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2009/11/03first
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※星一のプロポーズと桐ちゃんへの応援歌
 みんな伸び伸びと恋すべし



 西の本家に到着すると、俺はとりあえず魅月と桐姉さんのタッグに連行される。このとき、不本意にも弟から羨ましげな視線を頂戴するのだが、そんなもんじゃないからな。4歳の保育園児は無敵と言ったが、小学二年生の女子2人の方がもっと無敵だ。そして無法。
 離れの一室に引きずり込まれた俺を待っていたのは、大小様々なグラスの群れだ。水の量も違う。所謂、グラスハープというヤツ。
「今年この曲ね」
 にこにこした桐姉さんから当たり前のように楽譜を渡された。世間一般にはそこまで難しくはないけれど、小学生3人で演奏するには若干、難易度が高い曲だ。西に来ると決まって本家へ神馬を納めている谷地田ファームや町の図書館に招かれるのだが、俺はそこで2人と一緒に一曲披露することになるのだ。一昼夜で。覚えて。なんとかかんとか。
 ちなみに言っておくと俺に特別な音楽の才能なんてものはない。生まれてこの方、才能に恵まれたな、と感じたことはない。なので、この2人による拉致は俺への缶詰練習という鞭である。飴? ないよ、そんなもん。
「……付け焼刃の俺が無理矢理入るより、日頃から練習してる2人の方が上手くいくんじゃ?」
「駄目よ。私とみっちゃんだけじゃ音がとっちらかるの。星ちゃんに指揮してもらわなきゃ」
「往生際悪いわよ、さっさと立ちなさい」
「往生際って。いや、やるけどさ……」
 普通に考えて普通なことを言ってみるも一蹴される。基本的に2人とも俺の話なんて二の次、三の次なので、もうグラスハープに向かって指を伸ばしている。待って、せめて最後まで楽譜は読ませてくれ。
 人の来ない離れにぴん、ともたん、ともつくような高い音色が響く。半ばぶっつけのような精神で2人の間に加わってグラスの縁を撫でる。
 ぴん、たんたん、とん、ぴん。
 ――うーん、まあ、桐姉さんの言うこともわかるっちゃわかるんだけどさ。
 いざ、音を聞くとわかる。音がとっちらかる、というかこの2人の音はとにかく自由なのだ。アレンジのし過ぎだとか、外しているとか、そういうんじゃない。適切な言い方がわからないがとにかく自由。
 本家の住吉神社には御祭神が2柱いるのだが、それに似ている気がする。気は合うし、お互いに近い存在なのだけれど、本質も性格も立場も違う。メノウと呼ばれる火の神様、黒曜と呼ばれる水の神様。そんな2柱に2人は似ている。
 音と音の合間とか、重なった音にもうひとつ音を入れるとか。俺はそういうことをやっている。楽譜は頭に入れて置いた方がスムーズだけど、魅月と桐姉さんの気分で音が変わるから、どう頑張ってもアドリブは生まれる。
 和音は二音じゃできないし、三つ編みは二本で結ばれない。例えるならそういう話なのだと思う。
 要するに俺はバランス感覚だけはいいんだよな。たぶん。


 俺が本家の御祭神に会ったのは5歳の夏だ。正確には会おうとして、後日、仕切り直しになった。
 メノウは大体、曾祖母さまと一緒にいるので、いつでも会えるが、二柱めの弁天様はそうはいかない。この社が祀っているのは、桂清水が湧く桂なのだから、本来、そこにいるはずなのだけれど。俺が生まれるよりも前にいろいろとごっちゃなことがあって、ひとつところにいられなくなってしまったのだとか。
「おばあちゃんの手を離しちゃ駄目だからね」
 いつもふんわり優しい咲お祖母さまが、そのときは少し怖いくらいに強く俺の手を握っていた。
 本社は〝男を殺す〟だとか、〝男が消える〟だとか、そういう異名が歩いている場所だ。だから咲お祖母さまも緊張しているのかも。なんて、呑気に考えていた俺だったが。
「ソイツなら一度、叩き落としてやった方が早いぞ、きっと」
 何とも物騒なことを言ったのが、村主さんである。その瞬間には後ろから瑠那さんに頭を叩かれていたし、結構、豪胆なところのある咲也さんさえ「それはちょっと」みたいな顔をしていた。麒治郎さんが不可解といったふうに眉を寄せてどういう意味かと聞いていた。
「俺を魔法使い、瑠那を魔女と呼ぶなら、ソイツは一番に現役に近い魔法使いだ」
 んん? それこそ、ちょっと理解が追いつかない。村主さんでも瑠那さんでも、まして魅月でもなく、俺が魔法使い? 俺は空も飛べないし、火や水が操れるわけでもないし、歌に不思議な力を込めることもできないぞ? 
