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2009/11/03first
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2024

※思わず書いている側が温い目になる中学生日記
※瑠那が丁寧に被っている猫が完全にログアウト




 異変を知らされたのは翌日のことだった。
 朝食のブリオッシュをコーヒーで流し込んでいると着信があった。発信者の欄にはスオミの名前がある。どうしてなかなか珍しい。定期の検診はまだ先だったはずだが、と頭の中でスケジュール帳を捲りながら通話ボタンをタップした。
『朝、早くにごめんなさいね。アテがなかったものだから』
「いや、別にいい。どうかしたのか?」
 確か彼女の婚約者のアルバートは昨夜から隣国に出張だったはずだ。カシスはどうか知らないが、まあ、アイツのスケジュールをすべて把握しているヤツなんてファミリーの中にも家族の中にもいない。
 アテがないというのは男手がという意味だろうか。そう思って訊いてみたのだが。
『仕事の話ではないから安心してね。昨日、カノンと何かあった?』
「何か……」
 あったと言えばあったのだろうが、要領は得ていない。自然と言葉が尻すぼみになる。
 あの後のカノンは何かおかしかった。何か考え込んでいると思えば、急に空元気を出したり、変に取り繕った笑顔になったり。どうしたのか聞き出そうとすれば、なんでもないの一点張り。普段は割合、単純思考の彼女らしくなく考えていることが読めなかった。
 同行していたルナはしきりに溜め息を吐き、頭痛を堪える仕草をし、終いには頭を抱えていた。別れ際にやたらに恨めしそうな視線を寄越されたのを憶えている。待ち合わせたときの緊張具合を考えると、随分とした変化だが、いかんせん心当たりがない。
 電話口で困ったような、しかし、まったく暗くはない声色でスオミがあのね、と言う。
『カノンが朝ご飯に出て来ないの。昨日の夜もあまり食べていなかったのに』
「アイツが飯を食わない?」
 青天の霹靂だ。昼のバルでだってピッツァの端を齧るばかりでおかしいと思っていたのに。
 カノンの食に対する拘りは、まあ、本人の気質もあるのだろうがスラムの片隅で兄妹二人、貧しく暮らしていた時期に起因する。食べられるときに食べておけという次兄の言葉を忠実に守っているし、今ではその意味も理解している。
 俺たちのような現場であれこれと動き回る人間は、食べるときに食べておかないと身体が動かない。場合によっては一日、二日と何も口に出来ないことだってあり得るのだ。そういったことが手伝ってアイツの第一のモットーになっているはずだった。
 それを食べないとなると、いよいよ妙だ。
『ルナは私のせいだ、と言っているんだけど』
「ルナのせい?」
 昨日一日をざっくりひっくり返してみるが、思い当たらない。あのときを境に口数は減っていたように思うが、ルナが直接カノンに何をしたかと言えば、何もしていないとしか答えられない。
「カシスは?」
『相談してみたんだけど、コーヒーを噴きそうになるくらい大笑いしていたわね。〝放っとけ、別に一日くらい食わなくても死なねぇ〟って。もう外に仕事に行っちゃった』
「相変わらずの放任だな……」
『過干渉よりはいいと思うのだけど。やっぱり心配でね。ルナに訊いてみたら、自分のせいだって言い出すし、あなたがいないと誤解が解けないって言うものだから』
「は……?」
 本格的に意味がわからない。誤解って何の話だ。ルナは何を見て何を考えている?
 困惑していると電話の向こうで当人の声が聞こえた。スオミがちょっと待ってね、と断って通話の相手が変わる。
『Buongiorno.まったく快適な朝ではないんだけど』
「ああ、おはよう」
 言葉に棘がある、というには些か生易しい。直接、肌に茨を押し付けようと構えている低音だった。
『で、本当に何も思いつかないの?』
「何が」
 ふー、と深く深く陰鬱な息を吐かれた。
『どうして私が関わる男って問題児ばかりなのかしら。頭痛い。イタリアに来てまでなんでこう、ややこしい間柄に挟まれなくちゃいけないわけ』
「いや、そんなことを言われても知らんが……」
『お黙り、この朴念仁。いいこと? 普通の女の子は、親しい男性と他の異性が自分のわからない言語で笑って話していたら、嫉妬のひとつやふたつやみっつするもんなの。それをあの子もあんたも自覚がないもんだから、ああもう、なんでこんな単純な話で拗れなきゃいけないのよ』
「はあ……?」
 知らず知らず、つられて語気が強くなる。嫉妬だと。誰が誰に?
