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bambola fortunata 4 R-15
 

 ヤニの匂いがする煙が、そこらかしこの空気に溶けている。BGMはムラのあるジャズ。それも壊れかけのスピーカーなせいか、どうにも具合がよくない。
 喉に流すワインは焼くだけ喉を焼いて、不快感だけを残して胃に落ちていく。

 思えば酒が美味いと思ったことがあっただろうか。ない気がする。アルコールのメリットはやはり、理性ある自我の喪失なんだろう。
 人間が最も金を出すのは快楽だ。だから酒場からも、カジノからも、娼館からも、人が消えることはない。

「本当に不味そうに飲むな、てめぇはよ」
「……旦那は美味そうに飲むな」
「当たりめぇよ。酒は楽しく飲むもんだ。しけた面で飲むもんじゃねぇさ」

 そう言って喉の焼けそうなブランデーを、水も氷も入れずにかっ喰らう。楽しそうにおかわりを頼むサルヴァトーレを、アルは恨みがましい目で見てから、また不味いワインを口にした。

「酒の味は大人にしか分かれねぇ、っていうからな」
「……俺はもう子供じゃないぞ」
「25にもなってふらふらしてる男が、生意気なこと言うんじゃねぇや。そういう台詞は女の一人も孕ませて、守るガキの一人でも作ってから言うんだな」

 ヤニに汚れた歯を見せながら、サングラスの合間から陽気に笑う。照明はゆらゆらと揺れるランプくらいしかないというのに、暗闇と泥が似合いそうな風体だというのに、ひどく不似合いにも見える。

「……それで? 贋作の依頼はこの間、請け負ったばっかりだろう」
「撒いたエサに喰らいついてきた野郎が、とぼけた台詞吐いてんじゃねぇよ。
 カルカッシ出入りのガキが気になるんだろ? 昔からお前はガキに甘ぇからな」
「あんたも同じだろう。仕事一つ、まともに取れなかった世渡り下手な俺に、仕事を回して渡り方を叩き込んでくれた」
「先行投資、ってヤツさ。おい、余計な話で逸らそうとするんじゃねぇよ。
 それともお前、あのガキに惚れたか」

 剣呑な視線に変わったアルの目線に、サルヴァトーレはくつくつと苦笑いをする。

「別に笑わねぇよ? あのガキ欲しさに、てめぇの叔父君に媚売ってるヤツや、金積んでるヤツなんざ吐いて捨てるほどいるさね」
「……何だって?」

 懐から出した葉巻にジッポライターで火を付けながら、サルヴァトーレは切れ長の狐目をさらに細めた。

「知らないのか? 財界でも有名だぜ、あのガキは。
 あのガキがファウストの周りをうろうろし始めたのが2年前、ファウストが財界で一発当てて、今の地位を手に入れたのも2年前だ」
「……っ」
「あのガキはただファウストのカジノのイカサマの種ってだけじゃねぇ。文字通り、『幸運』の象徴、ヤツの脳みそも同然だ。
 頭のいいヤツはただの幸運じゃねぇことくらい察するさ。次にやることは何か。単純だ。そいつを手に入れようとするに決まってる。
 ただファウストにとっては『金の成る木』だ。どれだけ札束を積まれても譲ろうとはしなかった」
「……あの子供は一体何なんだ? 本当にあいつの親戚なわけないだろう?」
「……ガキさ。ただのガキだ」

 ヤニの匂い立ち上る葉巻を唇から外し、濃い煙を吐き出す。スピーカーが不協和音を奏でた。

「素性も何もねぇ。スラムの中から明日生きるための金を欲して這いずってきた、ただの孤児だ。
 ただガキには綺麗な面と抜群の脳みそがあった。ファウストはそれに目ぇつけたのさ」
「……」
「ひでぇと思うか? だが、あのガキにとっちゃ、お宅の叔父君は飯の種で、恩人てわけだ」
「……例えそうでも、相手は子供だぞ。やり方ってやつがあるだろ。
 ガキ一人食わせる金なんて、いくらでも出て来るはずだ。そんな商売道具みたいに……」
「そうだな。ただの商売道具、ってだけじゃねぇ」
「……?」

 含みのある物言いでサルヴァトーレは、ちらりとアルを見た。唇の端がつりあがる。

「お前は昼にしか屋敷に顔出さねぇからな」
「どういうことだ……?」

 サルヴァトーレは銀に光る腕時計をちらりと見やった。釣られるようにして、客が2人しかいない狭い酒屋の、汚い時計を見る。
 短い針が10を指していた。

「まだ多少、早いか」
「何のことだ?」
「……」

 初めてサルヴァトーレの顔から表情が消えた。二度三度、葉巻を離して煙を吐き出すと、気だるそうに頭を掻く。

「アルバート。お前、もう少し汚れる必要がある」
「……どういう意味だよ」
「這いずって生きてる奴らを見るべきだ。何、それで大人になれたぁ言わないさ。
 ただな……」

