める指がヤツにはない。不思議とあまり欲しいと思えないのだ。
「鷹史はサクヤのプロポーズに花をやったぞ」
「知ってる。白いサルスベリでしょ。ピンクのヤツが麒治郎の」
 声に出してみると住吉の男衆はロマンチストだ。
「花はいいよ。もらったことあるもの。バレンタインデーに」
「バレンタインデー……ああ、そういやあっちは男がやるもんだっけか。どんなのもらったんだよ」
「赤い薔薇。ベタだよね。びっくりし過ぎて本数数えてなかった。でも、さすがに108本ではなかったな」
 実際には、妹のカノンの方がびっくりしていた。びっくりし過ぎて盛大に珈琲を零してたっけ。兄貴にそんな真面なことする神経残ってたんだ、って。私もそう思う。だから、アレはぴきりと硬直した後にややパニックになった私の顔を観察するためのものだった気がする。明らかにニヤついてたし。
 日本のチョコレートの風習をカノンに教えると「変わってるね?」と首を傾げていた。自分の相棒にもらったピンクのチューリップとカスミソウの花をいじりながら。
 ……今、思い返すと不愛想で堅物なくせにアイツの花の趣味ってフェミニンだな。麒治郎か。
「でも、やっぱり108本もいらないな。そんなに入るような花瓶ないし」
「なんか欲しいもんないのか?」
「うーん」
 言われて考えてみる。歌劇であれば、あの人がいれば何もいらないわ、なんて気取ってもいいのだけどそういうことでもなさそう。本とか、連れて行って欲しいところとか、そういうものでもない。なんというかこう、形に残るものを差すんだろうな。
「ひとつだけ、あるけど」
「なんだ?」
「名前」
 お腹を撫でる。まだまだぺったんこで、ここに人の身体の全部が収まるなんて不思議で仕方がない。でも、今後確実に膨れて大きく重たくなっていくんだろう。
「考えて欲しいって言ったら、考えてくれるかな」
 ノン太の顔がくしゃりと歪んだ。
「泣きそうな顔しないでよ。なんであんたが泣きそうになってるの」
 私だって泣きたい。でも、まだ泣きたくない。泣くのはアイツの無事を知ってからって決めたんだ。
「葵さんと話してたんだ」
「なんのこと?」
「……どうしても、何ともならなかったら、一緒に名前を考えてやろうって」
 それはなんか、とても申し訳ないことをしたな。でも、生憎、その予定はないんだ。画数だの縁起だの言っても私はアイツが我が子の名前を考えるところが見たい。悩むのか、即答するのか。それはわからないけど。
「……ごめん」
「謝ることじゃないだろ」
「それはそうなんだけど」
 ノン太が立ち上がる。障子は開け放したまま。なんか食べられそうなもの考えとけ、とだけ言って出て行った。イジメるつもりはなかったんだけどな。葵さん――お母さんにも悪いことをしてしまった。ノン太から話を聞いたら優しい養母のことだから泣いてしまうに違いない。
 それでも私はまだ信じていたいんだ。青く染まり始めた空に、真夜中のアイツの眼のようなアンタレスが浮かんでいた。


「はい、これ謝礼」
 端的にそれだけを言い、ソイツはA4サイズの茶封筒を渡してきた。機密扱いまでして厳重なことである。ぐるりと頭を半回転ほどさせるが、どれのどの謝礼だか見当がつかない。何しろお互いに何回、何十回、何百回と恩を売りつけ合っているので見当があり過ぎてどれの何だったか判断がつかないのだ。
 オレの様子を見た怜吏が嫌そうに頬を歪める。日本の政財界のプリンスとかいう一人歩きしたあだ名が裸足で逃げ出すような不細工な面だった。
「例の婚約者殿の実家について詳しく知りたいと言ったのは君なんだけど?」
「ああ、それか。優先順位(プライオリティ)が低かったから忘れてた」
「君、それ先方の家で言うなよ。絶対に誤解を招くから」
 出会って組んで仕事を熟すようになって3年ほどしか経っていないはずなのだが。よくおわかりで。