『そこで疑問を持たないでちょうだい。で、スオミにあんたたちのことを当たり障りなく聞いたのよ。あの子、誤解したまま、自分が焼いた餅にも気づかないままぐるぐるしてるのよ。どうせ、今までこういうことなかったんでしょ』
「待て。話についていけないんだが」
『あんた、本当に脳みそをどっかで詰め替えてもらってきたら? これ以上なく真正面からわかりやすく叩きつけたつもりだったんだけど?』
 そんなことはわかっている。ただ前提がおかしい。そのせいで脳が理解を拒んでいる。誰が誰に嫉妬するというのだ。星に祝福された少女と掃き溜め、いいところ陰気な墓守のような男。どんな関係にもなっていないし、どんな関係にも成り得ないというのに。あるわけがない。面の皮が厚いにも程がある。百歩譲って逆ならばまだしも。
 ――いや、待て。
 おかしいだろう、それも。込み上げた吐き気を堪えて飲み下した。最近はなりを潜めていたはずの不快感が一気に胸の奥から喉元まで広がって気持ちが悪い。未だ以て、この不快感がなんなのか、よくわかっていない。
 てんで役立たずになった頭だが、聴覚は意識しなくとも電話口の高い声を拾い上げる。
『その気もないのに間女扱いなんていい迷惑だわ。冗談じゃない』
「お前の口から説明したらいいだろう」
『あんた、本格的に馬鹿? 浮気相手から何もないと言われて納得できる女がどこの世界にいるのよ』
「はあ……?」
 誰が浮気だって? いや、おかしいだろう。そもそも浮つくような気どころか、本命となる気さえどこにあると? それがなければ浮気も何もないだろう。電話口の向こうで苛立ったルナがまた深く聞えよがしな溜め息を吐く。
『あんた、本当にないわ。そのくせ無駄に顔面偏差値が高いのどうにかならないの。本当に無駄。あの子は気にしてないみたいだけど、その鈍感さで一体、何人、女の子を泣かせてきたのかしらね?』
「いや、憶えはないが」
『嫌味よ、気づきなさいよ。絶対、あんたが気づいてなかっただけよ。そういうところだけ、あの子もあんたもよく似てるわ』
 ふん、と鼻を鳴らす。昨日の礼節を弁えた態度はどこにいった。猫を被るにも限度があるだろう。
『とにかく、今日中にあの子に会いに来なさい。いいわね?』
「いや、ちょっと待て。それは」
『アルから聞いてるわ。家に来ればいいって言ってるのに、一度も来たことないってね。家主がいいって言ってるんだから、来られないだなんて言い訳は聞かないわよ!』
 ばん、と電話口の向こうで音が鳴った。がさごそと音がして、スオミの困ったような、うーん、という悩まし気な声が聞こえた。電話は無事にスオミの手元に帰ったらしい。
『ごめんなさいね。でも、私も正直、お手上げなの。こちらに来てもらったら助かるわ』
「……わかった」
 まだ頭はついていけていなかったが、とりあえず放っておいていいことは何もないことだけはわかった。俺はあの家の空気に異物が混ざるのを由としていなかっただけで、あの家族が壊れてほしいわけではないのだ。
「アルバートはいつ頃、戻る?」
『夕方前には帰ると言っていたわ』
「わかった。その頃に訪ねる」
 いくらなんでも女性しかいない家の中に無作法に上がり込むわけにはいかない。スオミは律儀ね、と笑ってから電話を切った。通話を終えて吐き出した息が鉛のように重たくて、食べたばかりのブリオッシュが逆流してきそうな心地に襲われた。
 何が浮気だ。何が嫉妬だ。馬鹿馬鹿しい。頭ではそう思うのに、肺の中が、腹の底が、ぐるぐると澱が渦巻いていて気持ちが悪い。霊障かと逃避しようとすれば理性がそれを否定する。つい昨日まで彼女と出歩いていたんだ。それから何も斬っていないだろう、と。
 夕方までには十二分な時間がある。やることなど、独り暮らしで繊細な仕事道具を扱う俺には山ほどあったはずなのに、どうにも何か手に着く気がしなかった。ただ、あの幼い少女が泣いていないかだけが気になった。
 そんなもの、俺が気にかける資格も必要もないくせに。
