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2009/11/03first
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※自覚した途端にいろんな段階をホップステップジャンプする夫婦(都ちゃんごめん)
※のんちゃん旦那の口の悪さが遷った瑠那がごめん




 佐伯さんが何故、外ではイタリア語しか話さないのか。それは住吉の近くの商店街に入ってからわかった。あの容姿だから彼はどこにいたって目立つし、注目されるのは必然なのだけれど、それは商店街の中も同じだった。
「あら、まあ、瑠那ちゃん。今日もおつかい? まあ、旦那さんも一緒でいいわねぇ」
「こんにちは、ご無沙汰しております」
 馴染みの橘さんで桜さんの好きなお菓子と神社へのお土産を買って外に出たところで、声をかけられた。買い物袋を提げたふっくらしたおばさんだ。
 私に面識した記憶がないということは、神社と長く付き合っているお店屋さんとかではなく、単純に近所でよく見かける参拝者なんだろう。如何にもお節介そうなおばさんだ。声をかけられた瞬間、瑠那が笑顔になって私を隠すように立ち位置を変えたからきっと間違っていない。
 人のよさそうな笑顔をしたおばさんだが、なんというか、綺麗な感じがしない。同じくらいの歳の咲さんは傍にいるだけでほっとできるのに、この人にはそういう感じがない。
 おばさんは瑠那と後ろに立っている佐伯さんに軽く会釈をする。瑠那は会釈を返したが、もちろん、そんな文化などない佐伯さんは返さない。途端におばさんはイジワルそうに眉をひそめて、所作だけは楚々とした感じで口元に手を当てた。
「ねぇ、瑠那ちゃん? 大丈夫? ほら、おばさん心配なのよ」
「何のことでしょう?」
「もう、旦那さんよ、旦那さん。お辞儀も返してくれないし、こんにちは、くらい覚えてくれたっていいじゃないの。おばさんだってハローくらい知ってるのよ?」
 佐伯さんが喋ってるのは英語じゃないんだけど。何それ。
「彼はまだこちらに来たばかりですから。すみません」
「それに瑠那ちゃん、騙されてない? しばらくずうっと連絡がなかったんでしょ? 他に女がいるんじゃない? ちゃんと調べた? あの顔はそういうことする顔よ。おばさん、わかっちゃうんだから」
 何それ。
「お気遣い痛み入ります。私なら大丈夫ですから。……ああ、そうそう。次のお茶会ですが、秋に向けて新しいお菓子を出したいそうで、参加する皆さんから意見をもらいたいと言っていましたよ」
「あら! そうなの。じゃあ、久しぶりに顔を出しちゃおうかしら」
 何なのそれ。
 いくらなんでも言っていいことと悪いことがあるんじゃないの。瑠那は妊婦なのよ。日本語が通じないと思ってるんだろうけど、佐伯さんは目の前にいるのに。言語が通じなくても悪意や害意は伝わるのに。
 不自然なくらいに満面の笑みを張り付けた瑠那の後ろで、私は服の上からぎゅっとドンちゃんを握りしめていた。ドンちゃんが怒っては駄目と私を宥めてくれる。
 車内に入って怒号が飛ぶと思っていたのに、運転席の佐伯さんが大声で笑い出して、瑠那が呆れた溜め息を吐いたので、私は文句を言うタイミングを逃してしまった。
『くっくっく、あっはっは! やっぱり他人を試す一番の試金石は余計なことを喋らねぇことだな。聞かれてるとも知らねぇで実に滑稽、ザマぁねぇ』
「まったく悪趣味。都、気にしないでいいわよ。コイツ、これで他人を玩具にして楽しんでるんだから」
「でも! ひどいわ、あんな言い方ないじゃない!」
「仕方ないわ。如何にも女をとっかえひっかえ遊んでますみたいな悪人面なのは反論しようがないし?」
『くくっ、手厳しいねぇ』
「でも」
 まだ出会って数時間しか経っていないけどわかる。佐伯さんはとても一途だ。それからどんなややこしい問題があっても逃げない。逃げるとしてもきっと瑠那を連れて逃げてくれる。彼女を大事にする。
