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2009/11/03first
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2024

※タイトル回収、一応の終章
※書ききった最初の書き手の感想が「いや単純な話だよ」




 零落という言葉があるが、ここはまさしくそうなのだろう。腐った水の匂いを嗅ぎながらそんなことを思う。一切の生命を感じることが叶わない死んだ土地。かろうじて形を保っている瓦礫は、元は屋敷の壁だったのか、それとも庭園のガゼボだったのかもわからない。一切の色彩が失せている。真昼だというのに陽の光は差さず、タールのような黒い雨が降っている。
 これが数多の魔術師が分厚い結界で秘匿していた不毛の土地。
 黒い雨はひび割れた地面を潤すことはなく、地面に堕ちた傍から瓦礫を削り土を枯らしていく。汚泥と混じりところどころに沼のように濁った水溜まりを作っている。まるで酸の雨のようだ。俺自身も分厚いフードとマスクで顔を覆ってはいるが、それでも不快な匂いは鼻に届くし、重たい大気は頭と肩に圧し掛かってくる。
 人間の本能を司る部分がここに長くいてはいけないと訴えてくるが、俺のように〝役目〟を負ってしまった人間はそうもいかない。
 ――いつか、人間が今のままで在り続けるのなら、地球全体がこのような土地になるのだろうな。
 なんて益体もないことを考える。あの妖精と出会ってから、妙なことを考えることが多くなった。具体的にはこの惑星が向かっている未来だとか。
 どうにも俺の頭では希死念慮が根付き過ぎていて破滅しか描けないので、向いていないと知っているのに。何故だか浮かんでしまう。以前はもっと目の前のことしか考えない人間だった気がするのだが。
『Code:CからRへ。まだ通信が死んでねぇようだな』
「RからCへ。既に方位磁石が狂っている。おそらく直に繋がらなくなるだろうな」
 インカムから流れてきたいつもの声に応答する。手元の方位磁石の針はぐるぐるとあり得ない速度で回転している。経験上、意味がないことはなんとなく察していたが、磁場がおかしいことを決定づけるには手っ取り早い。
 結界の中に侵入した時点で、異相になっていたのだろう。耳元で囁く悪魔の呟きだけが外との繋がりだ。命綱と呼べるものは身に着けた刀と銃だけ。今回も命を繋いでくれるかどうか。やってみなければわからない。
『人間の気配はするか?』
「いや、しない。大英図書館はまだ調査員も送っていないらしいな」
『送れねーのか、送りたくねーのか、どっちだろうな?』
「さあな。どちらでも。どうでもいいことだ」
 こんな場所、たとえ調査だけだとしても行きたがるヤツなどいない。いるとしたらどこかのネジが外れてしまっている狂人くらいだろう。ここに送られる予定だった東洋人とて理解しているはずだ。これは実に聞こえのいい、ただの処刑なのだと。
 当事者にしてみれば、何かしらの贖罪か求めていた死に場所なのかもしれないが。
 ――悪いな。
 まったく誠意のない謝罪を胸中で吐いてから、また黒いタールの水溜まりを踏んだ。その刹那。
「――っ!?」
『おい、どうし』
 ぶわりと咽かえるような甘ったるい花の香りが鼻腔を直撃した。じり、と何かが焼き切れるような音がしてインカムが沈黙する。唐突に目の前にあたたかな陽光が差し、わずかな鳥のさえずりが耳に届く。いつのまにやら、目の前に蔓薔薇のアーチが現れ、白い薔薇が咲き誇る。
 ――幻惑と幻聴。
