2009/11/03first
03/19
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11/07
2009
【二、狗の足跡(中)】
その日の帰り道は、偶然にも一人だった。
たまたま悠も蒼牙も都合があって、一人だけの帰り道になった。悠は部活、蒼牙は仕事。何だか久しぶりの一人の帰り道だった。
人込みな苦手な桜は、自然と静かな道を通る。そんな帰り道には決って、
「あんっ」
――あ。
散歩中のシベリアンハスキーが、元気に鳴いて、ハーネスを引く主人に甘えていた。
「こーら、だめでしょ。きーちゃん」
ハーネスを握っていた少女は、怒っている割に笑顔で大きな犬の頭をわしわしと撫でる。思わず小さな笑みが浮かんだ。
――ちょっと、いいな。
犬は好きだが、飼うことは許されていなかった。飼えないマンションだとか、規則だなんてことはないが、身体の弱い桜を慮っての兄の言葉だった。アレルギーがあるわけではないのだが、犬に限らず、動物はお世辞にも衛生的とは言えないからだろう。
――大丈夫なんだけどな……。
「あんっ」
「ほら、行くよー」
ハーネスの少女が軽く繋いだ紐を引くと、犬は嬉しそうに少女の影を追っていった。
「犬……」
そういえば。
この間、珍しく商店街を通ったときのことを思い出した。犬のぬいぐるみが入ったクレーンゲーム。
――……取れたりしないだろうけど。
もう一回、見てみたいかもしれない。
「……大丈夫だよね。外からちょっと見るくらい」
中に入らなければ、空気も悪くないだろうし、すぐ商店街を出てしまえば気分も悪くならないだろう。
「……最近は調子もいいし、大丈夫だよね」
小さく頷いて、桜はつま先をいつもとは違う方向に向けた。
やる気のない犬のぬいぐるみは、相変わらずそこにあった。
「……う」
心なしか、この間より奥の、取りづらそうな位置にある。取りやすそうな位置にあっても難しいのに。
「……」
財布の中身をちらり、と見る。見て、溜め息を吐いて、また鞄の中にしまった。
――無理だよね、こんな、
「取ってあげようか?」
「え?」
聞きなれない、でも聞いた覚えのある声が後ろからした。
「あ、こ、この間は……」
「こんにちは」
アクアオーラ・ホワイトの髪に、黒いヘッドホンの少年が、ゆるい笑顔を浮かべて立っていた。今日は白いYシャツにグレイのブレザー。高校生なんだろうか。まだ真新しい学生鞄を提げている。
反射的に身体が強張って、何を返せばいいのかわからなくなる。とりあえず、慌てて頭を下げてこんにちは、と返す。
「ふーん。割といやらしい配置だねぇ」
「あ、あの……っ?」
のんびりとそう言いながら、桜の横を通って少年はクレーンゲームのガラスをとんとん、と叩いた。藤色の瞳を細めてから、ポケットの中から出した小銭を、躊躇せず、ちらちらと動く画面脇のコイン投入口に入れてしまう。
「あ……」
――そんな、簡単に……
そう言おうとした桜を横目に、少年は鼻歌さえ歌いながら、クレーンを動かした。
「SIGAのクレーンは弱いんだよなぁ。まあ、あれくらいの重心なら」
「え? あ……!」
重たげな犬のぬいぐるみがゆらゆらと持ち上がった。空中でぴたりと止まって、そのまま危なげなく穴に落ちていく。がこん、という音と共に取り出し口が開いた。
「はい」
「え、え、で、でも……っ」
事も無げに摘み上げた犬のぬいぐるみが、目の前に差し出される。ぱっ、と少年が手を離してしまったので、慌てて掴む。
「あ、お、お金……っ!」
「100円くらいでケチケチするような人間じゃないよ。ゲームは損得じゃあないし」