 会って数時間の私がわかるのに、あの人はわかろうともしていない。なのに、瑠那は肩を竦めて、怒ると雷呼んじゃうわよ、と私を宥めすかす。
「仕方ないのよ。村主の顔もだけど、あの年頃のおばさまでしょ? あの人にとって男は平日昼間、外に出てあくせく働いて女房子供を養うのが当たり前なの。嫁の実家に寄生して真っ昼間から遊び歩いてるように見える男はろくでなしなのよ。先入観と価値観と世代の問題が渋滞起こしてるんだから、変われという方が酷な話だわ」
 そういえば容姿に圧倒されて、佐伯さんの職業を訊いていなかった。本当に住吉に寄生しているようには見えない。
「佐伯さん、実際に何をしているの?」
「在宅のハッカー」
「ハッカー」
 それは、確かに商店街のおばさまには理解されないかもしれない。守秘義務も多そうだし。イメージだけど家族にも言えることの方が少なさそうだ。
「大仕事を片付けた後で暇だから、いくらでもタクシーに使えるわよ。お小遣いもね」
『なんて人使いの荒ぇ嫁だ』
「なのにお義母さんと咲さんにも困ったものだわ。格安の下宿の賃料しか受け取ろうとしないんだもの。来月の離れの光熱費がとんでもなくなるから、って何とか相場は受け取ってもらったけど」
「新婚になるんでしょ? ずっと離れで同居するの?」
「ううん。まだ先になるけど近くに住む予定よ。というか、勝手に誰かさんが土地買っちゃっててね」
「土地」
 在宅のハッカーって顧客も自分で取らないといけないんじゃないのかしら。そこまで儲かるの? もしかしなくても佐伯さんてすごい人なんじゃないだろうか。そんな予感はしてたけど。
 そういえば瑠那は指輪をしていない。佐伯さんの腕を見れば理由はわかる。
 でも、え、もしかしてその代わりだったり? ええ?
「どこかのアパートかマンションに引っ越してもよかったんだけど、お義母さんたちがどうしても、って」
「そうなるわよ。みんな、ずっと瑠那のこと待っていたんだもの。いきなりお嫁に行くから別居なんて寂しいわ」
「……うん」
 瑠那が住吉の娘の顔ではにかんだ。綺麗な笑顔だ。
 運転席の佐伯さんが、何か納得したようにああ、と呟いた。
『それもあるのかもしれねぇな』
「何が」
『今朝の話』
「うん? え、どの部分の話?」
『お前、俺の仕事の話、言ったか?』
「言ってない」
『俺も言ってねぇ』
「あ」
「何? どうしたの?」
 夫婦間で何か通じ合っている。でも、けして二人だけの内緒話というわけでもなさそうだったので訊いてみた。瑠那は少し唸って、言っていいのかな、と自問した。悪いわけがない。
「ノン太があまり村主のこと、気に入ってないみたいなのよね。いや、それは言い過ぎなのかしら? 何かこう、ちょっとした溝がある感じ?」
「兄貴? ええ? そうなの?」
 住吉に下宿している私の兄、高山望のことを瑠那は〝ノン太〟と呼ぶ。彼女が少女時代からのあだ名だ。半分は血が繋がった歴とした兄妹なのだけど、私は幼い頃から兄と一年に何度も会わない生活をしている。というのも、私は力が強すぎたためにある程度の年齢になるまで住吉の御社から離されていたし、兄はその逆で鷹ちゃんやサクヤのためにずっと住吉で下宿生活をしていた。
 だからって不仲というわけでもない。兄は金だの銀だののメッシュが入った髪の妹を嫌ったりしなかったし、会えばそれなりに甘やかしてくれた。物理的に距離が離されていただけで、私と兄の間に蟠りのようなものはない。
「兄貴がそんなこと気にするかしら?」
 兄は6歳の頃から鷹ちゃんの遊び相手だった。鷹ちゃんは銀の髪に金の目を持っていた。今さら佐伯さんの髪や目にとやかく言ったりしないだろう。驚くくらいはするかもしれないけど。
 仕事のことも。鷹ちゃんは一言も喋らずに空を飛ぶような子どもだったから、小学校に行かなかった。やっと人並みに足で地面を歩き始めたと思ったら高校を中退してアメリカに行ってしまうような人だ。つまり型破りな人材には慣れている。
 それに瑠那の配偶者の職業とか甲斐性とか、兄貴が心配することなのだろうか。光さんだったらわかる。葵さんも心配する権利がある。兄貴は一族の一員で、若い頃から瑠那の兄貴分だったけど、その二人が納得しているなら兄貴が反対するようなことじゃないんじゃないの。