 初めて堕ちた〝神〟を見たときだって、ただ静かに、あのドイツの海辺の緩やかな波のように凪いだ心境だったはずだ。やたらに脈動する自分の情動が自分で信じ難い。お前はそんな人間ではなかっただろう。だからあの老人に選ばれたんだろう。だからこそ、この役目を、やれていたはずだろうに。
 ――ああ、とても。とても、不愉快な。
 どうして俺がこんなものに振り回されないといけないんだ。醜くて、身勝手で、不可解な。


 結局、夕方までろくな作業をできないままでいた。その分、休息が取れたかといえばそうでもない。気疲れというものなんだろう。知りたいものでもなかったが。これほど無為な時間を過ごした日もそうそうない。
 彼女らが暮らしている〝丘の家〟はその名の通り、小高い丘の上に建っている。裏手には天然のオリーブの林が広がり、季節には鈴なりに実をつける。奥地にはアマレーナとアプリコットの木が揺れ、周辺にはブーゲンビリアの花が降るように咲く。少々、離れた崖下の小さな湖沼では釣り糸を垂らすとたまにカワカマスが食いつくという。
 アルバート曰く、建てた当時はもう少し枯れた土地で、年若かった彼の資産でも手に入れられる程度だったそうだ。住むうちに寂しげな林も濁った湖沼も変わっていったらしい。
 手を入れた、というのも事実ではあるのだが、カシスが言うにはアルバートが自分の夢物語をカノンに聞かせたせいだ、と呆れたように吐き出していた。カノンがアルバートに会ったとき、カノンはまだ三歳だった。寝物語も子守唄もまだまだ必要な年齢だ。アルバートは自分もうとうとしながら、こんな家で家族と一緒に暮らしたいのだと訥々語ったそうだ。春と秋には肥沃な地面に種を撒き、緑が育ち、蝶と蜜蜂が飛び、夏の合間の涼しい日に湖で釣り糸を垂らして、たまに大物が釣れて、冬には雪が降るけれど薪に困らないから暖炉はいつも暖かくて。
 そんな極めて牧歌的で平和な、誰もが一度は夢想するようなスローライフを。
 問題はそれを聞いてしまっていたのが、他でもない、惑星の妖精のような妹だったことで。
 当時のカシスはぎっちぎちに長兄を締め上げたという。どこまで彼女が影響を及ぼしたのか、俺には判断がつかないがそれから十年あまりでその変化、というのは確かに些か不自然さを覚える。森も林も育てようとすれば育つものだが、その変化はもっと緩やかではなかろうか。限定的な庭を好きなようにガーデニングするわけではないのだから。
 落花したオレンジのブーゲンビリアが鼻先を掠めていくのを受け流し、そんなことを回想した。
 花と蔓に囲まれた邸宅は煉瓦造りでどこか素朴さを感じる。当時のカシスが図面をひき、アルバートが下地から積み上げ、仕上げとばかりに妖精が花を咲かせた家。ハーブのブッシュに囲まれた童話に出てきそうな家は、到底、マフィアの拠点とは思えない。隣家との距離が離れているのが唯一、それらしいと言えばらしいかもしれない。
 ――まさか、こんな心境で訪ねることになるとは思わなかったが。
 自分が何をしに来たのかも判然としないまま、開け放しの門をくぐった。ただ女に会いに? そんな馬鹿らしい理由があるか。詫びを入れに? 何が悪いのかも理解していないくせに。じゃあ、何のためだ。わからない。
 溜め息で誤魔化していなければ、今すぐ回れ右をしてしまいそうだ。まったく。
 あの老人のように、他人と関わらずにいられる場所を探すべきなのだろうか。なんというか、役目だとか、仕事だとか、そんなもの関係なしに致命的に俺には向いていないと痛感させられる。
 ――アルバートは帰っているだろうか。
 もし、いなければ口実に出直そうと、それだけ決めてスモークツリーの垣根を横切った。そのときだ。
「っ!?」
 ぎしり、と心臓が鳴った。肌が粟立つ。ぴりぴりとした空気が、神気が、首筋を撫でていく。馴れている、とまでは言わないが、馴染みのある気配。神格と呼べる力を持った、年月を生きた何かがいる空気。
 目の端で金色の光が閃いた。蛍火のような光。空から光と威圧、いや、存在感が降ってくる。力あるものは存在そのもので力のないものの頭を垂れさせる。その気性や性質がどうであれ。