 ――それに叩き落とすってどこへ?
 千尋の谷とか、そういう例え話にも聞こえなかったし。
 ――落とす、落ちる……落ちるってことは下の方にってことか。下、下か。
 時折、咲也さんを取り囲んでいる星空のようなものを思い描いた。星空なのか、海の底なのか。はっきりはしないのだけれど、寝惚けて咲也さんを見るとそういうものが見えていたのだ。背中とか足元とかに。
 まあ、そういうときは寝惚けているから、慌てて手を引いたりしがみついて引っ張ったりしてしまうんだけど。ぱちりとちゃんと目が覚めると見えなくなる。でも、引っ張ってしまったことを咲也さんに謝ると、決まって「怖いもの見せてごめんなぁ」と言われるので、まったくの錯覚じゃないんだろうな。
 ――ああいうところに行くのだとしたら、それは〝落ちる〟と言える……のか?
 そんなことを自覚して、試しに板の間の合間をわざと踏み外してみた。すとん、と意識か身体が落ちる感覚がした。


 ふと気がついてみると、星空の只中にいた。顔を上げてみると朱みを帯びた三日月が中天にあった。手を握っている感覚がない。まずい。咲お祖母さまの手を離してしまった。いや、そもそも周囲に咲お祖母さまの姿がかけらも見えない。
 満点の星の中で、羊水に浸かる赤ん坊のように身体を丸めて揺蕩っている。
 どこだここは、とは思った。しかし、不思議なことに動揺は少ない。心配事といえば咲お祖母さまに怒られるかも、という至極、子どもとして相応しいものだけだった。
 ――月が見えるなら大丈夫だ。
 宇宙の中でくるりと半転する。どちらが上で下かわからないが、何故か俺はそんな場所の歩き方を知っている気がした。こういう場所では〝上と思った方が上で、下と思った方が下でいい〟のだ。そう思うとほんのわずかに身体が重力を取り戻して落下した身体が、目に見えない床に着地する。〝道など元々ないのだから、俺が歩いた場所が道になる〟のだ。
 一歩、一歩、浮かぶ星々を観察しながら進む。その度にハープのような澄んだ音が響く。段々と、ここが竜宮と呼ばれる場所かと理解し始める。本家の女性たちが恐れながらも敬い、一族をして守り続けている泣き所。
 青くて綺麗な海の竜宮だという人もいれば、雲の上の天国のような場所だという人もいた。一面の花畑だったという話も聞く。だから、つまり、見る者によってこの空間は変容するものなのだろう。誰に導いてもらったか、というのも重要な気がする。俺の場合は導かれたというか、唆されたというか、自分から落ちてみたというか……。わからないけれど、割と純正な俺のイメージに近いんじゃないだろうか。
 足元に目を凝らせば、明るい水辺がゆらゆらと揺れている。鳥の声も聞こえる。でも空を漂っているのは鳥というより魚だ。熱帯にいそうな、赤や青や緑、いろいろな光を尾びれに纏った魚。あれらは今まで俺が聞いた誰かの竜宮のイメージだろうか。
 ――俺はどうするべきなんだろう?