 地獄から一転し天国へ変わった光景に、大した感慨も抱かず裁定を下す。匂いや風景が変わったところで、足先はひどい冷たい雨の感触を覚えている。
 一陣、風が吹いた。視線を上げると見事な薔薇園の只中に、瀟洒な石造りのガゼボがある。
 二世代ほど前に流行ったティーセットが並べられ、繊細な造りのドルチェフォールに軽食からケーク、ショコラが詰まれていた。ポットから注がれる紅茶は見事な琥珀色をしているのに、匂いはひどく悪い。饐えた茶葉を濾過していない雨水で煮だしたような。きっとこの幻を見続けている何かは、それらの香りを忘れてしまったのだろう。
 しかし、それらを囲む四人の人間たちは楽しげに笑っている。東洋人が二人、欧州人が二人。東洋人は二人とも男だ。ひとりが隣に座った陶器の肌を持つ美しい欧州人の娘に話しかけている。微笑んだ欧州人の娘は頬を薔薇色に染めて楚々と微笑んでいる。その様を欧州人の男がやや面白くなさそうに眺め、ティーカップをかちかちと鳴らしている。そして、その欧州人の苛立ちを宥めながら、眩しそうに、そして穏やかに三人を見守っているもうひとりの東洋人。
 少年少女と言える年齢だ。青春と言っていい、いつかこの地で本当にあった輝かしい景色なのだろう。
 ――確かに、この記憶は優しいな。
 ああ、やはりこれでよかった。ここにいるのが俺で。
「……生憎」
 刀を抜いた。
「俺に、そんな記憶はないからな」
 ここに来る東洋人がどちらなのかはわからない。土地に残る記憶を垣間見ただけで、内情までを想像するのは愚の骨頂だ。なので、だから、俺は不要なものだと斬り捨てることが可能だった。
 一閃で蔓薔薇の一部を空ごと切り裂いた。耳元でぎりぎりと空間が軋む音がした。目の前の平和的な景色が塗り替わる。ピンク色の蔓薔薇のアーチが黒い茨が絡まる瓦礫へと変貌し、白い薔薇は瞬く間に枯れ落ちて、幸福を体現したようなガゼボが崩れ落ちる。銀の匙がかつん、と地面に落ちてそこから波紋のように、あるいはシルクのドレスのように、黒い水が波打った。
『――どうして』
 とぷり、と腐った水の匂いがする。影絵が漆黒のドレスを着て不毛の地でワルツを踊る。人間より頭三つ分は強大な体躯をした〝聖母〟がいた。ただし、顔はなく黒い首から生えているのは血のように赤い薔薇で、その顔とも言えない顔を覆いながら、はらはらと涙のように花弁をタールの水溜まりへ落としている。甘い死臭を撒き散らしながら。
『どうして、あの人ではないの』
 引き攣れた悲鳴の中に、そんな思念が渦巻いている。伸ばされた女の手には黒い爪が伸びていて、半歩だけ移動した俺の脇を掠めていった。崩れかけた瓦礫が爪に引き裂かれて、ぼろぼろと崩れ落ちる。
 ――皮肉だな。
 かつて、お前が愛した庭園がそこにあったのだろうに。今は何も解らずに自身の手で壊すのか。
『あの人は、迎えに来てくださらないの』
 いくら嘆いても舞い落ちるのは花弁だけ。タールの雨が滴る花弁はお世辞にも美しいとは言い難い。ああ、本当に終わってしまっている。
「すまないな」
 刀身で黒い雨を裂く。
「お前の白馬の王子は、永劫、ここには訪れない」
 せめて、痛みはないように斬られたらいいのだが。


 紅色の花弁が視界を覆う。真横に払うと今度はあの爪が眼前にあった。躊躇わずに返す刀で斬り飛ばす。長い爪が真ん中ですっぱりと両断されてさらさらと汚れた大気の中へと消える。口のない頭から音波のような悲鳴が轟く。
『どうして? どうして? わたくし、何もしていないわ? 何もしていないの。ただ待っているだけなのに』