にへら、と笑って残っていた1回で手に填めるタイプの操りぬいぐるみを落とす。少し縦に潰れた感じのアマガエル。自分の手に填めて、ぱくぱく動かしながら、「確かカエル好きなのは桐ちゃんだっけ」と呟いている。
「あ、あの、で、でも、こんなもの……」
「大丈夫だよ。僕、物で釣るタイプの人攫いとかじゃないから」
「え、ええと、そうじゃなくて……っ!」
「んー?」
カエルをぱくぱくと遊ばせながら、少年は何か考える。しばらくの間の後に、ふいににぱ、と笑って、
「じゃあ、おにーさんのお願い、一つ聞いてくれる?」
「……?」
商店街を抜けて、小さな土手まで歩いて、ようやく少年は立ち止まった。
あまり速くない流れの川に、小石だらけの川辺と堤防。葦の新芽がぼうぼうと無差別に生えて、傾斜の緩やかな青い下生えの土手が広がっていた。人通りはあまりない、静かな場所だ。
普段なら好きな場所だった。けれど、今は少しだけ緊張する。
「あ、あの……?」
「ふぁ~あ」
少年は不意に鞄を投げ出して、土手の上に寝転がった。ばさり、と枯れ葉が舞う。
「あ、あの……っ?」
「あれ、好きじゃない? こーゆー場所」
「そ、そうじゃないですけど……お、お願いって……」
「ん~、ああ、そうそう。ちょっと待ってね」
一度、投げ捨てた鞄を引き寄せて、中をごそごそと漁る。取り出したのは、普通の高校生には少々似つかわしくない、絹布の小袋だった。ぱちり、と口のボタンをはずして、少年は中のものを摘みあげる。
「……あ」
中から出てきたのは、あのとき桜が見ていた赤糸の髪飾りだった。でも今は、かすかに青い灯火が飾りを包んでいる。
「それ……」
「おいで、てんちゃん」
おぉぉぉんっ!
「!」
雄たけびのような霊叫が耳を貫いた。きん、という音と共に目が眩むような光が一瞬、辺りを覆う。思わず桜はしゃがみこんで目を閉じる。
「な、何を……」
くんくん。
「……え?」
肘の袖を引かれた。どこかで感じたような感覚。おそるおそる目を開ける。
『あおん!』
「え……?」
目の前で、大きな長い毛の犬が、嬉しそうに舌を出して尻尾を振っていた。犬種はわからない。見たことはないけれど、日本種と似た顔をしている。その割に耳は大きく、ふさふさの尻尾は3本生えている。
「え……きゃっ」
『あんっ、あおん!』
子供より大きな身体をふりふりと動かして、犬は桜の周りを一周した。あおん、と嬉しそうに鳴いて、また桜のスカートの裾をくいくいと引っ張る。
「ち、ちょっと、待って、あ、あの……っ?」
「あははー。てんちゃん、ご機嫌だねー」
すりすりと頭を寄せてくる犬に困って、少年に助けを求める。だが、少年はゆるい笑顔のまま、どさり、とその場に寝転がるだけだ。
「あ、あのっ!」
『きゅうん…』
犬の耳が垂れ下がった。上目遣いの黒い目が、駄目? と聞いてきている気がする。
「え、ええ……?」
「その子がね、さっちゃんと遊びたいんだって」
「え……」
『あおん!』
少年――確か、月城豊という名前だった気がする――の言葉に、犬は再び元気そうに鳴いた。
「この間、店に来てくれたでしょ。そのときに一目惚れしたんだって。
名前は夷天。てんちゃん、ていうんだ。よろしくね」
「ひ、ひと……?」
『わおん!』
「あ、ち、ちょっと待って……、きゃっ!」
犬――夷天は桜の袖を引きながら、唐突に駆け出した。急に走り出したものだから、足がもつれる。
「きゃあ!」
すてんっ
「へぷっ」
案の定、尻餅をついた。下が柔らかい新芽の下生えだったから、怪我はなかった。が、やっぱりちょっとお尻が痛い。
「いたい……」
『あおん!』
「もう……めっ!」
『あおーん……』