 はっきり言って〝帰り道〟はわかっている。俺を導くのはいつだって月光が照らす道なのだから、そちらを目指せばいい。何故か、そんなことを潜在的に知っていた。けれど、何か。何かを忘れていて、ここでなければ為せないようなことが、何かあったはずだと本能が警鐘を鳴らしていた。
 歩く度にハープが音を奏でる。意識してリズミカルに踏んでみれば、宙に波紋が浮かんで、とん、ぴん、てん、しゃん、と高いメロディーが鳴った。本家の社で聞く古風な弦楽器のようだ。綺麗で、美しくて、でも何故だろう。
 ――どこか、寂しいような、悲しいような。
 どことなく、孤独を感じる。そんな不思議な空間だ。どれだけ歩いても、足が痛くならないのもおかしい。きっと、ずっとここにいるのはよくないことなんだろう。子どもながらにそういうふうに理解する。
 途中、何か黒い灰のようなものが蟠っている場所があった。竜宮も汚れるのだろうか、と思って試しに息を吹きかけてみたら、子どもの吐息に巻かれた灰はさらさらと溶けて消えていった。跡には星空と水面が元のように綺麗に揺れている。
 そんなことを何度か繰り返して、どこまで来ただろうか。
 急に夜空の星がひとつ、目の前に落ちてきた。翠色の尾を引いて俺の目の前に落下してくる。流れ星というより隕石のようだ。ここは地球ではないから、隕石で俺が死ぬことはないけれど。
 その星はゆらりと燃えて、俺の前で人の形に変化した。向こう側が透けている。人型なだけで人ではない。いや、それよりも。その人型の顔を見てぱちぱちと瞬きをする。はて。竜宮には鏡なんてあるものなのか。一瞬、真剣に考えてしまった。
 何せ、降り立った人型は間違いなく、俺と同じ顔をしていた。年の頃は違うが、確実に俺と同じ風貌だ。
 栗色の髪に、沈んだ翡翠のような翠がかった瞳。両親にはあまり似ていないが、親戚であるところの秦野の家には俺と少しだけ似た色合いの従叔母がいるし、本家の咲也さんの母君だってふわふわした栗色の髪をしている。
 違うところを挙げるとすれば、左眼だけだろうか。その眼だけが異質で、何だか嫌な感じがする。場違いにブルーベリーソースのように紫色で、目玉の中でかちかちと時計の秒針が動いているように見える。不気味だ。これも竜宮が見せる夢なのだろうか。
『それはちょっと違うんだよなぁ』
 のんびりした口調でソイツが言う。口の利き方まで一緒だ。なんだこれ、同族嫌悪? いや、明らかな自分自身に向けて同族嫌悪とは?
『とりあえず、俺はお前じゃない。まあ、俺なんだけどさ。一括りにするにはちょっと違う。お前が俺のことを知っておく必要はまるでないからなぁ』
「うん?」
『わかんねぇだろうなぁ。まあ、いいんだよ。その鈍感さがきっといずれは誰かを救うだろうから』
「ええ……?」
 自分だからって自分を鈍間だと言うか、普通。いや、自分だから言うのか。
『しかし、セキュリティをしっかりし過ぎた結果、ここに辿り着くのがお前だけだとはなぁ。やっぱり、俺、細かい力加減とか苦手だわ』
「……なあ、お前はなんなんだ?」
 うんうん頷かれてもこっちはさっぱりわからない。せめて対話してくれ。お前が俺だというのなら、そういうのを大切にするのが俺の取柄だろうが。腕組みをやめたソイツが、自らの額を、とん、と叩く。
『何。俺はもう死んだ人間が置いていった知識……遺言みたいなもんだ』
「ゆいごん?」
『そう。いつかお前が必要になるんじゃないかと思って、ちょっと〝ズル〟をして、死んだ〝俺〟が持っていた知識を欠片だけ遺していった。うーん、イメージとしてはアクセス権の厳重な、読めるのは一度こっきりの記憶媒体っていうか』
「ちょっとよくわからない」
『だよなぁ。お前、どこからどう見てもガキだもん』
 せめて、もうちょっと大人になって難しい単語とか覚えてから来いよ。と、摩訶不思議な文句を言われた。それは俺を唆した村主さんに言ってくれよ。
『まあ、ようするにだな。お前の頭に直に俺の知識を叩き込む。で、俺は消えるわけだが、俺は俺の持っている〝知識〟を使ってここを散歩くらいはできるようになる。……つっても、せいぜいエントランスをうろうろするのが限界だろうけどな』
「え」
 何せ5歳児だ。ソイツの言っていることは6割くらいしかわからない。けれども、すごいことを言っているのだけはわかった。ここを歩ける。竜宮を。俺が。
「エントランス、ってなんだ」
『んー、浅瀬っていうか、玄関口っていうか。他所様の家に行ったときにうろうろできるくらいの範囲?』
「それくらいだけど、うろうろできんの?」