 オレの中の優先順位(プライオリティ)の高低は、それによって取る行動が変化するかしないかに寄っている。つまり〝知っておいて損はしないがその後の行動がほぼ変わらない〟案件については必然的に低く設定されるのだ。だからこれについてはかなり低めなのである。
 20年来の付き合いになる妹は未だにオレの頭の中を理解しないというのに。いや、アイツはわかっていて食ってかかってくる系か。真人間になるように女を売らせるようなことにならないよう育てた結果なので、それはそれとして甘受することにし――。
「……」
「何、どうしたの」
「しまった。あの顔面岩に割増しで吹っ掛けりゃよかった。よく考えたらあの野郎が処女食いできるのオレの功績じゃねぇか」
「一回、彼得意の狙撃を喰らったらいいよ、君」
 自称12歳の年齢詐欺師が付き合いきれないといった風に両手を広げた。解せぬ。あの裏社会で処女が食えるって稀少だぞ。
「その理論は該当する人間が処女嫌いでない場合に限ると思うけどなぁ」
「安心しろ。ヤツは素人童貞だ。可能性は低い」
「え、それ調べたの? 軽く引くんだけど、そこまでヒマならもっと仕事振っていい?」
 何か御託を並べているプリンスを放っておいて封蝋を弾いた。抗議しようとしなかろうと仕事を振られるのは変わらないので相手をするだけ無駄だ。その体力を使うのは報酬を出し惜しむ場合に限る。まあ、このプリンスが金や情報を出し惜しんだことは一度もないので要らぬ心配ではあるのだが。
 用意された報告書はちょっとした冊子になっていた。戸籍謄本から養子縁組の書類といった基礎的なものから近年の家系図と神職の興りまで軽くレポートされている。さすが仕事が早い。
 ぺらぺらと捲るうちに気になることが2、3点浮き上がる。顔を対面のガキに向けると、やっぱり気づいた?と当たり前のように言った。
「面白い異名だよね〝男殺し弁天〟とか〝男食い神社〟とか。それもこの近年で衆人環境に於いて2人も消えてるとかさ。なんで〝消える〟なんだろうね?」
「そりゃあ〝死んでねぇから〟だろうな」
「だろうね。でも、その後の足取りだとか目撃談とかは一切なかった。整形外科の記録も戸籍の捏造もない。まったくのシロときた。これはなかなかに面白い」
 自分の仕事に関しては一切の感情を消して淡々と熟すのだが、こういった仕事外の考察になるとストップがかからない。日頃からさっさと引退したいとボヤいているが、事実そうなんだろう。仕事嫌いのワーカホリック。コイツも難儀な性分をしている。
「さて、もうひとつ。特に2件目に関しては何故、わざわざ衆人環境だったのか。サーカスでもあるまいに〝人が消える〟という現象を衆目に曝すという行為はまったく建設的ではないね。それなのに2件目はそうだった。そうすると、そうせざるを得なかった可能性が浮上する。さらに言うなら推理の基本、5W1Hに置き換えてみるとまったく謎しか呼ばないんだ、これが」
 狭い会議室に〝Who〟の音が鳴る。
「神職の娘に婿入りした男が。だが、何故、男だ? 信仰の興りまで遡ると身を投げたのは女のはずだ。だったら大概の伝承の場合は女が所望される場合が大半だが」
「つまり、身代わりが許されるんじゃないかな。まあ、該当条件はこれだけでははっきりしないけど。少なくとも誰でもホイホイと代われるものでもないんだろうね」
 〝When〟。
「これもまた謎なんだよ。始まりを掘り返すとおそらく平安まで遡る。しかし、僕が調べた限りでは浮き彫りになっているのはその2件だけ。まあ、当然、歴史の裏側には何かがあったかもしれないけどね」
「確かに妙な話だ。なんで〝2件だけ〟なんだ? こういったものは何代ごと、もしくは一代ごとが定石だろう。戸籍制度が日本に導入されて何年経っている。〝もっと消えていても〟おかしくはない」
「複数の仮説が立てられるけどやはり一番有力なのは〝1度目〟のときに何かあった、だろうね。現代の信仰を集めるのに人柱なんて全く道徳的じゃない。やるならもっとわかりやすくご利益があってセンセーショナルなものであるべきだ」