 兄はへらへらしてるように見えるけど、その分、フレンドリーだ。私の一番上の別の兄と私の母には、それこそ未だに埋まらない溝のようなものがあるのだが、その溝をずっとへらへら調停していたのが二番目の兄の望である。
 誰かの反対にまあまあと割って入っていく姿は思い描けるが、誰かと溝を作る姿はちょっと思い浮かばない。
『別に俺は構わんがね。万人に好かれるような性格でも顔でもねぇことは、俺がよーく知ってる』
 佐伯さんが締め括ったところで住吉の裏手の駐車場についてしまった。


「別に反対したいわけでも嫌ってるわけでもないさ。頑固おやじじゃないんだから」
 リモンチェッロのソーダ割りを呷りながら兄が言う。
「なら、認めてやれや。リモンチェッロ、美味いやろ」
「認めてないわけでもない」
「面倒なやっちゃな」
 同じグラスを傾けながらきーちゃんが言う。私もご相伴に預かっている。しゅわっと口の中で弾けて爽やかなレモンの優しい甘さが舌に広がる。美味しい。石から戻ったドンちゃんに分けてあげたら喜んでいた。
 きーちゃんがしみじみと、やっぱり作ってやりたい相手がいるとちゃうんやなぁ、と呟く。
 リモンチェッロは瑠那が作ったらしい。台所では瑠那がグラスを並べていて、佐伯さんがからころとグラスの氷を鳴らしていて、葵さんがちびちび飲みながら涙ぐんでいた。
 葵さんはずっと心配していた娘が屈託なく笑うようになってから涙腺がおかしいらしい。一日に何度もそういうことがあるのだとか。お義母さん、こんなことで泣かないでよ、と何度も瑠那が肩を竦めていた。
「ちっこい頃は中の身ごと芋の皮剥いてたのになぁ……。もう結構なかなかだぞ? 都、夕飯のズッキーニのきんぴら、美味かったやろ。アレ、作ったん瑠那やぞ」
「え、そうなの? きーちゃんにしてはちょっと切り方が厚いかなと思ってた。でも、美味しかったわ」
「だろ? 今のうちに花嫁修業させとかんと、腹が邪魔になったらそうもいかんし」
 なるほど。瑠那が最近のきーちゃんは母親みたいと言っていた。住吉の台所は男でも女でも関係なく腕を奮っているが、佐伯さんは腕がアレだ。物理的に難しいからきーちゃんが張り切ってるのか。
 まだ酔っ払ったわけでもないだろうに、兄貴が項垂れる。そんな歳でもないのに、何だか娘の結婚式に出た直後の親父みたいだ。もしかして本当にそういう気分なんだろうか。佐伯さんが気に入らない理由ってそれ? だったら立派に頑固おやじじゃない? こんな兄貴は初めて見る。
「麒治郎だって、アイツに嫉妬してたじゃないか。サクヤが殊の外、気に入ってるから」
「え、そうなの?」
「そんなん、反射やろ。しゃあない。サクヤやって話し相手が増えたら、そら喜ぶ。義妹の男に本気で妬いてどうする。大体、アイツは瑠那しか眼中にない。見とったらわかるやろ」
 頭の回転が速いから御社の姫も気に入ったのかしら。鷹ちゃんも天才児だった。
「俺さぁ、まだアイツが向こうにいるときに訊いちゃったんだよ。プロポーズされたのか、って。何か欲しいものないのか、って」
 佐伯さんは瑠那より数ヶ月遅れて来日してきたらしい。その間、瑠那は彼のことについて何も喋らなかった。妊娠がわかっても相手の男については黙秘を貫いていたそうだ。兄は随分と気を揉んでいたらしい。悲愴な心境はわからなくはない。
「そうしたら?」
「……あいつ、なんも要らないって。お腹の子どもの名前を考えてくれたら、それでいいって」
「いじらしいじゃない」
「あのくらいの歳の女の子が言っていいことじゃないだろ」
「兄貴、もう瑠那はランドセルを背負ってないし、セーラー服も卒業したのよ。そりゃあ、佐伯さんの腕じゃあ、お姫様抱っこは難しいかもしれないけど」
「ほうやほうや。瑠那のために腕吹っ飛ばされてもしれっとしとんやから、今さら殴らんでもええやろ。なんのダメージにもならんぞ」