しゅうん、と夷天は耳を垂れさせた。ぺろぺろと謝るように手を舐めてくる。
「ふふ、大丈夫だよ。ええと……いてんちゃん、ていうの?」
『あおん! おん!』
「ええと……一緒に、遊びたいの?」
『あおん!』
夷天は嬉しそうにまた尻尾を千切れんばかりに振った。何だか微笑ましく見えてきて、くすり、と笑いを漏らす。
「……うん、いいよ。あそ……」
『わんっ!』
「きゃあ!」
皆まで言うより先に、また袖を引っ張られた。今度は転ばずに、何とか耐える。そのまま駆け出した夷天に引きずられるようにして、桜は土手に飛び出した。
『わおん』
「はぁ、はぁー……」
しばらくして、土手にしゃがむと夷天は今度は気遣うように寄ってきた。乱れた息を整えて、心配そうに見上げてくる犬の頭を撫でてやる。
「だ、だいじょうぶ……。はあ、こんなに走ったの、久しぶりだから……」
そうやって笑いかけると、夷天は元のように元気にあおん、と鳴いた。
「お疲れ様」
「あ……」
目の前に、汗を掻いた烏龍茶の缶が突き出された。それを見て、初めて喉がからからなのを知る。
「ジュースよりお茶の方がよかったんだよね」
「あ、ありがとうございます……」
そういえば、この間、お茶をしたときに出された宇治茶が好みだと言った気がする。桜がおそるおそる受け取ったのを見ると、豊はまたのったりと笑うと自分はコーラの缶を開けた。
桜は数秒、缶を眺めた後に、
かつっ。
「ん……」
かつっ。
「んん……」
かつっ。かつっ。かつっ、かつっ、かつかつかつかつっ……。
「……」
横から眺められているのに気が付いて、思わず桜は赤面した。ぷっ、と小さく噴き出した豊に、さらに赤くなる。
「わ、笑わないでくださいっ。その、ほんのちょっと苦手なだけで……っ、で、できるんですよ、ちゃんと……っ」
「そーじゃなくて」
豊はくすくす笑いながら桜の手から烏龍茶の缶を取った。ぷしゅり、と汗の掻いた缶を開けて、再び手渡してくれる。
「あ、あの……」
「苦手なら言えばいいのに。そんな格闘しなくたって」
「す、すいません。あ、ありがとうございます……」
舌の上に流れてくる冷たい烏龍茶が、痛いほどに喉を潤してくれる。飲み物がこんなに美味しく感じたのは久しぶりな気がする。
「運動すると、ただの缶のお茶でも美味しいでしょ」
「あ、は、はい……。こんなに走ったの久しぶりで……何だかとても美味しいです」
自然と笑みが漏れた。何だかとても身体の中がすっきりしている。
「夷天のおかげね。ありがとう、夷天」
『あおん!』
桜は嬉しそうに鳴く夷天の首元を撫でた。ふるふると身体を振るわせる夷天。だが、
――あれ……?
「夷天、ちゃん……?」
『あおん?』
「この傷……」
太い首に、ふさふさの毛に隠れて大きな傷が付いている。大きな傷。撫でても夷天は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「いたく、ないの……?」
『あおん♪』
夷天は平気そうな顔で尻尾を振った。
「あの、月城、さん……。この子の首……」
「んー? ああ、その子は犬神になりきれなかった霊だからね」
「犬神……」
「犬神の作り方って知ってる? 犬を頭だけ出して生き埋めにして、餓死させた後に首を刈る。その犬の怨念が犬神になる」
「……」
桜は息を呑んで夷天を見た。夷天はまた不思議そうに首を傾げた。
「夷天は怨念を持たなかった。だから犬神にならずに済んだ」
「どうして……?」
豊はにこり、と微笑んだ。夷天があおん、と応えるように鳴く。
「そんなことより、大切なものがあったから」
「……」
「この髪飾りはね、てんちゃんの一番、最初の主様の宝物だったんだって」