 波打つドレスの裾が意思を持つ生き物のように蠢き、両側から俺の身体に迫ってくる。それが柔らかな質感でもって包み込んでくれるとは思えない。最小限の動きで後退し、離脱する。ぶつかり合った波はタールの水溜まりを噴き上げて、異臭を撒き散らした。汚泥と混ざり合った黒い雨が、本当に酸のように瓦礫の成れの果てを融かす。
 幼く、無垢で、美しい少女だったのだろうなと思う。
 ドレスの裾を白刃で斬り刻む。〝聖母〟はお気に入りのワンピースを駄目にされた少女のように泣き喚く。ひどい、ひどいわ、と。そしてまだ駄々を捏ねるように自らの思い出を破壊する。
 幼くて、それ故に、罪を重ねてしまったのだろうと憐れんだ。
 知らないこと、何もしないこと。それ自体が時に罪になってしまうことなど、まだ知らなかった少女。あるいは誰もそんなことを教えなかったのかもしれない。ただ、神の子に等しい存在を産むために純潔であることを強いられて。そんな少女に、誰も必要な知識も感情の機微も教えなかった、可能性は、ある。
 可能性であって、それを勝手に真実のように語る口は持ち合わせていないけれど。
 この薔薇を手折る者として、せめて覚えていようとは、思う。
 波を掻き分け、水を蹴り、頭部とも言えない血みどろの薔薇に肉薄する。甘い甘い、甘ったるい、べっとりとした不快な匂いが鼻についた。白い刀身を振り上げる。身体が落下していく速度のまま、頭部の薔薇を両断するべく刃を下ろした。が。
『あ、あああぁぁぁっ!!』
「――っ!?」
 ぱっくりと裂いた花弁の中央から黒い水が噴水のように噴き出した。真面にタールを浴びてしまった頬が、額が熱い。焼ける。爛れる。咄嗟に目は閉じたが、じわりと染みてしまって片目に激痛が走った。
「か、は――っ!」
 噴き出した水に囚われる。どぷりと宙に浮いた水の珠に身体が沈み、今度は呼吸を封じられた。
 ――しまった。
 これを肺に入れてはいけない。息を吸うことはおろか、吐くことも叶わない。酸素は失われていく。黒い水は本当にタールのように重く、まるで拘束具でもかけられかのように刀を握った腕が上手く動かせない。
 ああ、まだ〝仕事〟が残っているというのに。
 〝仕事〟が。まだ、彼女に教えておくべきことが、残っているというのに。まだ。
 ――馬鹿か。
 お前の〝仕事〟はそうじゃないだろうが。お前の〝仕事〟は、〝役目〟を果たすことで、その〝役目〟をいずれは俺と同じような誰かに渡し、憎まれながらひとり死んでいくことで。そうでなければ、あの老人は報われない、わけで。
 酸素の足りない頭は馬鹿な妄想ばかりを吐き出す。どうして。何故。なんだって、こんなときに浮かんでくるのが、あの老人と過ごしたドイツの景色でも、修行に明け暮れた山陰の古寺でも、巡りに巡った世界中の景色でもないのだろう。浮かんでくるのは、出会って一年にも満たないイタリアの青空を背に振り返る少女の姿ばかりで。どうして。
 ――クソが。
 どうして、ここまで死にきれないだなんて、今さらなことを考えるんだ。
 重たい身体を無理矢理に動かし、懐を弄る。小型の手榴弾を探す。あまり使いたくはないがこの水を破ることができれば御の字。生き残るかは一か八かだ。
 覚悟を決めた、そのとき。水の幕越しに、くぐもった、それでも派手にガラスが割れるような音がした。
 〝聖母〟の真上の結界が破れている。その隙間から真っ直ぐに落ちてきた鮮やかなオレンジ色の塊が、〝聖母〟の項に向かって真っ白に輝くナイフを振り下ろした。〝聖母〟の悲鳴が轟き、身体が大きく振られ、俺が沈んでいた水の珠が弾ける。身体が投げ出される。受け身を取りながら地面に転がる。顔が焼けるように熱いが、身体も片目もまだ動く。必死で眼球を巡らせて、〝聖母〟の背に齧りつく小さな影を確認して、息が止まった。