『そう。うろうろできんの。まあ、上手いこと馴染めばもうちっといろいろできるかもな』
 それは、ちょっと、かなり魅力的かもしれない。短絡的で楽天家な俺はそう思った。だって、それは誰かが迷子になったら、俺はここを探しに来られるということだ。子どもだけれど、本家の女性たちが度々、行方不明になっていることくらいは知っていた。関東の親戚筋にもいる。連れ戻す人は大概、決まっていて大変なんだなと思っていたところだ。
 帰り道だってわかる。ダメなところもあるらしいが、まあ、ダメなところはダメで仕方がない。俺にもできることがあるというのが大事だ。
「えっと、それにはここでいっぱい勉強しなきゃいけないとか」
『だから。その勉強を〝ズル〟してここでやってたの。数百年くらい? それだけかけてそれだけかよ、って感じだけど、元々、反則技みたいなもんだからなぁ』
「え、すぐ出来るようになんの」
『なんの』
 ソイツがなんなのか、いろいろと疑問は残るけれども。でも、俺だというなら嘘はないんじゃないかと思う。だって、俺はそこまで嘘は上手くない。とりわけ自分に嘘を吐く、というのは苦手中の苦手だ。だから、コイツの言っていることは事実なのだと思う。
『いろいろあってね。お前は時間とか空間とかに無駄に相性がいいの。だから、うろうろできる。でも、ここの住人や先人ってわけじゃないから奥まで自由に出入りできるわけじゃない。それでも、まあ、出来ることをやれってことで』
 肩を竦めて小さく笑う。その仕草も、考え方も、なんとなく俺っぽい。
『あ、あとお前、自分が弓の才能があるんじゃないか、とか考えてないよな?』
「え、ないけど」
 父は今から俺に弓を教えるのを楽しみにしている節がある。南部の俺の家は神職についている弓道場で、父はそこの道場主なのだ。俺と少しだけ色合いが似ている従叔母がこれまた弓の名手だから、必然、父は俺に何か期待しているらしいのだが。
 弓は格好いいし、成長したら習うくらいなら抵抗はない。けれど、何故だか今から俺は自分が親の跡継ぎになって、弓を修練して道場を継ぐ将来を結べないでいた。まだ幼くて弓を握ったこともないのに。
『それな。お前の家はここを維持したり、調整したりするのに弓を使ってるんだよ。でも、お前はここに降りてきて直接、掃除できる』
「掃除って。あ、あれ」
『そう、あれ』
 あの途中にあった黒い灰。あれが皆の言う歪みとか、亀裂とか、そういうものなんだろうか。弓とか、笛とか、舞とか。ちょっと変わったところだと相撲とか。本家の人々も、俺たちの家も、何かをして何かをどうにかしていた。
 それを、直接掃除。確かにそれはちょっと〝ズル〟かもしれない。
『凡才の人間は、必死になれないと何か身に付かないからなぁ。だからまあ、お前は弓の名手には逆立ちしたってなれないから安心しとけ』
「安心するのは何か違う気がする」
 まあ、いいか。そもそも自分と他人を比べて優劣が、というのも俺の不得意分野だ。こう、生まれつきなのだが、怒りとか嫉妬とか絶望とか、得意じゃない。長続きした試しがない。
 俺がひとりで納得していると、ソイツがふっと笑った。そっと額に燐光を帯びた指先が触れる。
『お前、帰り道はわかるよな?』
 頷く。
 ソイツがまた綺麗に儚く笑う。自分の顔でそんなことをされると、ちょっと気持ち悪い。似合っていないという自覚、ちゃんとあるんだろうか。
『俺が言うのも難だけどな。お前、今度、頑張るのはほんのちょっとにしておけよ』
 頑張り過ぎて、また泣かせたら洒落にならないぞ。
 よくわからないことを言われて、とん、と額を突かれた。熱が額に集まって、ソイツが顔や身体の輪郭を失っていって、同時に俺の知らない風景が次々と頭に浮かんでは消えていく。眼の奥にちかちかとした痛みが走ったと思えば、すぐにゆるりと浸透していくような感覚がある。
 ソイツがほとんど消えかけた顔の輪郭を、頭上に、地上に向けた。
『しかし、まあ。地上から意識体のソナーが降りてくるのには吃驚したな。さすがは原初の天才。現地に行って身体で覚えるしか能のない最後の凡才とは、格も何もかも違ぇや』
 そんな、本当に、よくわからない一言を残してソイツは俺へと融けていった。さらさらとしたさざ波の調べが聞こえる。星の降るヴィジョンが見える。花のような珊瑚とイソギンチャクが笑っている。鳥の声をした魚が舞う。
 その中で、輝きを失わない月だけを見て追いかけた。


 目を開けると、眉を寄せて祈る親父の顔があった。びっくりした。
 え、ちょっと涙目? なんで?
