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2009/11/03first
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少女が出会ったその日、心はどこかに置いてきた。
※都内で相次ぐ連続自殺事件を多方面から語るモノ語り
※未遂ですが登場人物が不道徳な描写があります





 こぽこぽと小さく泡が弾けていく音が心地いい。水草がゆらゆら踊る水槽には、小さいエビくらいしか入っていない。けれど彼女――相原里菜はその素っ気なさが嫌いではなかった。
 だってたくさん魚がいたら、頭の悪い自分では名前を覚えることもできないから。
 空っぽに近くて、こぽこぽと泡を立てるだけの水槽を眺めるだけの時間は、何も考えなくていいと思うから。
 自分も空っぽになれるような、そんな気がするから。
「相原さん」
 ドアが閉じる音。優しい声。突然で少しびっくりしたけれど、すぐに呼吸が落ち着く。
 大丈夫。水槽が奏でる泡の音、ふんわり清潔な石鹸みたいな胸がすく香り、真っ白じゃなく柔らかいアイボリーで統一されたカーテンや椅子。
 ――大丈夫、ここには私を傷つけるものなんて存在しない。ここは唯一、私を守ってくれる。大丈夫。
「大丈夫ですか?」
 不意に肩をそっと叩かれて、心臓がとくんと跳ねる。男の人の手なのに全然、いやらしくない。とても綺麗な、清潔な手。男の人なのに。
「大丈夫です。ちょっと考え事しちゃってて」
「席を外してすいません。少し休憩にしましょうか。飲み物は何がいいですか?」
 ――ほら、やっぱりここには私を傷つけるものなんてない。
「えーと、えっと、じゃあ、先生と同じもの、がいいです……」
 我ながら少しあざとかったかな、と思う。けれど彼は何でもないようににこやかに「そうですか」と頷いて、コーヒーメイカーに向かってしまうのだから里菜はやるせない気持ちを抱えたまま尖る口元を隠した。
 まだ高校生なんだから。好きな人の行動ひとつにイッキイチユウくらい許される。と思う。
 コーヒーの甘い匂いがする。香りはこんなに甘いのに、何故、味はあんなに苦いのだろう。
 ――なんだか叶わない恋に似てる。なんて。
 正直なところ、コーヒーはあまり得意じゃない。でも、好きな人と同じものを共有できるなら、それは毒薬だって甘いような気がするものだ。
「はい。熱いので気をつけてくださいね」
 ことりと置かれたマグカップは里菜がここに通うようになってから、専用になったものでまた少し心臓が速くなる。赤い線が入ったキツネのマグカップ。彼の生活の一部に自分の物がある。ここに居てもいいんだ、と言われているような気持ちになる。
 真正面から彼を見つめることになって俯き加減になった。
 柔らかそうな黒髪、きりっとした眼鏡の奥で穏やかに微笑む目、石鹸の香りがするぱりっとした白衣。
 カノジョとかいないんですか、と女子高生特権のノリで聞いてみたことがある。「いないし、作る予定もないなぁ」と言っていたけれど、毎日綺麗に洗濯された白衣とか、たまに差し出されるアイロンのきいたハンカチとかを見ると勘ぐってしまう。愛妻弁当は今のところ見たことがないけれど。
 若くて、立派で、先生で、優しくて、かっこいい。女の人が放っておくはずがないのに。ないのだから、いずれ、いや明日にでもけろっと「結婚することになりました」なんて言われても驚かない。
 そんなことまで考えてじわりと涙が浮かびそうになって、慌てて誤魔化すようにコーヒーを飲んだ。
「うぐ……」
「ああ、やっぱり」
「……先生のいじわる」
 苦いのを忘れていて、つい唸ってしまったら、先生は眼鏡の奥で目を細めて笑った。もう何度も、何日も、通っているのだから、里菜が本当はコーヒーが苦手なことなんてバレてしまっている。
 それでも先生は必ずお願いすればコーヒーを淹れてくれる。
 そして今日もやっぱり苦笑しながら一口飲んだあとに角砂糖のポットとミルクを持ってきてくれるのだ。
「ありがと、先生」
「いいえ。美味しく飲んでくれた方が淹れた甲斐があるというものです」
 角砂糖とふたつとちょっと多めのミルクを足せば、先生みたいな甘い味になる。甘くて苦い味。
「学校はどうですか?」
「……別に。いつもと同じ」
 優しい世界に浸っていられたのに、問診が始まってしまった。楽しい夢から現実に戻される気がして、どろりとした感情が動く。
「授業は何言ってるかわかんないし、友達なんて欲しくないし。先生のとこが一番いい。ずっとここにいたい」