「いちばん、最初の……」
「てんちゃんにとっては、犬神にした人間を呪うより、その子を守ることの方が大事だったんだね」
「……」
『あおん!』と夷天はもう一度鳴いた。ふりふりと、屈託なく尻尾を振っている。桜はその頭に手を伸ばして、何度も撫でた。首元に手を添えて、もう一度撫でた。
「……えらかったね、おまえ」
『あおん? わうっ』
夷天はもう一度、首を傾げたが、次の瞬間には嬉しそうに吠えていた。
「君がその一番最初の主様にそっくりだったんだって」
「私、が?」
「うん。だから、一緒に遊びたくなったんだってさ」
『あおん!』
急に夷天が逆の方向に走り出した。あっ、と思っている間に、草むらにごそごそと首を突っ込んでから、風のような速さで返ってくる。
『あおん!』
「え……?」
「シロツメクサだね。もらって、って。遊んでもらえて嬉しかったみたいだね」
「……」
『あおん!』
「笑ってね、だって」
口元に引っ掛けた花を、そっと取る。千切った後はないから、何かの拍子に折れてしまった花なんだろう。握り締めないように手の中に収めて、桜はもう一度、夷天の頭を撫でた。
「ありがとうね、夷天。押し花にして、大事にするね」
『わうんっ』
夷天はもう一度吠えて、ゆっくりと燐光を纏った。とても綺麗な青い燐光。やがて姿が薄れ、シルエットだけが浮かんで。豊が赤い紐飾りを掲げた瞬間に、篝火となって吸い込まれるように消えた。
「……」
「ちょっと遅くなっちゃったねえ。ごめんね。暗くなる前に帰ろうか」
「月城さん、あの……」
「ん?」
「夷天、ちゃんに……あの……」
上手く声が出せなかった。もどかしく思いながら、人馴れしない喉と身体を奮い立たせる。
「私も、楽しかった、って……その、伝えてくれませんか?」
「うん。それなら良かった。さっちゃん」
「?」
緊張の喉で言って、首を傾げた。豊は少し傾きかけた日の逆光の中で、にぱり、と笑ってみせた。
「てんちゃんをよろしくね」
「……?」
「さ、早く帰ろうか」
豊はそれだけ言うと、鞄を担いで土手を登り始めた。桜は川の上流の日が、思ったより傾いているのを見つけて、慌ててその後を追った。春の少し寂しい風が、葦の間を通り抜けて、ひゅい、と鳴いた。
※白詰草…花言葉:約束
たまたま悠も蒼牙も都合があって、一人だけの帰り道になった。悠は部活、蒼牙は仕事。何だか久しぶりの一人の帰り道だった。
人込みな苦手な桜は、自然と静かな道を通る。そんな帰り道には決って、
「あんっ」
――あ。
散歩中のシベリアンハスキーが、元気に鳴いて、ハーネスを引く主人に甘えていた。
「こーら、だめでしょ。きーちゃん」
ハーネスを握っていた少女は、怒っている割に笑顔で大きな犬の頭をわしわしと撫でる。思わず小さな笑みが浮かんだ。
――ちょっと、いいな。
犬は好きだが、飼うことは許されていなかった。飼えないマンションだとか、規則だなんてことはないが、身体の弱い桜を慮っての兄の言葉だった。アレルギーがあるわけではないのだが、犬に限らず、動物はお世辞にも衛生的とは言えないからだろう。
――大丈夫なんだけどな……。
「あんっ」
「ほら、行くよー」
ハーネスの少女が軽く繋いだ紐を引くと、犬は嬉しそうに少女の影を追っていった。
「犬……」
そういえば。
この間、珍しく商店街を通ったときのことを思い出した。犬のぬいぐるみが入ったクレーンゲーム。
――……取れたりしないだろうけど。
もう一回、見てみたいかもしれない。
「……大丈夫だよね。外からちょっと見るくらい」
中に入らなければ、空気も悪くないだろうし、すぐ商店街を出てしまえば気分も悪くならないだろう。