 あれは。だって、あれは。
 ――何を、何をしている。一体、そんなところで何をしているんだ。
 不快感が、ずっと胸で燻り続ける不快感が喉元までせり上がる。
「――カノン!」
 ああ、本当にそんなところで何をやっているんだ。
 お前は今頃、あの丘の家で料理でもしているはずだろう。アルバート自慢の庭に作った竈でピッツァでも焼いて、寄り付いてくる犬や猫に囲まれて、たまに飛来する鳳凰の話し相手になって。光の世界で、陽光の恩寵を一身に受けて。
 それなのに、なんだってこんな光差さない場所で。タールの黒い雨の中で。何をしていると言うんだ。
 俺の叫びに答えることはなく、彼女は険しい顔で突き刺したナイフを握っていた。オレンジ色のレインコートに黒い雨が降り注ぐ。少女の白い頬が蜂蜜色の美しい髪が、タールに濡れていく。それでも彼女はナイフを離すことはせず、じっと〝聖母〟の背中に張り付いていた。
「……そう」
 吐息とともに吐き出された声は、異様なまでに静かだった。
「あなた、苦しくて、さびしかったのね」
 〝聖母〟が泣いている。慟哭するように甲高い声で、結界中に響き渡る悲鳴を上げる。
「うん。でも、もうおやすみの時間よ。大丈夫。すぐに深くゆっくりと眠れるから」
 ――待て、やめろ、何をする気だ。
 身体は軋んでいたが、刀にこびりついたタールを払って踏み込んだ。上手く力が入りきらずに随分と無様な体勢になった。けれど、そんなことどうでもいい。
 コーラルピンクの唇がすう、と最悪の大気を大きく吸い込んだ。謳うように、叫ぶように、とても美しく音域の広い声が発せられる。汚泥に塗れた空間に、一滴、透明な雫を落としたように波紋が広がる。大気が揺れ、水が震え、大地が涙を流す。〝聖母〟の身体がびくん、と大きく跳ねた。
『ああ。ああ、ああ、あ――』
 さらさらと、その身体が砂のように崩れていく。項に刺さったナイフの真っ白な刀身を黒く染め、その色を吸い込むように少女の手が、腕が、同じ色に染められていく。けほ、と少女が苦悶の表情を浮かべて咳をする。唾液に血が混じる。
 ああ、クソが。本当に、本当に――最悪だ。
 刀の切っ先で地面を削る。身体がどうなろうと知ったことか。もどかしく動かし憎い身体に命令する。どうでもいい。動け。俺などどうなってもいい。動けと、それだけ命令を下す。もう一度、波を分けて水を蹴る。
「いいことを教えてあげる」
 ぱしゃり、と跳ねた水はタールの重苦しさを持っていなかった。黒い不毛の大地が色を変える。その中をただ駆ける。
「もし、あなたに次があったなら」
 割れて裂いた薔薇の頭部。その裂けた奥を狙い、刀を正眼に構え。

「大好きな人がいるなら、こんなところで嘆いていないで、自分で迎えに行きなさい」

 今度こそ、内側の心臓部を目掛けて刺突を叩き込む。ぎん、と重たい命を砕く音がする。同時に少女から発せられた歌がその場を真っ白に染め上げた。
 見間違えでないのなら。黒い姿をした〝聖母〟の、顔のないはずの頭部から、一滴、朝露のような透明なものが滑り落ちたような気がした。


 陽の光が差している。タールのような黒い雨が止んでいる。大地を覆っていた汚泥のような水溜まりが、すべて澄んだ浅い水溜まりに変わっていて、足首程度が浸かる湖沼を生み出している。名残の瓦礫の模様が初めて見えた。白い美しい屋敷だったのだな、と初めて知る。
 黒く腐食して絡みついていた黒い蔓は消え、代わりに瑞々しい小さな芽が水面に煌めいている。その水面が約十年ぶりの光を受けて柔らかく揺れている。空の向こうではちちち、と名前も知らない鳥が鳴き、青い筋のある紋様の蝶がひらひらと舞っている。