 困らせることを分かって言っているのに、先生は小さく微笑むだけだった。そんなことできっこないのに、駄目と言われないことに安心する。
「友達も欲しくありませんか」
「だって、毎日イヤな気分になりたくないもん」
 他の学校なんか知らないけど、自分の学校、自分のクラスなんかなくなればいいと思う。毎日がマウントの取り合いだ。誰それが誰かと付き合い出したとか、誰かがネイルを新しくしたとか、ピアスを開けたとか。……AとかBとかCとか。そんなのばっかりだ。うんざりする。
「相原さんのことを分かってくれるお友達のひとりでもいればいいんですがねぇ……」
「いらない。先生がわかってくれるなら、それでいいもん」
 それは本音だ。里菜の中にある、数少ない本音。先生が居てくれたら、もう後はどうでもいい。
「おうちには?」
「……」
 とうとう押し黙って膝を抱えてしまった。嫌なことを全部押し付けるみたいにぐいぐい膝を擦り合わせても、どろどろになった心は晴れてくれない。
 嫌だな。好きな人の前でくらい、ちゃんと笑っていたいのに。
「……問診はまた後日にしましょうか」
 ぱたん、と先生がファイルを閉じる音がする。嫌だな。問診は嫌なのに、この時間が終わってしまうのはもっと嫌だ。矛盾してる。
「相原さん」
 ずっと丸くなっていたら、先生の柔らかい声とちりん、と何かの音が降ってきた。思わずびっくりして顔を上げると、視界の中できらりと光るものがあった。
「知り合いに頂いたのですが、私には些か可愛すぎるでしょう?」
 小さいお守りだった。トラックの窓に吊るしてあるような渋いヤツじゃなくて、ピンクの布地にきらきらしたラメが入ってて、ブサカワイイ系のキャラクターが笑ってる。ちっちゃな鈴がついていて、鳴ったのはそれだと思う。健康祈願。
「良かったら差し上げますが、それとも」
「欲しいです!」
 遠慮がちな先生の言葉に食いついてしまった。恥ずかしくてまた俯いたら、先生は私の手にお守りをぎゅと握らせてくれた。また顔が熱くなって、ますます上げられなくなる。
 プルル、と先生のデスクの電話が鳴ったのは有り難かった。先生は「すいません」と断ってから受話器を取る。
「ええ、はい。私です。……はい、そうですか。はい」
 しばらくそうやって何かを話していたけれど、受話器を下ろした先生は立ち上がってしまう。
「相原さん、すいません。今日はなんだか邪魔が多いですね。すぐに戻りますので、5分ほど待っていてもらえますか?」
「はい」
 先生が忙しいのはいつものことだ。いつもどこかに引っ張りだこ。しょうがない。でも、先生が待っていてくれというときはちゃんと戻ってきてくれるから平気。
 ぱたぱたとスリッパを鳴らして先生が出ていく。またアイボリーが包む空間に残されて、水槽に近づこうとしたけど、はたと気が付いた。
 慌てて立っていった先生の椅子が回転してぴたりと止まる。手には貰ったばかりのお守り。
「……駄目だってちゃんとわかってるんだから」
 お願いすることくらいは、カミサマだって許してくれるよね。なんて自分に言い訳した。


 アパートの階段に足をかけたところでまた立ち止まってしまう。
 何度も、何度も、振り返りながらのろのろと歩いていたから、とっくに日なんか暮れていた。いや、そんなことはどうでもいいんだ。
 里菜は頭を振ってもう一度振り返る。大丈夫。何の足音もしなかったんだから。電柱の裏に誰かいる気がするなんて、本当に気がするだけなんだから。
 馬鹿馬鹿しい。
 音なんて、このアパートの階段が古くてギシギシ鳴ってるだけなんだから。
 築30年は立っているボロボロのアパートの、底が抜けそうな踊り場を歩く。南向きっていうこと以外は何にもない。バスタブとトイレだって一緒だし、狭い。セキュリティなんて、力持ちの人がちょっと暴れたら意味がないんじゃないかっていうくらい頼りない鍵ひとつしかない。
 それでも、本当の家に帰るより全然マシ。
 階段を昇り切ったら、何だか一気に疲れてしまってどっと力が抜けた。ふらふらのたのたと自分の部屋の前まで足を引きずっていった里菜は油断し過ぎていたことをドア前で悟った。鞄がとん、とポストを叩いてしまったことに気がつかなかった。揺さぶられたポストが開いて、どさりと中身を吐き出した。
「ひっ……!?」
 折り重なる茶封筒。数えなくても十通は軽く超えていて、中身は見えないけど、わかる。だって、消印も差出人の名前も何もない。やだ、やだやだやだ。
 ――見たくない!