「いつまでもふらふらしてねぇで、てめぇの生き方、はっきりさせろや」


 
 日付の変わる頃に屋敷を訪れたのは初めてだった。けれどさすがというべきか、常昼のカジノのオーナーである叔父の屋敷からは、明かりが消えることはないようだ。
 掲げられた街灯の下、門をくぐり、暗い前庭を歩いていると何か悪いことでもしているような気分になる。

 呼び鈴を押すと、いつも通りの顔色の悪い執事が、幽霊のように出迎えてくれた。予想通り、あまりいい顔はしてくれない。ただでさえ、立場は弱いのにこんな夜更けに訪れたら尚更だ。

「……何用ですかな」
「ちょっと忘れものをしたんだ。ついでだから叔父君にも挨拶していくよ。どこにいる?」
「……」

 サルヴァトーレが残していった通りの台詞を言ってみる。執事の乾いた表情が、ほんの少しだけ動いた。

「……旦那様は取り込み中で御座います。お部屋の物をお持ちになって、お帰りくださいませ」
「こんな夜更けに? 急な来客か? それとも50も過ぎた体でお楽しみですか?」
「……下世話を申されますな」
「冗談だよ。おっかない顔しないでくれ」

 アルが観念するように両手をあげると、死んだような目の執事はそろそろと廊下の向こうへ帰っていった。アルは肩を竦めて、玄関ホールの階段を上がる。

 住み込みよりも通いの使用人が多い屋敷では、夜中の廊下はしん、と不気味に静まっていた。アルは鍵のかかっていない一室のドアをこんこん、とノックする。中に誰もいないことを確かめると、素早く体を滑り込ませた。勿論、自分の部屋ではない。

 ベランダに出て、目の前にあった高木の枝に足をかける。上を振り仰ぐと、暗い梢の間に上階の柵が見え隠れした。カーテン越しのかすかな明かりが、半分の月の光とアルの視界を支えてくれた。

「よっ……?」

 ベランダに、誰かの気配があることに気がついた。アルが気がつくと同時に、相手も気がついたらしい。ベランダに寄る気配があった。

「てめぇ、何してやがる」
「!」

 月光に浮かび上がった小さくて白い姿は、いつものようにしかめた顔で立っていた。しかし、その格好だけはいつもと違う、ただ毛布を巻きつけただけの姿だった。

 アルは目を見開いてそれを見た。何故、この部屋にいるのだ。だってこの部屋は――

「フォルトナータ」
「!」
「あだっ!」

 カーテンの向こうから響いた低い声に、少年は眉間に皺を寄せた。返事は返さずに、彼はアルの頭を蹴り落とした。バランスを崩したアルは何とかベランダ裏にしがみつく。

「何をしている、フォルトナータ」
「……」

 ――!

 どんっ!

 鈍い音がした。覗き見た光景に、アルは自分の目を疑う。
 ベランダの柵に小さな背中を打ち付けているのは、見慣れた偏屈な叔父の顔で。皺の寄った、しかし太い腕に細い首元を押さえつけられて、少年は顔をさらにしかめさせた。柵に叩きつけられた拍子に、毛布が落ちて彼の真っ白な体が夜風に曝される。

 ――・・・え?

「……さすが『人形』[バンボーラ]だ。何も言わぬか」
「……」
「それでいい。お前は私の、私の為だけの『人形』だ」

 文字通り、雪原のような胸肌に、点々と。


 痛々しく残る、目に入れるのも忌々しい、穢れた痕が、いくつも、いくつも。


 目を凝らした。首を守ろうとする手首には、握り締められたような赤い指が痕が残って、顔色は酷く悪くて。そのくせに目は虚ろと現実を彷徨っていて、判然としない目つきで静かに自分の首を絞める男を見下した。

 ――な……っ

 声を漏らしそうになる口元を必死で手で押さえた。
 しばらくすると、少年はいきなり解放されて、ベランダの上でひどく咳き込んだ。白い肌に、締め付けられた痕はくっきりと残ってしまう。
 攻め立てていたのは己だというのに、老人は今度は慈しむように彼の髪と頬を撫でて、しわがれた指で首と唇をなぞる。

 ――……

 込み上げた嫌悪感に吐き気を覚える。酒しか口にしていないのに、ひどい胸焼けがした。

「いい子だ、フォルトナータ。お前は私の『人形』であればいい……。フォルトナータ、私の自慢の『人形』よ。
 お前は永劫にここに居ればいい。私にさらなる美酒を注いでおくれ、私の『幸運』[フォルトナータ]」
「……」

「――っ!」
「やめとけ」

 歯を食いしばって、ベランダの柵を蹴ろうとしたアルの首根を抑える手があった。小声の低い忠告が、アルの耳を冷厳に貫く。

「旦那……何で」
「ヨーロッパで俺が侵入できない建物は、女王の宮殿と聖骸布の安置所くらいのもんさね。
 やめとけよ。長居は無用だ。さっさと帰るぜ」
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