「……最近は調子もいいし、大丈夫だよね」
小さく頷いて、桜はつま先をいつもとは違う方向に向けた。
やる気のない犬のぬいぐるみは、相変わらずそこにあった。
「……う」
心なしか、この間より奥の、取りづらそうな位置にある。取りやすそうな位置にあっても難しいのに。
「……」
財布の中身をちらり、と見る。見て、溜め息を吐いて、また鞄の中にしまった。
――無理だよね、こんな、
「取ってあげようか?」
「え?」
聞きなれない、でも聞いた覚えのある声が後ろからした。
「あ、こ、この間は……」
「こんにちは」
アクアオーラ・ホワイトの髪に、黒いヘッドホンの少年が、ゆるい笑顔を浮かべて立っていた。今日は白いYシャツにグレイのブレザー。高校生なんだろうか。まだ真新しい学生鞄を提げている。
反射的に身体が強張って、何を返せばいいのかわからなくなる。とりあえず、慌てて頭を下げてこんにちは、と返す。
「ふーん。割といやらしい配置だねぇ」
「あ、あの……っ?」
のんびりとそう言いながら、桜の横を通って少年はクレーンゲームのガラスをとんとん、と叩いた。藤色の瞳を細めてから、ポケットの中から出した小銭を、躊躇せず、ちらちらと動く画面脇のコイン投入口に入れてしまう。
「あ……」
――そんな、簡単に……
そう言おうとした桜を横目に、少年は鼻歌さえ歌いながら、クレーンを動かした。
「SIGAのクレーンは弱いんだよなぁ。まあ、あれくらいの重心なら」
「え? あ……!」
重たげな犬のぬいぐるみがゆらゆらと持ち上がった。空中でぴたりと止まって、そのまま危なげなく穴に落ちていく。がこん、という音と共に取り出し口が開いた。
「はい」
「え、え、で、でも……っ」
事も無げに摘み上げた犬のぬいぐるみが、目の前に差し出される。ぱっ、と少年が手を離してしまったので、慌てて掴む。
「あ、お、お金……っ!」
「100円くらいでケチケチするような人間じゃないよ。ゲームは損得じゃあないし」
にへら、と笑って残っていた1回で手に填めるタイプの操りぬいぐるみを落とす。少し縦に潰れた感じのアマガエル。自分の手に填めて、ぱくぱく動かしながら、「確かカエル好きなのは桐ちゃんだっけ」と呟いている。
「あ、あの、で、でも、こんなもの……」
「大丈夫だよ。僕、物で釣るタイプの人攫いとかじゃないから」
「え、ええと、そうじゃなくて……っ!」
「んー?」
カエルをぱくぱくと遊ばせながら、少年は何か考える。しばらくの間の後に、ふいににぱ、と笑って、
「じゃあ、おにーさんのお願い、一つ聞いてくれる?」
「……?」
商店街を抜けて、小さな土手まで歩いて、ようやく少年は立ち止まった。
あまり速くない流れの川に、小石だらけの川辺と堤防。葦の新芽がぼうぼうと無差別に生えて、傾斜の緩やかな青い下生えの土手が広がっていた。人通りはあまりない、静かな場所だ。
普段なら好きな場所だった。けれど、今は少しだけ緊張する。
「あ、あの……?」
「ふぁ~あ」
少年は不意に鞄を投げ出して、土手の上に寝転がった。ばさり、と枯れ葉が舞う。
「あ、あの……っ?」
「あれ、好きじゃない? こーゆー場所」
「そ、そうじゃないですけど……お、お願いって……」
「ん~、ああ、そうそう。ちょっと待ってね」
一度、投げ捨てた鞄を引き寄せて、中をごそごそと漁る。取り出したのは、普通の高校生には少々似つかわしくない、絹布の小袋だった。ぱちり、と口のボタンをはずして、少年は中のものを摘みあげる。
「……あ」
中から出てきたのは、あのとき桜が見ていた赤糸の髪飾りだった。でも今は、かすかに青い灯火が飾りを包んでいる。
「それ……」
「おいで、てんちゃん」
おぉぉぉんっ!