 さっきまで力が抜けていたはずの足で、思いきりその場から逃げ出していた。


 勝手に足が向かっていたのは、繁華街のど真ん中だった。里菜の制服姿は浮いているだろうが、気にしているような余裕はなかった。頭がぼんやりする。何も考えたくなくて、頭が勝手にいろんなことを理解するのを拒否している。居酒屋やバーの客引きの声がやけに遠く聞こえる。酒と煙草と香水が入り混じった、すえた匂いがする。
 嫌で嫌で仕方ないのに、里菜が辿り着くのはいつもこんな掃きだめみたいな汚い場所なのだ。まるで、自分の居場所なんてそこにしかないんだと宣告されているみたいで、ますます顔が上げられなくなる。
 里菜は知っている。この街の端っこで、所在無さげに立ってさえいれば、勝手に見知らぬ大人が近づいてくる。そして顔を上げられない里菜に、三本から五本の指を立ててくる。そんな意味なんてわかりたくないのに、わかってしまう自分が嫌だ。
 自分はどれだけ真面になろうと頑張ったところで、所詮、このままなのだと絶望的な気分になる。
 ――本当は、クラスの女の子たちが嫌いなんじゃない。
 女の子にとって、綺麗になりたいという願望はずっとついてくる影のようなものだと思う。髪を伸ばして、肌をケアして、お化粧をして、流行を勉強して。AとかBとか、そんな可愛らしくてきらきらしたものではしゃげる彼女たちが羨ましい。羨ましくて、憎たらしい。
 ――私には、こんな居場所しかないのに。
 目の前に立った大人が指を五本立てている。理解したくないけれど、理解している里菜はのろのろと頷くしかない。頭の中は真っ白。何も考えたくないから。何も思いたくないから。自分の身体が、感覚が、一番遠く感じるようにして――。
「ごめんね、お姉ちゃん! 遅くなっちゃった!」
「……え?」
 大人の手を取ろうとした里菜の手が横合いから攫うように掴まれた。
 高く響く声。ボーイソプラノでも通じそうな、声変わりしているのか怪しいくらいの、男の子の声。振り返ると、視界が真っ白くなった。いや、違う。そこにいた男の子が真っ白かったんだと気づいた。髪の毛も、肌も、来ているコートも、真っ白。わざとらしく笑う瞳だけが、とても綺麗な紫色をしていた。年齢はわからないけど、少年と呼んでいい歳だと思う。
「塾の授業長引いちゃって。待った?」
 手を掴まれているのに、掴んでいるのは男の子なのに、中性的な外見をしているからだろうか。嫌悪感は浮かんで来ない。
 里菜の前にいた大人は明らかに戸惑って少年を見た。少年はたじろぐこともせず、まったく無垢な顔をして、小さく首を傾げる。
「おじさん、誰? お姉ちゃんの知り合い?」
 汚いものなんて知らないんじゃないかっていうくらい、透明な眼差しを受けて、大人は何も言えないようだった。「あ」とか、「え」とか、意味のない母音だけを呟いた後、誤魔化し笑いをして去っていった。
「ほら、早く帰ろ」
「え、あ……?」
 母音しか発せられないのは里菜も同じだった。少年に引きずられるままに歩く。何か察していたんじゃなくて、単純に困惑していたのだ。この、とてつもなく変な状況に。
 繁華街を出たあたりで、ようやく里菜は「この少年が何者なのか」の疑問に至った。
「ちょっと、待って、あんた、何のつもり!?」
 掴まれていた手を勢いよく振り払う。手は簡単に外れてばちんと音が鳴った。音が鳴ってから少し乱暴だったか、と身を竦ませる。しかし、足を止めた少年は咎めもせずにその手をコートのポケットに突っ込む。ゆるりと里菜を見る目には先ほどのイノセントさはなく、逆に安心してしまうくらいの渋面で溜め息を吐かれた。
「他人に意見できるような人生送ってはいないんだけどね。あの手合いはやめておいた方がいいよ。自分で解ってるでしょ?」
 ニキビひとつもない綺麗な顔で、そんなことを言うので、なんというか。そう、率直に、ムカついた。
「あ、あんたには関係ないでしょ? 大体、いきなり人のこと引っ張っていくなんて、あんたこそ怪しいじゃない!」
「関係ない、か。うん。確かに関係ないし、怪しいことは認めよう。でも君も君だ」
「な、何のことよ……」
「だって、誰でもよかったんでしょ。関係のない誰でも、あのおじさんではなく別の人でも、君は同じことをしようとした。そこに同じく関係のない僕が割り込んだ。それだけの話だ」
「あんたが余計なことしなきゃ、私は……」
「ちゃんとした部屋で寝れたのに、って? それ、ちゃんとしてるって言えるのかな」
「……っうるさい!」
 イライラして大声を出してしまった。繁華街の入り口でそんな声を出したら、視線を集めるに決まっている。咄嗟に口元を押さえても後の祭りだ。
 居心地の悪い視線が私と少年に注がれる。けれど、夜の街の住人は淡泊で、特に何も起きないとわかるとまた人は流れ出す。その無関心が寒いのにほっとする。
 恨みがましく少年を睨む。彼は欠片もたじろぐことなく、小さく肩を竦めた。
「まあ、僕のせいで君の今日の寝床を潰してしてしまったことはお詫びするよ」
「……お詫びって、何をしてくれるのよ」
「簡単なことだよ。寝る場所と入るはずの収入をふいにしたんだから、同じものを提供するのが筋ってものじゃない?」


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