「お、ようやく起きたか。寝坊助」
 こん、と軽い音がしたので目を向けると母がいた。盆にとっくりとお猪口が乗っている。ここ本家だよな。天井の木目に見覚えがある。こらこら。俺の母親、図々しさ百点満点か。
「だから言っただろう、仁史。コイツはそんなヤワに育ってないって」
「杏。でも、だって、目が緑に光ってたんだ。髪だって栗色だし」
「星一の目は元々、翠色なんだから、光ったら緑なのは当たり前だろ」
 布団に寝転がった息子を挟んで夫婦喧嘩しないでほしい。犬だってこんなもの食いたくない。
「鷹史は戻って来られなかったんだ。だから心配で」
「星一は鷹史じゃない。本家の姫さんだって言ってたじゃないか。鷹ちゃんと星ちゃんは違うからきっと大丈夫やと思う、って」
 ああ、そうか。なるほどなぁ。
 鷹史というのは父の弟の名前だ。社の姫君、咲也さんの最初の旦那になった人。鳶之介兄さんの父親だ。既に故人なのだが、どうも普通に事故とか病気とかで亡くなったわけではないらしい。大人たちの会話を聞いていればわかる。
 そうか。あっちに行って、たぶん奥に行って、それからどうしたかはわからないけれど、ここには帰って来なかったのか。うちの父親は殊更に鷹史さんを可愛がっていたそうだから、軽くトラウマということか。それは悪いことをした。
「とーさん」
 思ったより口の中が渇いていて、怪しい発音になってしまった。それでも短い腕を何とか伸ばして頭をくしゃくしゃと撫でてみる。たぶん、触れるのが一番、安心するだろう。父の表情が崩れて、抱き締められた。ぐえ。ちょっと苦しい。
 それにしても両親がこっちに揃ってるって。まだ2歳の弟は大丈夫なんだろうか。
「英一なら希さんのところにお願いしてきた」
 俺の顔色から読み取った母さんが教えてくれる。それなら、まあ、大丈夫か。いや、大丈夫か? アイツ、しっかりしてると見せかけて、とんだ甘えん坊だぞ。
 そのうち、咲お祖母さまもやってきて同じように抱き締められた。額をくっつけられて熱を測られる。
「お熱、ちょっとあるわね。お腹は? 空いてる?」
「だいじょうぶ。のど、かわいた」
 咲お祖母さまはお湯に柚子と水飴を溶かしたものを飲ませてくれた。お腹が落ち着く。少し恐れていたけど、咲お祖母さまは怒っていないみたいだった。でも、勝手に落ちようとするのはやめなさい、と叱られた。そりゃそうだ。素直にごめんなさいをした。
「母さん。この子、どうなってしまうんだろう」
「落ち着きなさい、仁史。大丈夫。むしろよく自分で帰って来られたものだわ」
 母の杏が呑気に俺の髪を弄り倒している最中、父はしきりに咲お祖母さまに訊いていた。夫婦で温度差があり過ぎる。まあ、二人纏めて慌ててもらっても困るから、うちはこれでいいのかもしれないが。
「星ちゃん、もうちょっと寝てる? ひとりで大丈夫?」
 咲お祖母さまに訊かれた。これは大人の家族会議だな。了解。邪魔せずに大人しく寝てよう。
 こくりと頷くと、咲お祖母さまは両親を連れて出て行った。父はまだ振り返ったりしていたけど、そんなに何度も落っこちたりしないって。
 ごろりと横になったはいいが、当たり前のように眠気はない。ちょっと熱いと言われたが、知恵熱みたいなものだろう。何せ、もう行き方と歩き方と帰り方まで、なんとなくわかる。これが〝ズル〟か。俺を唆した村主さんは知っていたんだろうか。
 ――これで何ができるか、か。
「うーん」
 今頃、大人たちは何を話し合っているのか。ちょっとだけ、自分の立場を客観視してみる。
 俺にとっては「まあ、便利だなぁ」くらいの感覚しかないのだけれど、俺は子どもだ。子どもを守る大人は〝便利〟で済ませちゃいけない。落ち着いたら、たぶん事情聴取をされるんだろうけど、どこまで言っていいものか迷う。
 あとは、俺が南部の家の男子という問題だろうか。本家ほどではないが、うちだってなかなかに複雑なのだ。父の仁史は弓道で本家の神職を手伝っている。叔父にあたる鷹史さんと麒治郎さんは本家の咲也さんに婿入りして、織居の女たちを守っている。鷹史さんは、たぶん、その過程で消えたんだろう。さっき、察した。麒治郎さんが婿入りしたのはその後。当時の女宗主であった桜さまのやや強引な差配があったと聞く。
 しかしまあ、俺の曽々祖父くらいまで遡ると、いろいろやらかしてもいる、らしい。具体的なことは何も聞かされていないが、ちょっと特殊な織居の女性たちを利用した金儲け、とかなんとか。整理してみるとつくづく、うちの家って本家を助けているのか、邪魔しているのか、わからん。
 でも、共通して言えることと言えば、総じて南部の男は織居の女を恐れたり、遠ざけたりしない。
 それは俺自身も同じだ。一歳年上の従姉で、次の社の姫である桐姉さんを怖いと思ったことはない。
「んん?」
 ――なんだか、今、モヤっと?