 息を整え、金色の光を辿り、呼吸が止まった。
 孔雀のような、しかし色合いは朱色をした豪奢な翼が広がっている。燐光を放つその尾羽から零れ落ちる光が頭上に蛍火の如く降っている。孔雀というより鳳凰と言った方が想像しやすいか。燃え上がる火と灰の匂いがする。そして、とにかく燐光が眩しい。表情は伺えない。
 ただの鳥なわけがない。数多の神を斬り葬ってきた俺が、その気配を間違えるわけはなかった。
 そんな鳳凰が家の一角に浮き上がり、中を覗いている。その一角に位置する部屋、開け放たれた窓の向こうで、ペールブルーのカーテンが揺れている。その窓辺から身を乗り出して鳳凰に手を伸ばす少女がいる。蜂蜜色の髪。空より青い碧眼。幼い顔立ち。ぱちぱちと瞬く瞳が鳳凰を映し、コーラルピンクの唇が何かを紡ぎ、その手がふらりと伸ばされ――

「いつでも何かの都合で天に召し上げられたとか、星座になったとか、美辞麗句で塗り固められて――」

 どん、とドアベルも無視して戸を叩いた俺にスオミは驚いたようだった。
「どうしたの? ああ、カノンは」
「南側の角部屋だろう。すまない。あがらせてもらう」
 最低限の、いや、もはや最低限ですらないやり取りをして玄関に滑り込んだ。礼儀として持ってきていたアマレッティの包みが足元に落ちる。腕を組んで待ち構えていたらしいルナが、険しい表情から一転、ぽかんと口を開けている。俺は今、どんな表情をしているんだろうか。いや、どうでもいい。
 足早に木造の階段を上がる。ぎぃぎぃ、と鳴るが丈夫に出来ているらしく危なげはない。目標の部屋のドアは風のせいか薄く開いていた。その瞬間だけ、俺は確かにノックという概念を忘れていた。
「カノンっ!」
 こんな声が出せたのか、と自分で吐き出した怒声のような声量に驚く。そんな声帯に負担をかける真似をしたことがなかったので、喉の奥がひりついた。
 ふい、と窓の外の圧倒的な気配が消失する。弾かれたように少女が振り返った。寝癖で少し跳ねている、それでも美しい金糸の髪がさらさらと揺れる。虚空をぼんやり見つめていた碧眼が、光を取り戻してこちらを映した。
 衝動的に手を伸ばした。手首を掴む。想像よりも細くて手折れてしまいそうで怖くなった。いつのまにか息が切れていた。走ったわけでも、争ったわけでもない。ただ何でもない民家の階段を上がっただけだ。それなのに、詰めていた息が上手く吸えも吐き出せもしなくて、苦しさを感じる。そんな軟弱な身体になった覚えなどないのに。
「…………レン?」
 きょろりと碧眼を動かした少女が、目を丸くしてこちらを見上げている。当たり前だ。何度、誘っても訪れなかった家の中に俺がいて、あまつさえ自分の部屋の中にまで踏み込んでいるのだから。異常だ。自分でも異常をきたしていると思う。俺が機械であったのなら、即座に修理に出すべきだ。致命的に、何かエラーを吐き出している。
 ノックもせずに無遠慮に踏み込んだことを詰られても仕方がない。自室に籠っていたという少女はルームウェアのままで、艶やかな金糸の髪もところどころ跳ねている。いくら頓着がないからといって限度というものがあるだろう。
 それなのに、少女は二、三度、目を瞬かせた後にどこまでも無垢に首を傾げ、指を伸ばして俺の頬に触れた。
「どうしたの?」
 怖い顔してる。
 そんなことを言われた。そんなことを言われたのは初めてだ。何せ、元々が表情に乏しい、感情に愚鈍な墓守だ。強面と言うヤツは言う。そんな男のそんな顔に優しいも怖いもないのだ。
 それなのに、少女は、そんなことを言う。
 視線を窓の外に遣る。そこには日が傾いた白い空が広がるばかりで、もう何もない。俺の視線を追いかけたカノンが納得したように頷いた。少しだけ声を潜める。
「あのね、さっきいたのはキョウちゃん」
「キョウちゃん?」
「うん。内緒にしててね。ルナのお家は、えーと、ジンジャっていうの? 宗教は違うけど神様にお祈りする場所なんだって。それで、キョウちゃんはそこの神様で、自分の家の子が心配で様子を見にきたんだって」