 きーちゃんが唐突に物騒なことを口にしたのでびっくりしてしまった。兄貴も驚いている。初めて知ったらしい。きーちゃんは兄貴の反応を見て、なんや、気づいとらんかったんか、とリモンチェッロを飲んだ。
「俺も聞いたわけやないぞ。でも、腕の話すると瑠那が泣きべそ掻きそうになっとんわかるやろ。ほいで、ずーっとアイツの左側から離れんやろ。取りたいもんがあったら代わりに持ってっとるし。詳しいこと知らんが、そういうことやろ」
「……そんなこと、アイツ一言も」
「やから。そんなん聞いたら光じっちゃんかて、なんも反対できんやろ。言わんでいるのがアイツなりの誠意みたいなもんなんやろ。……まあ、世間からズレとるから、素で言わんでいいて思っとるかもしらんが」
 兄貴がぐう、と唸った。ぱちぱちと瞬きしている。おそらく、佐伯さんが来てからの瑠那の様子を思い返しているに違いない。唸ったままでいるところを見ると、きーちゃんの説は結構、説得力があるらしい。
 そうよね。そんなこと言われたら、誰だって反対できない。
 襖がとんとんと叩かれてすい、と横滑りした。
「都、お風呂湧いたそうだけど、どうする……何、ノン太、何してるの。潰れてるの?」
「なあ、瑠那。お前やって望に気持ちよく送り出してもらった方がええやろ?」
 顔を出した瑠那にきーちゃんが問いかける。一瞬だけ考えた彼女だけど、すぐに何のことを言っているのか察したらしい。
 軽く腕を組んで、米神に指を当てる。猫のような丸くて愛らしい瞳がちらりと兄貴を見た。
「別にいいんじゃない?」
 あっさりというかばっさりした彼女の回答に兄貴が潰れたカエルみたいな声を出す。
「そんな感じのノン太、初めて見たわ。なんていうか、ジタバタしてるっていうの? 面白いじゃない。いっつも妥協してみたり、折り合いつけてみたり、納得するフリをしてみたり。のらくらしてるんだから、たまには衝突してジタバタすればいいんだわ。でないと自分の番がきたとき本格的にチャンスを逃しちゃうわよ」
 瑠那は意味ありげに、にやりと笑った。何だか腹に一物ありそうな笑顔が佐伯さんに似ている。夫婦は似てくるものと言うけれど、もう似始めているのかもしれない。
 私にもう一度、お風呂が湧いていることを伝えると、栗色の髪を颯爽と翻して去っていく。
「よかったな、ノン太。義兄離れは完璧だぞ」
 きーちゃんが兄貴にとどめを刺した。


「どれくらいから佐伯さんのこと好きだったの?」
 お風呂上がり。乾かした髪に丁寧に櫛を通している瑠那に訊いてみた。
 お風呂場に隣接した西向きの小部屋は、夏にはちょうどいい涼み場所になる。ガラス張りの窓辺から夏の虫の合唱が聞こえる。十五夜には遠いけど、膨れた綺麗な月が見えた。明日は晴れそうだ。並んだ藤椅子にかけながら湯冷ましの麦茶を飲む。瑠那は髪を梳きながら、私は馴れない手つきで乳液でフェイスマッサージをしながら。
 髪も肌も手入れを怠っていると他の魔女たちに怒られるのだ。若いんだから今からちゃんとケアしないと。咲さんや紫さんの口癖である。
 私はともかく瑠那は昔から咲さんの和裁教室の広告塔の一人だったから手馴れている。せめて手入れでマシに見えるのなら、という意識があったそうだ。今はそれだけじゃなさそうだけど。
 櫛を置いた瑠那が星空を見上げながら、首を捻っている。初めての友だちとの恋バナだ。恋バナというものは訊いたことと同じ質量のことを話さなければいけないから今までしたことがない。でも、瑠那は私には無理に訊いて来ないとわかっていたから訊いてしまった。
「いつから好きだったかは、正直、覚えてないの。一目惚れでなかったのは確かだけど」
「一目惚れじゃなかったの?」
「だって、いくら顔が良くてもあの性格よ? アイツが初めて私に会って言った言葉、想像できる?」
「なんて言ったの?」
「『日本人だと聞いちゃあいたが、貞淑通り越して如何にもねんねな小娘だな』よ。ムカムカしてその日は眠れなかったわね」
 わあ、それはなんというか、彼女のコンプレックスど真ん中だ。なんだろう。こう、佐伯さんのビジュアルだけで判断するなら言いそう。言いそうなんだけど、私はもう昼間の彼の側面を見てしまっているから混乱する。