「!」
雄たけびのような霊叫が耳を貫いた。きん、という音と共に目が眩むような光が一瞬、辺りを覆う。思わず桜はしゃがみこんで目を閉じる。
「な、何を……」
くんくん。
「……え?」
肘の袖を引かれた。どこかで感じたような感覚。おそるおそる目を開ける。
『あおん!』
「え……?」
目の前で、大きな長い毛の犬が、嬉しそうに舌を出して尻尾を振っていた。犬種はわからない。見たことはないけれど、日本種と似た顔をしている。その割に耳は大きく、ふさふさの尻尾は3本生えている。
「え……きゃっ」
『あんっ、あおん!』
子供より大きな身体をふりふりと動かして、犬は桜の周りを一周した。あおん、と嬉しそうに鳴いて、また桜のスカートの裾をくいくいと引っ張る。
「ち、ちょっと、待って、あ、あの……っ?」
「あははー。てんちゃん、ご機嫌だねー」
すりすりと頭を寄せてくる犬に困って、少年に助けを求める。だが、少年はゆるい笑顔のまま、どさり、とその場に寝転がるだけだ。
「あ、あのっ!」
『きゅうん…』
犬の耳が垂れ下がった。上目遣いの黒い目が、駄目? と聞いてきている気がする。
「え、ええ……?」
「その子がね、さっちゃんと遊びたいんだって」
「え……」
『あおん!』
少年――確か、月城豊という名前だった気がする――の言葉に、犬は再び元気そうに鳴いた。
「この間、店に来てくれたでしょ。そのときに一目惚れしたんだって。
名前は夷天。てんちゃん、ていうんだ。よろしくね」
「ひ、ひと……?」
『わおん!』
「あ、ち、ちょっと待って……、きゃっ!」
犬――夷天は桜の袖を引きながら、唐突に駆け出した。急に走り出したものだから、足がもつれる。
「きゃあ!」
すてんっ
「へぷっ」
案の定、尻餅をついた。下が柔らかい新芽の下生えだったから、怪我はなかった。が、やっぱりちょっとお尻が痛い。
「いたい……」
『あおん!』
「もう……めっ!」
『あおーん……』
しゅうん、と夷天は耳を垂れさせた。ぺろぺろと謝るように手を舐めてくる。
「ふふ、大丈夫だよ。ええと……いてんちゃん、ていうの?」
『あおん! おん!』
「ええと……一緒に、遊びたいの?」
『あおん!』
夷天は嬉しそうにまた尻尾を千切れんばかりに振った。何だか微笑ましく見えてきて、くすり、と笑いを漏らす。
「……うん、いいよ。あそ……」
『わんっ!』
「きゃあ!」
皆まで言うより先に、また袖を引っ張られた。今度は転ばずに、何とか耐える。そのまま駆け出した夷天に引きずられるようにして、桜は土手に飛び出した。
『わおん』
「はぁ、はぁー……」
しばらくして、土手にしゃがむと夷天は今度は気遣うように寄ってきた。乱れた息を整えて、心配そうに見上げてくる犬の頭を撫でてやる。
「だ、だいじょうぶ……。はあ、こんなに走ったの、久しぶりだから……」
そうやって笑いかけると、夷天は元のように元気にあおん、と鳴いた。
「お疲れ様」
「あ……」
目の前に、汗を掻いた烏龍茶の缶が突き出された。それを見て、初めて喉がからからなのを知る。
「ジュースよりお茶の方がよかったんだよね」
「あ、ありがとうございます……」
そういえば、この間、お茶をしたときに出された宇治茶が好みだと言った気がする。桜がおそるおそる受け取ったのを見ると、豊はまたのったりと笑うと自分はコーラの缶を開けた。
桜は数秒、缶を眺めた後に、
かつっ。
「ん……」
かつっ。
「んん……」
かつっ。かつっ。かつっ、かつっ、かつかつかつかつっ……。
「……」
横から眺められているのに気が付いて、思わず桜は赤面した。ぷっ、と小さく噴き出した豊に、さらに赤くなる。
「わ、笑わないでくださいっ。その、ほんのちょっと苦手なだけで……っ、で、できるんですよ、ちゃんと……っ」
「そーじゃなくて」
豊はくすくす笑いながら桜の手から烏龍茶の缶を取った。ぷしゅり、と汗の掻いた缶を開けて、再び手渡してくれる。
「あ、あの……」
「苦手なら言えばいいのに。そんな格闘しなくたって」
「す、すいません。あ、ありがとうございます……」
舌の上に流れてくる冷たい烏龍茶が、痛いほどに喉を潤してくれる。飲み物がこんなに美味しく感じたのは久しぶりな気がする。
「運動すると、ただの缶のお茶でも美味しいでしょ」
「あ、は、はい……。こんなに走ったの久しぶりで……何だかとても美味しいです」
自然と笑みが漏れた。何だかとても身体の中がすっきりしている。
「夷天のおかげね。ありがとう、夷天」
『あおん!』
桜は嬉しそうに鳴く夷天の首元を撫でた。ふるふると身体を振るわせる夷天。だが、
――あれ……?