「……それが何だってお前のところにいたんだ」
「うーん、詳しくはわからないんだけど。ほら、宗教ってルールがあるじゃない? そのお家のルールで、ルナはまだキョウちゃんに会っちゃ駄目なんだって。だから、あたしがいろいろ話してあげてたの」
「それだけか?」
「それだけって?」
 それ以外に何があるんだ、と言わんばかりのきょとん顔で、また反対側に首を傾げる。その顔はすっかり、元の、いつも通りの少女の表情そのもので。
 ――言えるか。
 勝手にどこかへ連れ去られるかと思った、なんて。言えるわけがない。言う資格もなければ、どうしてそんなことを気にかけたのかさえ、わからないのに。
「でも、ちょっとだけ嘘」
「嘘?」
「うん。なんかね。ルナの顔を見てられなかったの。レンのことも。二人とも大好きだよ? なのに、なんか、二人を見てるとお腹のあたりがぐるぐるして。揚げ物に胸焼けしたみたいだった」
 なんだそれは。
 なんだ、それ。
 それでは、まるで。
「〝やきもち〟っていうんだって。キョウちゃんに教わったの。病気じゃないし、レンのこともルナのことも好きだから苦しいんだって。二人をキライになったわけじゃないから安心しろ、って。よかった」
 ――よくない。
 何もよくない。そんなもの。そんなもの、お前が抱いていいものじゃない。
 馬鹿か。馬鹿だろう。お前には、もっと祝福された未来が用意されていたはずだ。矛盾だなんだなんてどうでもいい。関係がない。なんで俺なんだ。よりにもよって、なんで、とんだ〝ハズレくじ〟を引こうとしているんだ。そんなこと、許されていいわけがない。
 誰が許さないかって? 俺自身に決まっているだろう。コイツの兄弟や、万が一、世界が許そうとも俺が俺を許さない。許すわけがない。
 少女がじっと掴まれた手首を見ている。少女がおかしそうにフフ、と笑う。
「レンが自分からあたしに触れてきたのなんて初めてだ」
「……悪かった」
 離そうとした。それなのに少女はもう片方の手を乱暴に掴んだ男の角ばった汚い手に重ねる。
 少女の手は柔らかいとは言い難い。肉刺もあるし、胼胝もある。綺麗なままではいられなかった手だ。それでもきちんと人肌の温度がある。
「うん。レンはちゃんと手まであったかい」
 心が温かい人は手が冷たいって、迷信だね。
 やめろ。そんなふうに笑って、汚い手をまるで大事なものかのように触るんじゃない。目に見えていないだけで、お前が触っている手なんか血みどろで汚泥に塗れている。お前が触っていいものじゃない。
 ――ああ、吐き気がする。
 嫌だ、嫌だ。冷静になれ。
 ああ、そうだろうとも。百歩譲って認めてやろう。俺は確かにこの少女に惹かれているんだろうさ。向日葵が必死で太陽を追いかけた結果、首がねじくれてしまった末路だ。種はすべて鳥に食い尽くされ、落とせもせず、ねじれて息が絶えるまで。そうして寂しく朽ち果ててしまえばいいのに。
 こんな手で今後も彼女に触れて、いつか自身のエゴで穢すくらいなら、その方が何万倍もマシというものだ。ああ、まったく以て、想像するだけで吐き気がする。
「えっと、あのね」
「……なんだ」
「えっと」
 叫んで吐き散らして、手を振り解いてやりたくなる。わかっている。それが今度こそ修復できないレベルで少女を傷つけることくらい。だから理性を総動員して、湧き出した破滅願望にも近しい感情を沈ませる。
 こちらが必死に衝動を吞み込んでいても、彼女は、カノンは、そんなものどこへやら。すうはあ、と大きく深呼吸をして何か口の中でもごもごと何か言い澱んだ。発声練習でもするかのように、あー、と喉を鳴らす。
「んっと……〝イツモ、アリガトウ〟?」
「!」
 震えて片言ではあったが、確かに日本語の発音で彼女はそう言った。合ってる?と不安そうに見上げてくるものだから、ついには何も言えなくなってしまう。
「あたしも日本語を勉強したいって言ったらキョウちゃんが教えてくれたの」