 そもそも私の周りって割と結婚前から仲がよかった夫婦が多いから想像しにくい。鷹ちゃんとサクヤは幼児の頃から住吉の王子様とお姫様だったし、きーちゃんだってサクヤと再婚する前から彼女にベタ惚れだ。うちの父も母のノロケを娘に語る。お節介な親戚がいろいろ五月蠅かっただけで、夫婦の仲が悪いわけじゃない。何だか新鮮だ。
「でも、同じ家に住んでいるから無視もできないじゃない。そうしたら、何だかいつのまにかアイツの仕事を手伝う感じになってね」
「ハッカーの?」
「それもあるんだけど、まあ、いろいろ。うん、それが思ってた倍以上に面白かったし楽しかった」
 照れくさそうに零す。かわいい。好奇心旺盛で勉強熱心な彼女のことだ。第一印象はさておいて、ぱたぱた傍でよく働いたはず。かわいい助手が常に傍であれこれ世話を焼いてくれるのだ。佐伯さんじゃなくたって絆されてしまう。
「でも、危ないこともあってね。詳しく言えないんだけど、一歩、間違えればどっちか……ううん、二人とも帰って来られなかったかもしれないようなこともあって」
「え、大丈夫だったの!?」
「そりゃあ、今、ここにいるんだもの。結果的にはね。でも、明日、そういうことになる可能性もあるんだって思ったら……すごく怖くなった」
 そのときのことを思い出してしまったのか、瑠那は両腕を抱きしめてふるりと震えた。椅子にかけていたカーディガンを肩に被せる。ほう、と息を吐いて落ち着いてくれた。ありがと、と言った後に白かったその顔がさっと赤くなる。俯いてぽそぽそと小さな声で続きを口にする。
「だからその、つい……いい、って言っちゃったのよねぇ……」
「うん? 何を?」
「ええと、だから」
 頬を染めたままそっとお腹に手を当てる。ゆっくり擦る。耳まで赤い。どうしたんだろう。赤ちゃんがきゃらきゃら笑って炎の蝶がひらひら舞う。ちゃんと元気だけど痛いんだろうか。突っ張ってるとか。
 しばらくリィンリィンと虫の声だけが響き渡る。えっと、とまた歯切れの悪い声を聞いて、ようやくはっとした。途端に顔に血が集まってかあっと顔が熱くなる。
「わ、わかった! う、うん! わかったわ!」
 頬の熱が引かなくて麦茶を一気飲みする。暑い。ちょっとのぼせてしまいそう。つくづく私って鈍い。
 瑠那も赤い顔のまま麦茶を飲む。ふう、とお互いに一息を吐く。
「そんなわけだから、実はつり橋効果って言われても仕方ないのよね。つり橋がぐらぐら揺れなくなっても変わらなかった、っていうだけで。ごめん、都、大丈夫?」
 すう、はあ、と深呼吸をする。うん、大丈夫。
「大丈夫。何だか映画みたいな話で圧倒されちゃって」
「映画だったらエンドロールが用意されてるんだけど、残念ながら人生は続いちゃうのよね」
 確かに映画だったら喜劇だろうが、悲劇だろうが、エンドロールでおしまいだ。物語は終わり。登場人物は役者に戻ってまた別の物語に身を投じる。でも人生はそうじゃない。いつまでも幸せに暮らしました、では終わらない。どこまでも容赦なく続いていく。
 けれど、星空を眺める友だちの横顔を見ていたら、彼女は大丈夫なんじゃないかと思えた。だって緑にも青にも見える彼女の目が見つめているのは、今も夏に輝くサソリ座のアンタレスなのだ。赤くて強く遠くまで光が届く彼女の王子様、いや、彼女はもう王子様には憧れていないのかな。ともかく大事な人の色。
 きっといろいろあるけど、彼女たちは大丈夫だ。
「……そろそろ湯冷めしちゃうわ。妊婦が身体冷やしちゃ駄目よ。戻ろう」
「そうね。都も今日は引っ張り回してごめんね。ゆっくり休んで」
「ううん、楽しかった。また明日」
「うん、また明日」
 あんまりに、見たことがない顔で瑠那が笑うので、ちょっとだけ兄貴の気持ちがわかってしまった。
 そうよね。こんなに可愛くて綺麗な笑顔を独り占めされちゃうのは、少し悔しいわよね。

 でも、彼女を拾った桜さんはきっと喜んでいるんだろうな。
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