 こう、第六感のあたりが、モヤっとした、ような。
 ええと、大叔父の新さんが織居の葵さん、つまり咲也さんの母と結婚している。その娘の咲也さんの結婚相手は叔父の鷹史さん、再婚相手は麒治郎さん。次の姫君は桐姉さんだが、今のところ、一番歳の近い親戚の男子と言えば、俺だ。高山や秦野の方面の都さんも望さんも結婚していない。子どももいない。一番上の徹さんは結婚して子どももいるが、なんやかんやで、ちょっと精神的な距離があると聞いた。
「んんー、ええ……? そう、なるのか?」
 ずばっと言ってしまうと、俺が桐姉さんの王配になる可能性もなくはない、と。そういう家族会議だったりする? いやぁ、この時代に? それはちょっといろいろと勘弁なんだが。
 桐姉さんが嫌いとかそういうんじゃない。むしろ、清く正しく親戚の子ども同士をやっていると思う。もちろん、親愛という方向性で。互いにそうであるだろうし、互いにそうだと認識している。だって、なぁ。俺は絶賛、他の女の子に恋をしているし、俺よりわかりやすい男もそういないと思うし。
 俺の目線で言うと、南部の男が選ばれてきたのはどちらかというと姫君が見初めたから、という解釈だった。だって、大叔父も、叔父たちも、きっちりしっかり恋愛結婚だ。麒治郎さんのときに、多少、強引な側面があったとして、愛も恋もなかったわけじゃない。
 思うに、社の姫君はそういう直感に優れているのではないだろうか。伴侶を選ぶ力というか。ちょっと俗っぽい言い方をすると男を見る目というか。この仮説が正しいのであれば、桐姉さんが俺を選んでいる雰囲気は微塵もない。純度百パーセントの親愛と信頼だ。
 ――でも、桐姉さんを支える王配がいないのも事実なんだよな。
 桐姉さんはまだ見つけていない。それどころでも、ないのかもしれない。
 実を言えば、この夏にこっちに来て、桐姉さんと会って驚いた。舌鋒は鋭いが、基本的には奔放で明るい桐姉さんが俯いていたのだ。髪が真っ直ぐになったり、目が緑に光っていたりするより、俺はその方が気になってしまった。
 一緒に商店街を歩いていて、ぽそりと言われた「あの子もああなっちゃうのかしらね」という意地悪婆さんの声にびくついているのにもショックを受けた。以前なら、そんなもの跳ね返す勢いだったのに。
 じゃあ、今は誰が桐姉さんを支えているんだと言われると。それは。
 ――頑張り過ぎて、また泣かせたら洒落にならない、ねぇ。
 あの言葉の意味はわからなかったが、うん。恋をしている相手はもちろんのこと。目の前で女の子が泣いていて、困っていたら、少しでも助けられた方がいい。糸も気持ちも、もつれたり、絡まったりしていいことなんかない。
「……よし」
 きっと、誰にだって、心の支えは必要だ。

「あれ。星ちゃん、もう平気なん? まだ休んでたほうが」
「咲也さん。あのね、お願いがあるんだ。あのさ……」


 夏の花咲く庭に出て、二人の女の子を探す。〝本物〟だったらこういうときに迷わないんだろうけど、いかんせん、俺はちょっと〝ズル〟をしているだけなので、広い敷地を地道に探すしかない。
 とはいえ、まったくアテがないわけでもない。こんなとき、あの二人が空気の悪いところにいるわけがないのだ。いい香りがする花があって、すぐに綺麗な水が飲める場所。それでいて、大人に見つからない場所。深い緑が子ども二人を隠してくれるところ。
 ――いた。