「夷天、ちゃん……?」
『あおん?』
「この傷……」
太い首に、ふさふさの毛に隠れて大きな傷が付いている。大きな傷。撫でても夷天は不思議そうに首を傾げるだけだった。
「いたく、ないの……?」
『あおん♪』
夷天は平気そうな顔で尻尾を振った。
「あの、月城、さん……。この子の首……」
「んー? ああ、その子は犬神になりきれなかった霊だからね」
「犬神……」
「犬神の作り方って知ってる? 犬を頭だけ出して生き埋めにして、餓死させた後に首を刈る。その犬の怨念が犬神になる」
「……」
桜は息を呑んで夷天を見た。夷天はまた不思議そうに首を傾げた。
「夷天は怨念を持たなかった。だから犬神にならずに済んだ」
「どうして……?」
豊はにこり、と微笑んだ。夷天があおん、と応えるように鳴く。
「そんなことより、大切なものがあったから」
「……」
「この髪飾りはね、てんちゃんの一番、最初の主様の宝物だったんだって」
「いちばん、最初の……」
「てんちゃんにとっては、犬神にした人間を呪うより、その子を守ることの方が大事だったんだね」
「……」
『あおん!』と夷天はもう一度鳴いた。ふりふりと、屈託なく尻尾を振っている。桜はその頭に手を伸ばして、何度も撫でた。首元に手を添えて、もう一度撫でた。
「……えらかったね、おまえ」
『あおん? わうっ』
夷天はもう一度、首を傾げたが、次の瞬間には嬉しそうに吠えていた。
「君がその一番最初の主様にそっくりだったんだって」
「私、が?」
「うん。だから、一緒に遊びたくなったんだってさ」
『あおん!』
急に夷天が逆の方向に走り出した。あっ、と思っている間に、草むらにごそごそと首を突っ込んでから、風のような速さで返ってくる。
『あおん!』
「え……?」
「シロツメクサだね。もらって、って。遊んでもらえて嬉しかったみたいだね」
「……」
『あおん!』
「笑ってね、だって」
口元に引っ掛けた花を、そっと取る。千切った後はないから、何かの拍子に折れてしまった花なんだろう。握り締めないように手の中に収めて、桜はもう一度、夷天の頭を撫でた。
「ありがとうね、夷天。押し花にして、大事にするね」
『わうんっ』
夷天はもう一度吠えて、ゆっくりと燐光を纏った。とても綺麗な青い燐光。やがて姿が薄れ、シルエットだけが浮かんで。豊が赤い紐飾りを掲げた瞬間に、篝火となって吸い込まれるように消えた。
「……」
「ちょっと遅くなっちゃったねえ。ごめんね。暗くなる前に帰ろうか」
「月城さん、あの……」
「ん?」
「夷天、ちゃんに……あの……」
上手く声が出せなかった。もどかしく思いながら、人馴れしない喉と身体を奮い立たせる。
「私も、楽しかった、って……その、伝えてくれませんか?」
「うん。それなら良かった。さっちゃん」
「?」
緊張の喉で言って、首を傾げた。豊は少し傾きかけた日の逆光の中で、にぱり、と笑ってみせた。
「てんちゃんをよろしくね」
「……?」
「さ、早く帰ろうか」
豊はそれだけ言うと、鞄を担いで土手を登り始めた。桜は川の上流の日が、思ったより傾いているのを見つけて、慌ててその後を追った。春の少し寂しい風が、葦の間を通り抜けて、ひゅい、と鳴いた。
※白詰草…花言葉:約束
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