 〝Where〟。
「これはわかりやすく当の社での話だ。場所が固定化されている分、推理しやすい」
「一歩、踏み込むと仮説が枝分かれしてややこしいがな」
「どうだろう。調べやすいと踏んだ方が整理しやすいと思うけど。神社仏閣というヤツは何かあるところに建てられるものだからね。問題があるのは地面の下かそれとも上か、大分絞って考えられる」
「……下なら地脈、上ならご神体」
「そういうことだね」
 〝What〟。
「少し気にかかることはある」
「うん?」
「アイツは〝身を投げた〟と表現したな」
「……なるほど。興味深い。〝消えた〟でも〝死んだ〟でもなく〝天に昇った〟ですらないのか。じゃあ、やっぱり問題は下の方にあるのかな」
 〝Why〟。
「絞れてはきたけど簡単ではないね。仮説を総合すれば〝1件目のときに何かが起きた。だから身を投げた。身代わりになるために。2件目は必然的にそうなった〟。だけど大元はやっぱり不明だ」
「まあ、机上の論議で全部わかったら苦労はねぇわな」
「わあ、日頃、実地の苦労を妹にぶん投げている人間の言葉とは思えない」
「それこそ適材適所ってヤツだな。どうぞ何とでも言ってくれ」
 〝How〟。
「やっぱり〝身を投げた〟というのが気にかかるよね。身を投げるという行為は大体、上から下に飛び降りることを指すけれど別に彼らは山の頂上から飛び降りたわけではない」
「地理的に投げるような深い湖や川があるわけでもねぇな」
「そうなると例えや隠喩という話になる。何を例えているのか、そこまでは判断できかねるけど。少なくとも、この神社が奉っているのは水神、水の神だ。弁天というのはそういうものなんだけど、無関係とは考えにくいね」
「……水神、黒曜、いや、水銀か」
「何か心当たりでも?」
「ない」
 怜吏の目が瞬く。眉をひそめるあたり、やっぱりコイツは勘がいい。
「それ、かなりの手がかりなのでは?」
「だろうな」
 はっきり言って自慢だがオレは天下の電子妖精(エレクトロ・ウィルス)その人である。大体の大物はオレを頼ってくるし、オレを利用しようとする。応えるか否かはきっぱり気分次第だし、深入りするか情報だけくれてやるかも興の乗り方に依存する。重要なのは、敵味方含む接触しようとしてきたほとんどの組織や人物のリストは頭に入っている。
 世界中を相手にしたことがある人間のデータベースにないということは、それだけで候補が絞れるということだ。
「まあ、これ以上は現地で君がやることだ。口出しはしないさ。場合によっては手を出すけどね」
「そうならないよう立ち回るさ」
 口出しはしないが手は出す。その状況はつまり、コイツがオレの敵に回るということと同義だ。おそらくは互いに避けたい事態である。互いに敵に回すとどれだけ厄介かを理解している。敵対を選ぶくらいならどうにか口八丁で味方に引き込んで置こうと考えるくらいには。それは向こうも一緒だろう。
「ところで怜吏」
「なぁに?」
「終わったぞ」
 今度こそ吃驚して12歳相応の目になった御大が身を乗り出す。オレの手元には一仕事を終えたパソコンと数体のハードディスクがある。最上の入出力を誇るハードだ。それを提供した本人である怜吏は、その報告を聞いて遠くを見た。
「……そっか」
 逡巡は一回だけだった。
「ありがとう。礼を言うよ、電子妖精(エレクトロ)。これで僕もお役御免になれる」
 政財界のプリンスとしてヤツが天才扱いされ始めたのが3年前。コイツは若干9歳で日本が誇る大財閥の次男坊だった。コイツの父親は長男を見限って後継をコイツにする遺言書を造らせたのだ。面白く思わないのがそれまでコイツの兄である長男坊におもねって派閥を確立させていた輩だ。