 どうして。
「ちょっと発音が難しいけど」
 どうして、そんな言葉を選んで。
「うん、なんだか素敵な響き」
 どうして、そんなことを言う相手に、俺を選ぶんだ。
 わからない。
 こんな感情の起伏も、情緒の不安定も、自分自身への不快感も嫌悪も知らない。この手を振り解く方法があるのなら、誰か教えてくれ。頼むから。このままでは、いつか本当にうっかり死んでしまいたくなる。
「……レン? 怒った?」
「いや……」
 言われたことのない言葉だ。老人にも。あの古寺の善良な修験者たちにも。居合の師匠となった人にも。きっと、それがとんだ皮肉になると、あの大人たちは理解していた。
 ただ、ただ、彼らは善良であったので。俺が何を為したとしても、自分たちが「世界の、自分たちのために死んでくれ」と俺に言っているのだと知っていた。人柱にする子どもに、〝ありがとう〟なんて告げるだけ痛烈な皮肉でしかないだろう。
 ――でも、コイツは。
 この少女だけは違う。今、俺が長持ちし、生き永らえているのは彼女のおかげだ。言う相手が違う。むしろ逆だろう。そんなもの。そんな、もの。
 俺が少女にしてきたことなんて、ほんの些事にしか過ぎない。俺でなくともよかった。俺であったのは、ひとえにあの憎たらしい悪魔の采配があったからに他ならない。
 お前は、俺でなくともいいというのに。
 返す言葉もわからずに、返してしまったら何かが終わってしまうような気さえして、緩やかに首を横に振った。
「少し、馴れていないだけだ」
 そう、部分的な真実を告げるので精一杯だった。
 カノンが不思議そうに俺の逸らした顔を覗き込もうとしたとき、くう、と小さな音が部屋に響いた。彼女の腹の中から。
 頓着がないと言ったが、さしものカノンもさっと頬を赤らめて、ようやく俺の手を離した。温度が離れたはずなのに妙にじんじんと熱い。気まずげに頬を掻いたカノンがちらりと目線をドアに遣る。
「あの、着替えて下に行くから」
「あ、ああ。悪い」
「まだ、帰らないよね?」
 なんだってそう逃げ道を塞ぐ勘は鋭いのだか。帰ると返答すればこちらが悪人だ。駆け引きなんて知らないだろうに、痛いところばかり突いてくる。
「……まあ、そうだな」
 安心したように笑う彼女に、どうにも、勝てるヴィジョンが見当たらなかった。


「家に来いとは言ったが、妹の部屋に押し入っていいとは言ってないんだけどな?」
 気配で気づいてはいたが、部屋を出たところで帰ってきたらしいアルバートに捕まった。責めるような台詞だが、口元はしっかりにやついている。そういうところがこの家の長兄と次兄は似ている。似なくていい。
 それでも内容は真っ当すぎたので憎まれ口も叩けない。
「悪かった。お前の婚約者もいたのに。すまない」
 何故か、虚をつかれた顔で目を瞬かせ、がしがしと色素の薄い髪を掻き混ぜる。
「お前、変なところ素直……いや、うん。いいんだけどな? もっと物分かり悪く生きていいんだぞ?」
「は……?」
「やれやれ。そういうところだけ年相応なのな。これがギャップってヤツなんかねぇ……。まあ、いいや。スオミがコーヒーを淹れてくれてるんだ。せっかくだし、メシも食っていくよな?」
 人好きのする笑顔を浮かべてはいたが、圧を感じさせるそれは実質、脅迫に等しかった。


 結果として、無邪気に喜んだカノンにはまたこの家に来ることを約束させられたし、スオミにはあまりイジメないであげてねと謎の釘を刺されたし、ルナにはカノンが下りてくるまでの間、こんこんと説教された。口うるさい姉のようだな、と聞き流しながら思った。まさか後のフラグだとは考えていなかったが。
 尚、ある意味ですべての元凶である悪魔は帰宅して俺の存在に気づくなり、腹を抱えて笑い出したので、ほんの小指の先ほどに、あのときトドメを刺すべきだったろうか、という想いが脳裏を掠めた。
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