 夢のような光景だった。そして、その夢のように美しい浅い湖沼の中央で、金糸の髪を散らして倒れ伏す少女。その姿を見て、今度こそ、本当に心臓が止まってしまうかと思った。
「カノン!」
 濡れそぼった彼女の身体を抱き起こす。指先は冷たいが身体自体はほのかに温かい。澄んだ水に浸かっていた髪が少女の頬に絡みついて、滴を零している。手を握ってみるが、その手はいつものまま。ほのかに色づいた爪と白い指に戻っていた。
 だが、睫毛は開かない。
「おい、目を開けろ! カノン!」
 状態もわからないのに身体を揺さぶるものではない。そんなこと、知識では知っていたはずなのに、すべて吹っ飛んでいた。ただ、あの人懐こい空より澄んだ碧眼が二度と見られないのが、それが。
 ――怖い。
 凡そ、初めて感じる感情だった。怖い。それが見られないのが、何より怖い。これほど恐ろしいことがこの世にあるか。ない。あってたまるか。
 懇願に近い俺の叫びを何度か聞いて、子どもがむずがるように、唇から小さく呻きが漏れた。眉が寄せられて薄く、静かに、ゆっくり瞼が持ち上がる。茫洋と宙を彷徨った碧い眼差しが、二度ほどの呼びかけでようやく焦点を結んで俺を見た。
 そうして、心の底から安堵したように、文字通り、花が綻ぶように笑った。
「よかった。顔も、目も、間に合った」
 か細い声が言った一言で、今さら両目の視力が回復していることに気がついた。どんな痕がついたところで仕方がないと割り切っていた顔面も。酸に焼けた痛みがない。湖沼に沈んでいた手が持ち上がって、俺の頬を撫でた。するりと、何の爛れもない皮膚がそこにあるのがわかった。
 ――要らない。
 そんなもの、要らない。綺麗な顔も、快適に動くような身体も。最初から望んでいない。
 ぎりぎりと不快感が心臓を締め上げる。喉元に熱が燻る。
「どうして、お前は……っ!」
 ――お前がこんなふうに犠牲になるくらいなら、そんなもの要らない。
 顔が爛れていたって、足が動かなくたって、視力を失ったって、そんなもの、要らない。
 それなのに、美しい少女は当然のように、むしろ嬉しそうに笑う。
「レンが何をしなきゃいけないか、とか。たぶん、半分もわかんないけど」
 わからなくていい。知らなくていい。お前を俺の運命に巻き込みたくない。そんな、花に叢雲を押しつけて永遠に光の下で咲かなくなるような真似、するべきじゃない。するべきじゃないんだ。
 だから。
「あたし、そんなに弱くないから。やっぱり離れてあげない」
 そんなことを、勝手に決めるんじゃない。
 頬に触れていた手がずるりと落ちて、そのまま俺のコートの裾を掴んだ。人混みでいつもそうするように。ただ逸れないようにするために。ぱちぱちと、金糸の睫毛が眠たげに上下する。
「でも、さすがに……疲れて……ごめ、ちょっと、ねむい……」
「おい、ふざけるな、勝手なことばかりを」
「んん……起きたら、いっぱい、怒られてもいい、から……ちょっと寝かせて……」
 そうして本当にすうすうと規則正しい寝息を奏で出した。不安に駆られるまま首元に手を遣る。脈はある。胸は上下している。けれど、それでも。
「あーあ。やっちまったなぁ」
 場違いに気怠くにやついた声がした。ぱしゃり、とブーツの踵が水溜まりを踏む。
 睨み上げる。真正面に、見下ろすようにして透明なレインコートを羽織った悪魔がけらけらと癇に障る声で笑っていた。
「自分のキャパシティを超えちまったか。散々、自分の手に負えねぇもんには手ぇ出すな、つってたのになぁ?」