 以来、比較的、平和な日本に於いてコイツは常に命を狙われる羽目になった。そしてオレを頼ったのだ。既にいくつかの事業を成功させていたコイツは幸いなことに金には困っておらず、汚れていない巨額をオレに支払った。
 単純なお家騒動というわけなのだが、それを何より嫌ったのがコイツだった。3年間、戦って、今、自分の父親を告発するタネと後継を兄とする血版を押させる材料を手に入れたのだ。
 別に兄が特別無能だったわけではない。コイツが有能過ぎた。ただ、それだけの話だ。
 湿っぽいのを望んでいないとわかったので、喉の奥で低く笑う。
「どうだかなぁ。少なくともオレだったらお前をお役御免になんてさせねーな。矢面に立たせる別の人間を用意して裏から牛耳らせる算段を立てる」
「そうさせないために君にこれだけの仕事を頼んだんだ。させやしないさ。これ以上、人の上に立ち続けるなんて真っ平だ」
 どうだかなぁ、と思う。人の上に立つ人間はそういう素養が必要だ。カリスマ性がなくてはいけない。その点で言うとコイツはばっちりきっちり兼ね備えてしまっているので、今は表舞台から消えられてもいつかどこかの頂点に立っていそうな予感がある。
 まあ、オレが気にかけてやるようなことでもないのでこれ以上は突かないが。
 すとん、と別の封筒が飛んできた。
「ご所望の日本国籍だ。名前は希望通りにしておいた。私生児で海外に売り飛ばされていたのを傘下の慈善団体が保護したっていう名目にしてある」
「足は」
「まあ、当面はつかないんじゃないかな。何せ、明日から日本の裏社会は大財閥の不正やお家騒動の実情が発覚して大賑わいだ。ちょっと変わった容姿の私生児がまぎれたくらいで動くバカはいないよ。沈静化する頃には君は自分で地盤を固めているだろうしね?」
 可愛い婚約者殿がシングルマザーになる決意をする前に、さっさと連絡を取ることをお勧めするよ。
 最後に言い放った皮肉は実にコイツらしかった。
「じゃあ、また頼むよ」
 ほら、やっぱりただで舞台からは降りられないと自分で理解している。
「またたっぷり頼むぜ」
 オレの女はとにかく金がかからない。それはそれとして、こっちはガキが生まれるのだ。ご祝儀は取れるところからたんまり取っておくに限るだろう?
 暗い会議室を後にする寸前、まったく、という柔らかい溜め息を聞いた。


 警戒心を露わにトンすけが私の部屋に入ってきたのは、翌日のことだった。
 私がその日の朝刊の一面を穴が空くほど睨みつけていたときのことである。その一面ときたら日本一の大財閥のお家騒動という、どこかのゴシップのようなネタを至極真剣に取り扱っていたのだから。
 そういう心当たりがあり過ぎて、つい夢中で読んでしまったのだった。
「佐伯って人、知っとう?」
「佐伯?」
 私を呼びに来たトンすけは、それはもう不細工な顔をしていた。またサクヤを麒治郎に取られたのか、と流したが後でそれだけではないことを察した。
「電話。瑠那はいるか、って。知らん人?」
 知らん人なら切るけど。
 ガルガル期に入っているトンすけは、サクヤと一緒に私のことも守ろうとしてくれているらしい。
 施設時代まで遡ってみたが、該当する人はいなかった。でも、無視できない何かはあった。イタリアで当然のように複数の偽名を使いこなす一家と住居を共にしていたせいだ。
「出てみる」
「……腹」
「大丈夫」
 母胎が多少揺れたところで動じるような子じゃないだろう。だって、アイツの子どもなんだもの。
 トンすけが薄手のカーディガンを羽織らせてくれて、私はいつもより慎重に廊下に出た。お腹は膨れていないけれどそうさせる何かはあるのだ。ようやくナンバーディスプレイが導入されたばかりの我が家の電話の前に立つ。表示は見たことのない携帯ナンバーだ。でも、非通知ではない。
 保留中のボタンを解除してそうっと受話器を持ち上げた。
「……もしもし」
 電話の声というものは、一度、電気信号に替えられた人の声が受け取り側で近い音として再生されるのだという。だから、電話越しに聞く声はまったくそのままのその人の声ではないんだとか。