 桂清水の近くにあるパーゴラの裏手。スイカズラの木の下。煉瓦の端に、二人の少女が腰掛けている。
 ひとりはさらさらとした真っ直ぐな黒い髪。俯いていて表情が見えない。
 ひとりは陽に透けるような肩までの真っ白な髪。傾きかけた日を眺めて小首を傾げている。
 二人とも固く手を繋いでいる。何かから身を守ろうとでもしているかのように。
 はた、とした瞬間に白髪の――魅月の美しい朱色の瞳がこちらを向いて、目が合った。口パクで「遅い」と言われる。一応、「ごめん」と返事をする。今は何がだよ、とぼやいている場合じゃなさそうだ。
 魅月が桐姉さんと繋いだ方の手を持ち上げて、ぶらぶらする。
「ほら、桐花。大丈夫だって」
「でも、みっちゃん」
「アイツは桐が思うより、ずーっと単純だから、そんなややこしいことになんないわよ」
「でも」
 桐姉さんの歯切れが悪い。魅月、お前は俺が聞いてるって、わかってて言うことじゃないからな。
「もし、私のせいでみっちゃんと星ちゃんが結婚できなかったりしたら……」
 ――あー……。
 もう、そういう発想に至ってましたか。そりゃなるよな。割とぼんやりした俺が思いつくくらいだから。
 冷静に考えたら、いくら大人たちでも、そんなややこしいことがもっとややこしくなるような真似はしないと思うんだけど。でも、桐姉さんだって社の姫君だ。自分が恋をする人じゃなく、力の強い人や本家のためになる人を婿にしなきゃ、みたいな悲劇的な発想があるのかもしれない。
 くそくらえ、だ。
 わざと音を立てて芝生を踏んだら、桐姉さんが弾かれたように顔を上げた。魅月はその手を握ったまま、ふてぶてしく座っている。片頬を膨らませ、俺を睨みながら。へいへい、来るのが遅くて悪うございました。
「星ちゃん……?」
「桐姉さん、はい、これ」
 オレンジ色の一重咲きの薔薇を一本渡す。華道の修行を積んでいる咲也さんが包んでくれたおかげで、庭から摘んだ一輪でも十分、見られるものになっている。桐姉さんは、ちょっとぽかんとしたまま受け取って、しかし、視線は俺のもう片方の手に集中していた。
 それはそうかもしれない。何せ、俺がもう片手に持っていたのは、天鵞絨のように美しくて瑞々しく咲いた赤い薔薇だったから。
「オレンジの薔薇は、絆とか信頼とか、そういう意味があるらしいよ」
 補足している間も、桐姉さんの視線は赤い薔薇の方に釘付けだった。膝に置かれたオレンジの薔薇がちょっとだけ可哀想な気もしたが、まあ、一種のケジメのようなものだ。
 ――本当は、結婚とか、なんとか。そういうものに縛られる気もなかったけど。
 縛られない気もないからこそ、それでちょっとでも救われる心があるなら、そうするべきだと思ったのだ。そのまま桐姉さんの隣で清々しくふんぞり返っている魅月の前へ跪く。何しろ、5歳児の真似事なので格好よくもなんともない無様さは、この際、勘弁してほしい。
「魅月」
「なに?」
「俺が18歳になったら結婚してくれるか?」
 赤い薔薇と一緒に差し出す。何故か偉そうにしているヤツは、偉そうにしたまま、桐姉さんを見た。不満そうにしていた面を仕舞い、どうよ、みたいな見せつける顔をしている。
 いや、どうよ、じゃねぇんだよ。この体勢、そこそこ恥ずかしいんだから、早くしてくんねぇかなぁ! ああ、そうか。俺が恥ずかしいとわかってるから、余計にもったいぶってんのか。そういうヤツだったよ、お前は!