「お前……っ!」
 レインコートのフードを払い、まるで平素と変わらぬ動作で悪魔は煙草に火をつける。ふう、と吐き出された煙が白い。白いとわかるほどに、澄んだ青が広がっている。
「まあ、心配いらねぇだろ。〝大元〟はお前が斬り飛ばしたおかげで、ソイツが全部を引き受けずに済んだ。しばらく寝てりゃ食い過ぎた瘴気も消化されるってもんだ」
 くつくつと、喉の奥で心底、楽しそうに笑う。
 不快だ。
 不快で、不愉快で、不可解で。
「いつまで笑っている」
「ふん……?」
 とても、我慢ができない。限界まで肺に空気を取り込み、喉元まで競り上がった不快な感情を、一気に吐き出した。

「コイツは、お前の、妹だろうがっ!」

 ああ、そうか。理解する。
 出会ったときから胸に、腹の底に、溜まっていった不快感。ずっとこれが何なのか理解できないでいた。理解できなくて当然だった。それは、俺のような存在が持っていていいものではなかったから。とうの昔にあのドイツの灯台か、もしくは母の腹の中に置いてきたはずのものだったから。
 これは、この不快なものは、紛れもなく――怒りだった。
 どいつもこいつも。どうして、何故、この少女に妙なものばかり押し付けるのだ。地球(ほし)も、兄であるはずのお前も、俺自身も。どうして、普通に生きて普通の幸福を授けられるべき少女に、こんな〝余計〟なことばかり。許さない。許せない。ふざけるな。そんなものが運命だと宣うのなら、俺はそんなもの認めない。
 絞り出すように吐き出した俺の声を聞いた悪魔は、わずかに目を見開いた。珍しい表情だった。素直に驚いた。そんな表情だった。そう思えば、煙草を咥えた口の端を歪めて、心から可笑しそうに一笑する。その笑いが、耳に障って、何を笑っているのか、理解できなくて。
「何を笑って……っ!」
「お前」
 引き抜かれた煙草の燃える火を、指先代わりに突き付けられる。
「まだ他人のために怒れるじゃねぇか。そうしてる方が、気に食わねぇ面が多少はマシに見えるってもんだ」
「は……っ?」
「そうだな。妹だ。だからなんだ? 一生、面倒みろとでも? 馬鹿を言っちゃあいけねぇ。俺には俺の人生を歩く権利がある。ソイツがソイツの人生を歩く権利があるのと同じようにな」
「……っ!」
「そんなわけだ。ソイツはお前にくれてやるよ。ま、最初から俺のもんでも何でもねぇけどな」
 言いたいことを言いきったのだろう。悪魔は踵を返し、白く青く染まった景色の中を悠々と去っていく。波紋がぱしゃぱしゃと広がっては消える。さも最初からそうでしたよとばかりに、綺麗な湖沼が生命の息吹に微笑んでいる。
 俺はと言えば、情けないことにしばらくの間、動けずにいた。ぐずぐずしていたらいつ調査員が来るとも知れないだとか。眠っているだけとはいえ身体の冷える場所から移さなければだとか。もっともらしいことはいくらでも出てくるのに、この数十分の間で受けた数多の衝撃から立ち直れずにいた。
 長らく、本当に長らく、止まっていた感情の波を、いきなり揺さぶられたものだから。何をどう受け止めて処理すればいいのか、わからないままだったのだ。
「……くれてやる、と言ったって」
 ――そんな単純な話じゃないだろう。
 自らが造り出した湖沼に浸かりながら。ついでに俺のコートを掴んだまま。実に満足そうにすやすやと眠る少女のあどけない寝顔を見つめ、どうにかこうにか、そんなことを考えた。


 先が見えていたはずの人生が、先の見えない藪の中に突き落とされたような瞬間だった。
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