 だけど。
『よう、出たか。跳ねっかえり』
 その声を、私が聞き違えることはなかった。
 視界が揺れる。眩暈とかじゃなくて、耐えてきたものが決壊する。目の奥が熱い。返事をしたいのに声が詰まって出て来ない。ああ、口惜しい。もどかしいな。この。
 私の様子を伺っていたトンすけがぎょっとしてうろうろしている。どうしよう。電話は切れない。涙は出てくる。どうしよう。迷っているうちにトンすけは廊下を走っていった。誰かを呼びに行ったんだろう。
『泣いたか?』
「泣いてるわよ、バカ」
 鼻を啜る音がなくても、きっとヤツには丸わかりだろう。そういうヤツなのだ。見て聞いて思考はするけれど、その前に答えを識(し)っている。そういう嫌味ったらしい天才だから。
「もう平気なの?」
『平気だろ。御大が本気を出したからな』
「あの朝刊」
『ああ、見たのか。随分、派手にやったな。おかげでこっちは助かるが』
 コイツの脈絡を解くのは大層、骨が折れるのだけれど、察するにあの魔王が派手な花火を打ち上げてくれて、その合間に上手く紛れることができたとか。そんな感じだろうか。魔王に貸しを作るなんて、勇者を通り越して裏ボスもいいところだ。
「あのね」
『知ってる。腹にいるんだろ』
「うん。たぶん、女の子」
『……わかる周期だったか?』
 私にわかってコイツにわからないことがあるのなんて、ほとんど初めてだったからちょっと笑ってしまった。そういうこともあるんだね。ここは日本だもん。私の実家だもの。
「わかる人がいて、女の子の洋服、つくってくれてるの」
『ケッタイだな。日本でジェンダーリビールケーキが流行らない理由を理解した気分だ』
「それ、私も思ったけどたぶん、私の実家だけだから違うわよ」
 考えることが似てくるのだろうか。いや、それは嫌かも。
『ふむ。やっぱり買ったのは土地だけで正解だったな。日本の夏は暑すぎる上に、オレに女の部屋の趣味はわからん』
「なんの話……?」
『家の話に決まってるだろ。安心しろ。お前の実家から5km圏内。子どもでも歩ける距離だ』
「土地って、戸建ての土地ってこと!?」
『集合住宅(アパルトメント)は何かと面倒くさいからな。そっちのが早い』
「そんな理由で軽く土地買うヤツ、あんたくらいよ」
『御大から搾り取ったんでね。しばらく寝てても何も困らねぇさ』
「そこは働きなさいよ」
 私はあんたのことをどうお母さんに説明したらいいか、ますますわからないじゃない。
 それに思い出してしまった。私はノン太に指輪も花も要らないって言ったのに。家って何よ。斜め上過ぎるでしょ。絶対に後々まで語り草にされる。
「……ねぇ、それプロポーズのつもり?」
『あ? ……言ってなかったか?』
「言ってないわよ」
『そうだったか? まあ、いい。じゃあ、今言うぞ』

『何も心配しなくていいから嫁に来い』

「……うん」
 仕方ないから、いってあげる。
PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字



1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
● カレンダー ●
06 2025/07 08
S M T W T F S
2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
● リンク ●
● 最新コメント ●
[01/17 梧香月]
[11/11 ヴァル]
[08/02 梧香月]
[07/29 ヴァル]
[07/29 ヴァル]
● 最新トラックバック ●
● プロフィール ●
HN:
梧香月
性別:
女性
● バーコード ●
● ブログ内検索 ●
Designed by TKTK
PHOTO by Sweety
忍者ブログ [PR]