 目をぱちぱちしている桐姉さんを見て、ようやく気が済んだらしい。やけにそれらしい手つきで薔薇を受け取ってくれた。
「仕方ないわね。三食昼寝付きよ?」
「お前の場合は、昼寝しすぎると夜更かしするからその部分は却下」
「何それ、クソ生意気な」
 ぎゃあぎゃあ言い合いながら俺もやっと煉瓦に腰を下ろす。魅月の隣ではなく、桐姉さんを挟んで反対側に。ぽかんとした桐姉さんのもう片手を握って、魅月がやっていたようにぷらぷらする。
「そういうわけだからさ。桐姉さん、ぜひ証人欄に名前書いてよ」
「星ちゃん……」
「桐姉さんが、誰かいい人を見つけるまでは、こっち側の手は俺が何とか支えとくからさ。それでよくない?」
 一人が一人を支えているだけじゃあ、たぶん、ダメだ。それだと、もし転んでしまったら、手を繋いでいる一人を巻き込んで倒れてしまう。でも、三人でなら一人が少しくらい躓いたとしても、引っ張り上げるのだって難しくない。
 いつか、桐姉さんの体重ごと、心ごと、抱き締められるような騎士さまが現れるまでは。
「桐姉さんは、魅月の姉で妹なんだからさ。ちゃんと俺のことを見張っててもらわないと」
 俺は天才でも秀才でもない。きっと、これから何度でも選択を間違える。そういうとき、間違いを指摘してくれる家族や友人が必要なんだ。俺には。
 桐姉さんの顔がくしゃりと歪む。目の端に何か見えたような気がしたけれど、俺も魅月も何も言わなかった。
「あのね、私、夢が出来ちゃった」
「夢?」
「うん。あのね、結婚のお披露目ってお色直しがあるでしょ? アレって仲良しの女の子が花嫁さんをエスコートするでしょ? 絶対、私がみっちゃんをエスコートする!」
 にっこり笑った桐姉さんの顔を久しぶりに見た。
「だからね、星ちゃん、ちゃんと結婚式のお金は貯めておいてね。あと、今は薔薇で許してあげるけど、やっぱり指輪もなくちゃダメよ。私、二人のプロポーズのダシにされるなんてイヤだもん。ちゃんと二人っきりでもやってね!」
「仰せのままに」
 よしよし。段々、調子が出てきた。18歳が目標にするには随分と高いハードルだ。まあ、でもいずれは嫌でも大人になるのだから何とかなるようにするしかない。頑張るだけ頑張ってみるか。
「あとね」
「うん?」
「今日は、二人で同じ部屋で同じお布団で寝てね。婚約して初めての夜はイチャイチャするものでしょ?」


 スイカズラの下で行われた小さな婚約式は瞬く間に大人たちの知るところになった。
 まあ、咲也さんに手伝ってもらったのだし、そうでなくとも、ここの社には何でもかんでも伝達する妖精がうようよしてるのだ。知れ渡るのに一時間も要らない。
 俺の行動は概ね寛大に好意的に受け取られ、どことなくほっとした顔の大人たちに歓迎された。よかったねぇ。ほっとしたわ。これじゃあ、反対なんて出来ないわね。
 うんうん。よかった、よかった。本当は誰も桐姉さんに、パズルよろしくちょうどいい男を当て嵌める、なんてことはしたくないはずなのだ。ただ、大人には立場とか責任とかがあるだけで。俺だってそんな未来は御免被る。
 意外にも特に喜んだのは咲お祖母さまだ。咲お祖母さまは魅月からすると大叔母にあたるのだが、魅月の母親の瑠那さんの面倒を子供の頃からみていた。だから今までだってほとんど孫扱いだったのだけれど、大っぴらに本当の義孫として可愛がられるのが嬉しいらしい。
 今から魅月にどんなウェディングドレスが似合うかとはしゃいでいた。珍しく、そんな咲お祖母さまに魅月の方が頬をひきつらせていた。咲お祖母さまは、大変、可愛いものがお好きだからなぁ。フリルとか、レースとか、リボンとか。まあ、俺も魅月には割とシンプルなドレスの方が似合うと思うので、いざというときは助けてやろうと思う。元が華やかな美人系の顔立ちだから、ドレスの方が負けても可哀想だ。
 俺はその夏の間は本家に預けられて様子を見ることになり、両親は2歳の弟のために先に帰っていった。父の方はまだ俺を気にしていたが、甘ったれの2歳児の弟を残しておくのも不安である。丁重に母に連れ帰ってもらった。
 そして、夏の間、やたらに麒治郎叔父さんや大叔父の望さんに構われた。いや、ちょっと違うかな。麒治郎叔父さんは正しく構ってくれるのだけれど、望さんには度々、複雑な目で見られるようになった。いや、なんで。思わず、瑠那さんに零してしまったら変な答えが返ってきた。
「殴るに殴れない事案が二世代続いたから、勝手にもやもやしてんじゃない?」
 あと、爪の垢を分けてくれないか、と割と真剣に訊かれた。
 怖かったので辞退した。ねえ、誰に使うの、それ。
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